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「夏が嫌い」だった

昔から具体的に、記述的に書くのが苦手だ。過去のnoteでも抽象的な話しかできていない。これは私の本来的な性質なんだと思う。でも、できないことをできるようになりたい。今日はトレーニングも兼ねて文章を書いてみる。


2021年5月9日

私は都内で働くサラリーマンで、都内東側の小さな駅から徒歩3分のところに住んでいる。地方出身で修士卒業後上京し、東京に住み始め5年が経つ29歳だ。日曜である今日の昼過ぎ、家の近くを散歩した。

今日は5月初旬だというのに暑い。長ズボンを履いて家を出たがあまりに暑くて引き返して半ズボンに履き替えた。ネットニュースをみると最高気温28度。そりゃ暑い。忘れていた夏を思い出す。

「夏は暑いから嫌い。冬は寒いから嫌い。春と秋はちょうど良い温度だから好き。」好きな季節を聞かれるといつもそう答えていた。

家を出て、近くの公園を歩きながら周りを見渡す。
強度を増した日差しが、公園の木々に真上からぶつかっている。生暖かい風が吹く。木々は弱くたなびき、まるで葉にこびりつく日差しを振り払おうとしているように見えた。その振り払われた日差しが、生暖かい風に乗って私の鼻腔まで届いた。夏の予感だ。

嫌いなはずの夏。でもこの感じはなんだろう。

その時気づいた。私は「夏が嫌い」この言葉に支配されている。私の中に間違いなく「夏を嫌いな自分」がいる。
でも夏は嫌いなはずなのに、気分がいい。だから「なんだろう」なのだ。

気分は一時的なものであり、すぐに忘れてしまう。だから言葉で残すのだ。記憶として、文章として、言葉で自分を定義する。それで、私たちは言葉が気分を作っているように錯覚してしまう。
でも違う。実際は気分が先で、言葉は後なのだ。

今日という日を、夏の予感を、心から気持ちよく感じた。これは紛れもない事実だ。それでいいのだ!

過去に作った無数の「私ってこういう人」の言葉。この言葉の殻は厚くなり、いつしか破れなくなり私自身を閉じ込めてしまうかもしれない。
だからそうなる前に、今日感じた夏の予感の高揚感を素直に気持ちよかったと言えてよかった。これは言葉の殻を破ることだ。同時に新たな殻を作ることでもあるのだが。
移り行く季節のように、私たち自身も移り行く言葉の殻を身に纏っているのだ。そして、それで良いのだ。


具体的に書けたのか書けなかったのか分からないが、書きたいことは書けたのでまぁよしとする。また書きます。

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