村上春樹「牡蠣フライ理論」について

「村上春樹 雑文集」に収録されている「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」というエッセイが面白かったので紹介する。ネットで調べると割と有名らしく通称「牡蠣フライ理論」らしい。

「就職活動で自分自身について原稿用紙4枚で書くように課題があり、どのように書けば良いか」という読者からの質問に対し、次のように答える。

「自分とは何か?」という問いかけは、小説家にとってはーというか少なくとも僕にとってはーほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。
こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですよね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のように僕には思えます。ただ、自分自身については書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。

人の行為や行動や思考は、本来的には複雑で多義的なものである。少なくとも一義的に「こうだ」と決めつけることはできない。小説家について

「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単にいってしまえば、結論を用意するのではなく、仮説をただ丹念に積み上げていくことだ。」

つまり、人間を人間のまま、そのまま記載するということと思う。著者の解釈を介入させないこと。その人自体がその人なのであるという自明性。

牡蠣フライについての文章はその人自体であり、その人の牡蠣フライの見方を通してその人が表現されるということだ。

これは、デカルト「心身二元論」的ー精神が身体を支配するという「我思う、故にわれあり」ーではなく、スピノザ「心身平行論」が相性が良さそうだ。

千葉雅也「勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版」の補章に小説論があり、同様のことがより詳しく書かれている。(※文庫版のみ増補版であるので注意)

小説的に世界を捉える

ここで芸術のジャンルをひとつ出すならば、僕は小説というのは、そういうことだと思うのです。小説的に世界を捉える。特定の価値観から「裁く」ような発想で世界を見るのではなく、小説では、人のやることは両義的、多義的であると考えて、解釈の交差点としての「ただの出来事」を記述している。恋人からの言葉は、愛の言葉であると同時に、そこには何か自分を責めるようなものが含まれているかもしれない。どんな言葉にも出来事にも、自分にとってプラスとマイナスがどちらも含まれている。そこで、プラス、マイナスどちらかに決めつけようとするのではなく、両義性あるいは多義性の状態を許容する──なかなかそれに「耐える」ことができない人もいるかもしれません──のが文学的態度だと言えると思います。というかおそらく、この感覚がわからないと小説、とくに純文学というものがわからないと思うんです。エンターテインメント小説ならば、人のふるまいや出来事の意味を単純化することで成立しているところがあると思いますが、純文学では両義性や多義性が重視されていて、出来事をありのままの複雑さで──一方的に価値づけするような表現を避けて──書こうとします。

うむうむ。非常にわかりやすく言語化されてます。

私は、どちらかというと、何事についても単純に考えてしまうふしがあり(「これはこういうものだ」と解釈したい)、本来的な複雑さに耐えられないところがあるような気がする。もう少し、もの自体、人自体をしっかり見て、ありのままを受け止めるられるようなマインドを醸成したいなあとも思いました。

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