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「自分の他者性」を肯定する理由

これまで哲学的なことを主に書いてきたが、今回は個人的なことを書きたい。

以下記事のように、私には「自分は他者から構築されている」という考えがある。そういう言説が好きだ。その理由について。

私はゲイである。小2くらいから男が好きだった記憶がある。しかし当時は、男が好きということを自覚できず「ただ欲望がそこにある」というような状態だった。5年生くらいの頃、ゲイであることを自覚した。一人部屋のベッドで天井を眺めながら「どうしよう。これからの人生大変だ。いつか女の子を好きになるかもしれない。それまでこの欲望は隠しておこう。」そんなことを思った。あの日の怯えた気持ちはずっと私の中に残っている。そして自分自身を見つめないようにした。

その後「隠し続けるのは大学卒業まで」いつの間にか私の中で基準ができあがっていた。「このまま生き続けるのは大変だけど大学卒業までは何とか我慢しよう」そんな考えがいつの間にか定着していた。

自分を見つめない。
だから中高大は部活に、大学で部活を引退してからは研究にのめり込み、自分を見つめる隙を作らないようにした。それでも大学卒業のデッドラインは迫ってくる。そして卒業した。何も変わることがないまま社会人となった。そこでやっと、ゲイとして生きていくことを決めた。

自分を見つめよう。でも、自分って何だろう。だから哲学の本を読み出した。(※この話自体わかりやすい一つの物語であり、後から理由づけをしたにすぎない。本来は、色々な他者に影響を受け、本を読むことに至ったし、そう考えるに至ったということでろう。)

そんな中、自己の他者性「自分は他者から構築されている」という考えは私の中にスッと入りこんできた。自分を見つめないということは、違う他者を見つめるということでもある。自己の他者性を肯定すれば、これまでの人生、自分を見つめないできた人生、を肯定できるのだ。

だから私は「自分の他者性」を肯定するのだ。

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