見出し画像

江戸使節団のデジタル追跡 パナマ地峡を渡ったサムライたちの旅 第三話

3.Google Earthを利用して江戸使節団の足跡をマッピングする

 1860年に遣米使節団の一員としてパナマ地峡をわたったサムライの中に、木村鉄太敬直(きむら てつた よしなお)という、熊本肥後藩士がいました。彼は、自ら進んで小栗豊後守の従者通弁役として参加し、旅行中見聞にふれる異国の事物を、自由な眼で細大もらさず「航米記」という日記に書きとめたのでした。
 彼の残した「航米記」は、昭和49年3月に熊本市の青潮社より「肥後国史料叢書 第二巻」として発行されました。この彼のパナマ地峡での記録やスケッチを中心に、パナマを鉄道で渡ったサムライたちの旅をデジタル追跡していきたいと思います。


 まず、注目したのは彼の残した船の位置情報でした。航海中は毎日のように船の位置の経度と緯度を克明に記録していたのです。しかもその日の気温も記録されていました。これらの情報は、ポーハタン号の船長から提供されたものと推測されます。


中央部分 二日の記述がコスタリカ沖


当時 パナマはヌエバ・グラナダ共和国の一部の州であった

 サムライたちがパナマに上陸し、地峡を横断する一連の出来事を日付ごとにまとめてみました。このタイムラインを追うことで、彼らの足跡をより明確に追体験することができます。
パナマ上陸の前後一週間の記録を以下のように、まとめてみました。彼の記録では、日付は旧暦で表記され、気温は華氏で表記されていましたので、太陽暦と摂氏に置き換えて表記しました。

4月21日 9°23'47.0"N 86°22'30.0"W   29.4℃ 
               コスタリカ沖(米国軍艦 ポーハタン号)

4月22日 8°12'00.0"N 82°43'00.0"W   28.8℃ 
               パナマ チリキ県沖

4月23日 7°03'00.0"N 80°20'30.0"W   30.0℃
               パナマ アスエロ半島沖

4月24日 8°57'00.0"N 79°31'00.0"W   30.0℃
               パナマ市沖 約2km沖合で停泊

4月25日 位置・気温記録なし
               パナマ地峡横断

4月26日 位置記録なし        32.7℃
               給水のためポルトベーロへ向かう 
               ポルトベーロ沖合停泊

4月27日 位置・気温記録なし
                夕刻にポルトベーロ出港 キューバへ向かう

4月28日 10°58'00.0"N 78°59'00.0"W      30.5℃ 
                                                    カリブ海上

 特に、記念すべき4月25日は、使節団一行は、朝には米国軍艦ポーハタン号を下船しパナマに上陸しました。そして、パナマ駅から地峡鉄道に乗車して、アスピンウオール(現在のコロン市)へ向かったのでした。途中、サンパブロ駅で休憩をとり、再びアスピンウオールへ向かいました。アスピンウオール到着後、待機していた米国軍艦ロアノーク号に乗船し、沖合で船内泊となりました。

 上記の位置情報をGoogle Earthにマッピングすると、サムライたちの旅の軌跡が現代の地図上で浮かび上がってきました。歴史がデジタル技術で蘇った瞬間です!


中央アメリカ コスタリカ パナマ


パナマ地峡


パナマ沖 約2kmに停泊 4月24日

 現在の地図上でのマッピングですが、見事に太平洋上のポーハタン号とカリブ海上のロアノーク号の位置が浮かび上がってきました。当時の航海術・羅針盤による計測がかなりの精度で正確だったことが分かりますね。特に、「航米記」では、パナマの埠頭から二十丁(約2,000m)離れた所に錨を下ろしたという記述が有り、まさにその通りでした。デジタル技術が歴史を証明したのです。
 さらに、彼が船上でスケッチした四枚の絵からも、停泊場所を推定できました。


アスエロ半島沖


パナマ港 全景 中央は サンタ・マリア教会と推察される


アスピンウオール沖


ポルトベーロ 中央奥がポルトベーロ要塞港と推察される

 実際に、1991年4月からの3年間のパナマに在住した私たち家族は、週末や長期休業を利用してパナマ国内の各地を自家用車や国内航空便で巡りました。パナマの国土面積は、北海道よりもやや小さく、75,520㎢です。さらに、北西のカリブ海側のコロンと,南東の太平洋側のパナマ湾に臨むパナマ市の間の直線距離は,わずかに64kmにすぎません。自家用車で2時間程度です。
 彼がスケッチしたチリキ県の海岸、アスエロ半島の先端、カリブの海賊からの攻撃を防いだポルトベーロ要塞の港、パナマ運河の大西洋出口のコロン市、自宅のベランダから毎朝見るパナマ湾等、すべて実際に足を運んだ場所なのです。Google Eerthのモニター画面を通して、江戸のサムライたちのパナマでの姿が思い浮かびました。130年の時間を越えた「異文化遭遇」の追体験でもありました。特に、カリブ海側のポルトベーロではシュノーケリングや釣りを楽しんだ記憶が蘇りました。記録によると、サムライたちもポルトベーロでは、久しぶりの真水での水浴を楽しんだようです。但し、これには苦労話もあったようですよ。これは後ほど・・・。
 

 さらに、熊本肥後藩士 木村鉄太敬直はパナマの一般の人々や動植物にも目をむけていました。



驚くべき観察力です 江戸にはない光景です

まさに、素朴なパナマの人々と動植物の楽園パナマの姿でした。
 
 最後に、次のスケッチ画をお見せしましょう。


江戸のサムライたちの最大の驚嘆は、「火輪車」でした。黒い煙を噴き上げて、轟音で走る鉄の車両です。サムライたちは、これに乗車するためにサンフランシスコからパナマまで南下したのです。
 
 こうしてデジタル技術を駆使して、江戸のサムライたちが体験したパナマ地峡横断の旅が、現代の私たちにも少しずつ浮かび上がってきました。しかし、これはまだ序章に過ぎません。次章では、Facebookなどを活用し、パナマのアマチュア研究者と情報を交換しながら、この忘れられた旅に新たな光を当てていきます。
                今回はここまで。 第四話に続きます。
 この時代を越えた冒険に、皆さんもGoogle Earthを使ってぜひ一緒に。

 
4.パナマ地峡鉄道 アマチュア研究者との情報交換から(Facebookの活用)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?