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【ネタバレあり】映画『鈴木家の嘘』感想【どうすれば浩一は死ななかったんだろう】


こんばんは。これです。今日も映画noteです。


今回観た映画は『鈴木家の嘘』。数多くの名監督の下で助監督を務めた経験を持つ野尻克己監督の初監督作品です。上映は11月でしたが、例によって地方である長野では上映が遅れ、このタイミングでの上映となりました。お察しの通り今回のブログはその感想になります。拙い文章ですがどうぞよろしくお願いいたします。







―目次― ・ちょっと合わなかったかな... ・俳優さんたちの好演が光る一作 ・結局誰がいけなかったのか ・「自殺」というテーマ




―あらすじ― 鈴木家の長男・浩一(加瀬亮)がある日突然この世を去った。母・悠子(原日出子)はショックのあまり意識を失ってしまう。 浩一の四十九日。父・幸男(岸部一徳)と娘の富美(木竜麻生)は、名古屋で冠婚葬祭会社を経営する幸男の妹・君子(岸本加世子)、アルゼンチンで事業を始めたばかりの悠子の弟・博(大森南朋)とともに、意識を失ったままの悠子の今後について話し合っていた。そんな中、悠子が病室で意識を取り戻す。慌てて幸男、富美、君子、博が病院に駆けつけると、彼らの姿をみて驚きながら、悠子が尋ねる。 「浩一は?」 思わず目を見合わせる4人。そこで富美はとっさに「お兄ちゃんは引きこもりをやめてアルゼンチンに行ったの。おじさんの仕事を手伝うために」と嘘をつく。「お父さん、本当?」と感極まった様子の悠子に、幸男は「ああ」と返すしかなかった。 母の笑顔を守るべく、父と娘の奮闘が始まった。父は原宿でチェ・ゲバラのTシャツを探し、娘は兄になりかわって手紙をしたためるなど、親戚たちも巻き込んでのアリバイ作りにいそしむ。 そんななか、博がアルゼンチンの事業から撤退することが決まった。母への嘘の終わりが近づいていたーー。  (映画『鈴木家の嘘』公式サイトより引用)



※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。





・ちょっと合わなかったかな...


映画『鈴木家の嘘』は日の光が差し込まない暗い一室から始まります。がさがさと音を叩て崩れ落ちる男。窓を開けて外の光景を見ると、掛けてあったロープで首をくくります。鈴木家の長男・浩一の自殺です。母親である悠子は浩一の様子を見に行きますが、そこにあったのはぶら下がる浩一の死体。それを見た悠子は包丁で自分の手首を切り、倒れてしまいます。なんともショッキングな展開です。


悠子が意識を取り戻すまでは浩一の納骨をしないことを決めた父親・幸男たち。時間が経ち、悠子は目を覚まします。浩一が死ぬ前の数日間の記憶を失っていた悠子。ここでとっさに浩一の妹である富美が「浩一はアルゼンチンで生きている」と嘘をつきます。その嘘を隠し通すために浩一の部屋をアルゼンチン仕様にしたり、アルゼンチンからのビデオレターを作ったりして、なんとか悠子を騙し続けます。


その一方で幸男は浩一の手掛かりを探すためにソープランドに通い、富美はNPO法人でのグリーフケアに参加していました。浩一の自殺で受けた傷から立ち直ろうとする二人ですが、それはやればやるほど逆効果。余計に浩一のことを考えてしまい、嘘をつくのに疲れていきます。


『鈴木家の嘘』ではこの過程を音楽をあまり使わず、淡々と描いていました。個人的にはこの淡白さがあまり合わなかったんですよね。まず、浩一が死んでから四十九日、つまり悠子が意識を取り戻すまでが思っていたよりもずっと長かったんです。本家のお墓には入れないだの、遺骨をダイアモンドにできるだの、かなり尺を取っていて。30分くらいあったんじゃないかな。この映画のコンセプトって「母親に嘘をつく」ことじゃないですか。つまり悠子が起きないとストーリーが動かないわけですよ。なのでこの間私は、早くストーリー動かないかなと退屈に感じてしまいました。そもそも133分という上映時間もやや長めですし、もうちょっと前半は削れたのでは?と思ってしまいます。


また、公式サイトではこの映画は「ユーモアたっぷりに家族の再生を描く」だったり、「ハートウォーミングな喜劇」と紹介されていました。この映画の笑いどころは、鈴木家が悠子を騙す一連のシーンだったと思うんですけど、正直あまり笑えなかったんですよね。なぜかっていうと序盤で助長に感じてしまったのでキャラクターへの感情移入があまりできなかったから。このために鈴木家が嘘をついていても他人事のように感じてしまってあまり笑うことができませんでした。掴みで上手くいかなかったこと、予想以上に笑えなかったことは後半にも尾を引いていき、結果として映画全体をあまり楽しむことができませんでした。いや全然悪い映画ではないんですよ。ただ私には合わなかったというだけです。






・俳優さんたちの好演が光る一作


でも、『鈴木家の嘘』にはよかったところもたくさんありまして。それが俳優さんたちの演技です。基本的に抑えて、ときにエモーショナルに演じていた俳優さんたちの存在はこの映画の最大のストロングポイントであると言えると思います。


鈴木家の父親である幸男を演じたのは岸部一徳さん。年齢を重ねて頬も落ち、情けなくて怯えている雰囲気が印象に残ってます。個人的に好きなのが悠子が入院してすぐのシーン。洗濯の仕方にも戸惑う姿は「ああ家庭のこと全然顧みてなかったんだな」というのが一瞬で分かり、幸男のキャラクター像が一発で頭に入ってきました。目じりが下がっていたのも重いテーマの映画に温かさを加えていましたね。嘘をつくのが下手だと分かるトイレでのシーンもよかったです。しかし、そんななかでもシャベルを持ってソープランドにカチコミに行く、重みのある一言で家族を黙らせるなど映画を引き締める役割も存分に果たしてました。いわゆる「味のある演技」で見ている人を楽しませてくれましたね。


鈴木家の長女である富美を演じていたのは気鋭の俳優である木竜麻生さん。個人的には初めましての俳優さんでしたが『菊とギロチン』で主演を務めていらしたんですね。兄である浩一に愛三を抱えているという複雑な役柄を見事に演じ切っていました。家族にもはっきり物を言うなど自我の強い性格が魅力的でしたね。思えば嘘をつき始めたのも富美が始まりですし、物語の牽引役として輝きを放っていました


そんな木竜さんの最大の見せ場が中盤での手紙のシーン。兄への思いを手紙にしたためてぶちまけるというシーンであり、これが2分くらいの長回しで圧倒されました。よくそんなにセリフを覚えてられるなぁというのももちろんですし、泣き出しそうな顔で強がって「ざまーみろ」と言っていたのには痺れました。この映画へのコメントで


アイドルを起用する邦画は、カットが多く、セリフが短く、
風景や音楽を多用という演出が多いです。
そんな邦画に食傷気味の人は『鈴木家の嘘』の木竜麻生さんをどうぞ。 


というものがありましたが、それも頷ける演技でした。(ちなみにこのコメントは元2ちゃんねる管理人「ひろゆき」氏のもの。嘘が横行する2ちゃんの元管理人が嘘がテーマのこの映画にコメントを寄せているというのは面白いですね)


鈴木家の長男である浩一を演じていたのは『SPEC』シリーズなどでおなじみの加瀬亮さん。出番は少なかったですが、序盤の無言での演技にはただならぬ雰囲気を感じました。加瀬さんの一番の見せ場といえば幸男にキレたシーン。勝手に自分のことをうつ病だと決めつけ病院に連れて行こうとする幸男を殴るシーンには鬼気迫るものを感じました。


そして、鈴木家の母親である悠子を演じていたのは原日出子さん。この映画で一番光っていた個人的MVPです。意識を取り戻して病院の床を這うシーン、嘘をつかれているときの嬉しそうな空気、思い出した瞬間の切なげな表情、全てが輝いてました。ロープを切ろうとするシーンは手に汗握って思わず立ち上がりそうになってしまいましたし、圧巻は浩一の服を抱えて泣くシーン。心の底からあふれ出た慟哭は胸が迫るものがありました。立ち佇まいにも温かみがあって重くなっていく映画を柔らかく包み込んでいましたね。






・結局誰がいけなかったのか


ここからはこの映画のテーマについて見ていきたいと思います。まず考えたいのは「浩一が自殺したのは誰がいけなかったのか」ということ。犯人探しではありませんが、これをなくしてこの映画は語れないと思います。まあ結論から申し上げますと「全員いけない」ということになるんですが。


まずは幸男。幸男は浩一をうつだと決めつけて、触らぬ神に祟りなしと無干渉を貫いていました。なぜなら自分が触ってしまうことで浩一が壊れてしまうのを恐れたから。実際に劇中でも浩一のことを「怖かった」と話し、「逃げた」と認めています。浩一にとっては頼りにしたい父親が無干渉を貫いていたのは辛かったことでしょう。相手にしてもらえない寂しさが募っていきます。


次に悠子。悠子は浩一のことを信じて見守っていました。浩一のために毎日ご飯を作り、外に出ることを無理強いしません。浩一が仕事についたと嘘をつかれたときも、「あの時間は浩一にとって必要な時間だったんだね」といってしまうような暢気さです。ただそれは浩一のことを甘やかしすぎていたということとイコール。甘やかされた結果、外に出る勇気が育たなかった浩一はひきこもりをやめません。


さて、触らぬ神に祟りなしという幸男のアプローチと、信じて見守るという悠子のアプローチは正反対のようですが、この二つには共通していることがあります。それはどちらも浩一に干渉しなかったということです。暗い状況から抜け出すには確かに一人の時間も必要ですが、あまりに干渉されないと「自分は必要とされていないのではないか」という感覚を覚えてしまいます。ほっといてくれと思う一方で、一人にしないでくれという複雑な感情が浩一にはあったと私は予想します。二人のアプローチは「一人にしないでくれ」という浩一の欲求を満たしていなかったのです。


その一方で妹の富美は唯一浩一に干渉していました。誕生日を祝ってもらえているのに、降りてこない浩一に業を煮やして部屋に入り込みます。何の反応もせず無視を続ける浩一に富美が浴びせたのは「生きてる意味ないなら死ねば?」という言葉。これが浩一にとどめを刺したと富美は後悔しています。私も浩一の自殺はこの言葉がきっかけになったと思います。ただ一人浩一に干渉していた富美が最後の一刺しをしてしまったのはとても皮肉で、観ていて悲しかったです。富美は「ほっといてくれ」という浩一の欲求を満たしていなかったのです。


ほっといてもダメ、話しかけてもダメ。じゃあどうすれば浩一を救えたんだという話になりますよね。ここで浮上してくるのが、この映画が家族の他に掲げたもう一つのテーマ「自殺」です。







・「自殺」というテーマ


この映画では大切な人を自殺で失った人が鈴木家の他にも登場します。それは富美が通っていたグリーフケアでの日比野、小林、米山の3人です。日比野は「殴ってでももっと娘の話を聞いてやればよかった」と、小林は「バイトの面接なんか行かないで、もっと夫に寄り添ってやればよかった」と後悔しています。米山は夫を駅での自殺で失ったトラウマから電車に乗れなくなっています。


ここで注目したいのが日比野と小林の2人。この二人はいずれも無干渉を悔いていて、干渉を悔いている富美とは対比になっています。この二人はストーリーにも密接にかかわってきて、富美が皿を洗うシーンは小林の話が思い出されますし、妊娠した日比野の「産んでいいのかな」という言葉は最後まで重く響いてきています。


結局のところ、「自殺をどうやって防ぐのか」という問題には明確な正解なんてありません。積極的に話しかけるという同じアプローチでも自殺する人、しない人はいます。上手くいったアプローチが正解という結果になるだけなのです。


『鈴木家の嘘』は「どうすれば浩一の自殺は防げたのか」を見ている一人一人に考えさせてきます。繰り返しになりますが、そこには正解なんてありません。でも、考えることが大事なのです。考えた末に現状維持、時間が解決してくれるのを選ぶというのも立派な行動の一つです。『鈴木家の嘘』はそんな「自殺」というテーマに逃げずに向き合った真摯な映画なのです。


そして「浩一の自殺」に真摯に向き合った鈴木家の先にあったのは家族の再生。浩一について考えに考え、鈴木家は浩一の死を乗り越えようともがきます。その過程で解消されて行くのは家族のゆがみ。映画のラストに家が映されるのは鈴木家がより互いを分かり合って強固になったことの表れだと私は感じました。あまりハマらなかったんですけど、心が温まるいい映画だと思います。







以上で感想は終了となります。『鈴木家の嘘』、私にはハマらなかったんですけど全然悪い映画ではないので、興味があれば見てみるのもいいと思います。感じ方受け取り方は人それぞれですしね。


お読みいただきありがとうございました。

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