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色多き人生

人には「色」があると思う。
イメージカラーみたいな、そういうやつ。

例えば、生後数ヶ月の赤ちゃんは、透き通るような薄もも色。
高校のめっちゃ怖かった体育の先生は、燃えるような赤色。
会社でお世話になった冷静沈着なシゴデキ課長は、深い海のような青色。

なんとなく分かってもらえませんか?


人は「多面的な生き物」だと思う。
相手が何色に見えるかは、出会うタイミングや関係性などで変わってくるだろう。

私には深い青色に見えた課長も、家族の前ではひょうきんなイエローだったかもしれないし、桜のように柔らかなピンクだったかもしれない。

でもあくまでも私の記憶の中では、課長はずっと青色。


1人1人の人間を色として捉えるなら、
人生は「キャンバス」みたいだと思う。

出会った人の色が、自分のパレットの上に載せられて、私はそれを使って絵を描く。

そうして完成した1枚のキャンバスが、その人の人生、みたいな感じなんじゃないか。
(ポエマーみたいなこと言うてます)


色々な環境に身を置いて、沢山の人と関わる人生を送ったなら、その人のキャンバスはカラフルで、見るものを励まし元気づけると思う。

一方で、固定の環境に忍耐強く身を置いたなら、その人のキャンバスは色味に統一感が出て、見るものを圧倒させる力強さを持つと思う。

どちらが良いとか悪いとかではなくて。


それぞれが自由に、思うままに絵を描けば、多様で素晴らしいキャンバスが世の中に何枚も溢れる…はず。でも現実はそうなってない。

「自分は何のために生きてるんだろう」
「もっとこうしていれば…ああしていれば…」

そういう空虚な感情で満たされて、そのまま死んでいく人があまりにも多いんじゃないか。

少なくとも私は、今この瞬間に交通事故で死んでしまったとしたら、走馬灯は後悔の記憶が大半を占めるだろう。

個人的に、これは世の中に蔓延る「こうあるべき」の圧力のせいだと思う。


押し付けられる社会の価値観は、「黒色のインク」のようなものだと思う。

描きたいモチーフがあって、その輪郭を形取るため意図的に使うなら効果的だけれど、無自覚のうちにパレットを侵食してくるなら危険だ。

今まで出会った人、積んできた経験。
そういうものでキラキラしていたパレットが、徐々に濁って色を失っていく。

その絵の具を使って描くキャンバスも、段々とくすんで輝きをなくしていく。

そこで行き着く感情が、

「自分は何がやりたかったんだろう」
「自分の人生って結局何だったんだろう」

という悔恨の念なんじゃないか。


真っ黒なキャンバスにも、それなりの良さがある。高級車みたいに光沢があってかっこいい…かもしれない。だからその道を突き進む人が居てもいいとは思う。

それに、多少くすんだ絵だって、ヴィンテージものみたいでかっこいいし。

でも私は、カラフルなほうが好きだ。
だから自分のキャンバスが真っ黒になって、何じゃこりゃ!と後悔したくない。
だから、「こうあるべき」だけじゃなく「こうありたい」を大切にして生きていきたいと思う。

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