たかがセックスじゃ何も救われない問題について

 私はさんざん自分が美しい女性とのセックスに重点を置いて生きていることをぶちまけてきました。もはやこんな気色の悪い奴の言動を読んでくれている、私好みの女性は居ないでしょう。

 ただ最近気がつきました。思いを遂げてすべてが終わるわけではないと。

 仮に私の信条通りにセックスが実現したとして、それですべて終わるのかという問題があるのです。

 古典的になりますが、私は源氏物語を読みました。光源氏が退場するあたりまでで、そこから先はぐだぐだになって読んでないんですがね。

 関係ないけど昔の人も、なかなかこの長い物語を読めなかったようです。昭和、大正、明治あたりの教養ある人でも、どこかの帖(確か章みたいなものだった。区分がある)で読むのをやめることが多かったそうです。そういう言い回しがあります。

 光源氏は、現代のハーレム系転生主人公もかくやというほどのもてっぷりで、それはもう、ことごとく美しい女性たちをものにしていきます。おまけに、京の都にはハーレムの女性たちを住まわせる御殿まで建て、とびぬけた出世を成し遂げます。葵の上とか、六条の御息所とか、まあちょっとあれなエピソードもありますけど。
 完璧じゃねえか、畜生が、と思ってたんですけれどね。じゃあ本人が幸せかというとそうではないようなのです。ネタバレになりますが、光源氏は物語からその死によって退場します。

 死ぬ少し前、源氏は本命だった紫の上との間には子ができないまま先立たれてしまい、世をはかなんで出家したいと考えます。けれど源氏のいない宮廷が寂しいという周囲の声により、無理をして宮廷に残り、楽しくもないまま病にかかって死んでしまうのです。全てを成し遂げた男の最後にしてはあまりにも悲しくはないでしょうか。

 たかがセックスを簡単に成し遂げようと、こんな死に方をするっていうのか。これは物語だけれども。

 そういえば、私が好きなThe clash(70年代イギリスのパンクバンド)の歌のどっかにも、『尼さんをファックする奴もいつかは墓の下』なんて歌詞があった気がします。

『残念だったね。首尾よくセックスが叶おうと、そっから先があるんだよ?』 

 そういう、キュウべえじみた嘲笑が聞こえてきそうです。聞こえないけれど。

 しかし私は絶望するばかりです。なんだそりゃ。まだ先があるのか。今ここまで苦しいのに、まだその先があるのかよ。

 ありますよね。一般的な所でも、結婚、家庭、家計、子育て、教育、介護あたりか……? 恋愛、セックス、と行った先も、これほど大量の関門と問題が控えているんです。実際、恋愛とセックスが達成できても、こういう、いまいましいものに引っかかって地獄を見ている人は少なくないのではないでしょうか。

 一段目の恋愛、セックスで引っかかっている私には、もはや人間を名乗る資格すら、ない気がしてきます。

・でも生きてたいんですよ

 というか社会の邪魔だろうと死んでなんぞやるもんか。ジョジョ4部の吉良みたいに思います。『私は恋愛すらできない童貞だけど、幸せに生きて見せるぞ』って。そうとでも思っていないと、普通の圧力に心がぺしゃんこにされて殺されてしまいそうですから。

 なら面倒だけど戦う方法を見つけましょう。ひとつの糸口は、気にしないという方法でしょうか。

 いくら気持ちだけが辛いといっても、ガンダムF91に出てくるバグみたいなドローンが、そこらを飛び回って恋愛経験のないやつを殺傷していくわけでもありません。鉄血のオルフェンズで三日月が乗った最終決戦時のバルバトス・ルプス・レクスみたいなおっかない機体がワイヤーを振り回して童貞を刻み殺していくわけでもありません。

 つまり恋愛しないことによる、暴力的な命の危機はないということです。いくら苦しくても人から殺されることはないんですね。これは大きい。

 もうちょっというなら、ほかに持っているものを見つけることでしょうかね。

 幸いにして私は生活に困っていません。後は、性交渉しないことによる利点もあるか。COVID-19の原因になる濃厚接触はあり得ないし、それ以外の伝染性の性病の心配もありえませんね。後は、寂しさはあるけれど、子供を持ったという責任からも逃れられます。少なくない人が命を賭け、あるいは実際に死んでいく、『子供を生かす責任』に潰されずにも済むのです。

 なんだか後ろ向きな楽しみばかりですが、恋愛しないことによる利点をかきあつめると意外と幸せに生きて行けそうです。

・なら問題はないのか?

 あります。多分。恋愛は深い人間関係です。性交渉を通じて自分の自信を確かめる、全くの他人とイチから深い感情のつながりを築いていくというのは、人の心の発達にとってかなり重たいことではあります。

 どこかで人と愛し合えるということを補充しない限り、私の心は歪んだ変化をくりかえしていくでしょう。

 後、つがえない、という事実と孤独は、一見分からない精神ダメージとなってじわじわと心を食らっていきます。

 心の傷は認知の歪みにつながりやすく、歪んだ認知は体が動く間は怒りと憎悪になり、動かなくなれば凄まじい失望となって死に誘ってくるでしょう。三十代の今はまだ、生ぬるい苦しみと流せるかもしれません。でもいよいよ命の終わりが近づくとき、孤独だったという事実はどれほどの衝撃でもって死に向かう私の後悔と苦痛を彩ってくれるのか。まあ、なにかで今日、明日にでも即死して終わるかもしれませんけどね。

 社会的にも、モテない奴、社会に適合できない奴、という烙印と共にじわじわ小馬鹿にされ続けるでしょう。オタク作品ですらも、いき遅れ独身いじりはいまだに見掛ける始末。555にあった首が折れる音みたいに、首の骨圧し折ってやりたいですが、どうせこの世は恋愛できる人が多数派ですからそれも望めません。そんな虐殺は可哀そうでできません。

 自分のことばかり? そんなものでしょう私は。恐怖と絶望、怒りと失望で人を信じられず女性を愛せない男性なんぞ、そんなもんです。

 こんな言葉を吐き捨てる奴が、幸福になれるはずがありません。

 でも幸せになりたいのです。生きている限りは。

 こんな言葉を吐き捨てるような奴をやめるためには、人を愛せなければなりません。しかし、怖くて人を愛せない、わがままで、元から美しい女性しか愛せないがゆえに、私はこんな言葉を吐き捨てる奴なのです。

・妄想の中に

 現実が駄目なら、妄想の中で私を救えばいいとおっしゃいますか? 確かにそれは、良い方法ですね。

 しかし私は人間が人間を愛する作品が好きなのです。温かい心を持った人に惹かれます。辛い事や苦しい事を克服して、自分の気持ちと素直に向き合い、傷ついている人を救おうとする人が好きなのです。

 今私がカクヨムで連載している、『銃と魔法と断罪者』では、主人公達をそういう人間として描いているつもりです。だから私は彼らが好きです。辛い展開はこっちも辛い。戦争、紛争を描いている以上、避けられないことではあるのですが。

 ただ私自身に、そんな勇気など毛筋もありません。自分を信用できず恐怖で身がすくむばかりです。そして私自身、そんな私を殺したいほど嫌っています。自傷行為はやったことないけど。

 こんな歪んだ奴が歪んだまま人に好かれて救われるような話を流布しては社会に申し訳が立たないと思います。実際、作ったところで、歪んだ私のような奴が救われる話は、光速で一次落ちする話にならない作品ばかり。こんな勝手な私が、人を愛せず苦しんでいるということは、世界が正常だということの証左でしょう。

 今日も書きましょう。この素晴らしい世界を見つめて、痛む心をひきずりながら。
 
 大丈夫です。法律さえ侵さなければ怒られません。私が歪んでいても、三日月がバルバトスに乗って襲いかかってくることはありません。

 とりあえず、今日も明日も死にたくないし、生きてしまうんだから。

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