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分かりにくい文章を書こう

私たちは日常生活の様々な場面で「分かりやすく書け」というプレッシャーに晒されている。資料作成は分かりやすく書くよう指示され、資料の修正は分かりにくいところの訂正がほとんどだ。書店には、分かりやすいビジネス文章の書き方の指南書がぎっしり並んでいる。

ビジネスだけでなく学問の世界でも同様だ。最近の学術書は背後にある複雑な考察や難解な数式は省かれることも多いようだ。著者が分かりやすさが求められていると忖度し、分かりやすい本を書いているのだ。

このように、最近、「分かりやすく書け」というプレッシャーが過剰化してきていると感じている。

世界は複雑だ。人間は複雑なものを複雑なまま理解できない。だから、単純化し理解しようとする。これは科学だ。自然現象を観察、単純化することで、学問は体系化していった。例えば、物理学の教科書は「複雑な自然現象を単純に説明する方法」集である。大事なことは、複雑な世界を単純に見たということだ。つまり、分かりにくい世界を分かりやすく見た。

一方、多くの人は単純化された世界をただ単純な世界と誤認しているように思う。単純な世界なんだから単純に説明できて当然だ。つまり、分かりやすい世界なんだから分かりやすく説明できて当然だ。

現実世界は分かりにくいが、多くの人は分かりやすいものと認識している。
この認識の溝を埋めるため、世界の分かりにくさからは目を背け、「分かりにくい複雑なことは書かない。書かなくていい」となってしまうのだ。

分かりにくいことこそ大事かもしれないのに、分かりにくいことを分かりやすい言葉で書くことこそ大事なのに、「分かりにくい。だから書かない」となってしまう。そうすれば、問題は起きないかもしれないが何の議論も生まれない。平和な、当たり前の文章だ。そんな文章を書いて意味があるのだろうか?分かりにくい文章は、複雑なことを説明しようとした努力の結果である。その文章を誰が「分かりにくい」と文句を言う権利があるのだろうか?

だから私はただ分かりやすさに拘り文章を書くことに抗議する。分かりにくさを擁護する。

無意識のうちに分かりにくいことを排除し、分かりやすいことだけを書いていないだろうか。たまには、誰かに見られたら恥ずかしいような、でも自分は納得できる、そんな分かりにくい文章を書いてみては如何だろうか。


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