自分が人に手を貸すのは「尊敬」が目的ではなく「問題解決」が目的。 時間を無駄にしたくない表れ。 感謝されなくてもいいのは「その後、その人と関わることで時間を消費される可能性がある」から。 連続して助け、その事に全て感謝されないのは「自身を見下した」行動であり、平等に認識されていない。 故にその人に時間を奪われていると判断し、不快に感じる。 尊敬がほしいのではなく、全て「時間」を優先に考えた行動である。
神が最大のサイコパスであるならば、生まれたばかりの赤ん坊が1番肉体を持った神に近いものである。 神と人間は「別物」ではなく、神が世界をみるために「目」を欠片としてのせた「肉体」である。 「目」の損傷に過剰に反応するのはその為なのか。 「目」が大量に張り巡らされているものや、誇大されているものが最近表れているが、あれはあながち間違いではないかもしれない。 出元を調べる。 神は欠片の目を遣って、世界を知ることを楽しんでいる。
神は最高のパフォーマンスを魅せ、 その最短で、エネルギーを最小限に抑えた無駄のない行動にとても美しいと感じてしまう。
神に人生を捧げ遣えた「キリスト」でさえも、神は切った。
神というものを考えてみた
自分が銃をもち、拘束されていない状態で、相手が銃口を向けた瞬間、
今回ので対象者が哲学的思考になるのもなんとなく納得だな。 ただ、その思考の皆がそうかというとそれは違くて、そこにたどり着く間に感情による理由が挟まると後天的に哲学の思考が入ってくるのか 先天性か、後天性かでわかれるな 用途も違う 感覚知と理論知がここで関わるのか 忘れるからメモ。
今回ので対象者が哲学的思考になるのもなんとなく納得だな。ただ、その思考の皆がそうかというとそれは違くて、そこにたどり着く間に感情による理由が挟まると後天的に哲学の思考が入ってくるのか先天性か、後天性かでわかれるな用途も違う感覚知と論理知がここで関わるのか忘れるからメモ。
目に見えるものは限界があるけれども、目に見えないものは空気までも含めるから限界がない。 そこに最大の可能性しかない。 けれどそれが何かはわからない。 だから探る。 その「未知」が自分は好きなんだろうなと。 その「探求」がとても楽しいのだろうなと。
意識が勝つか、無意識が勝つか、 どちらが命を握っているか
正直いうと、今回のアートメイレイは兼村の時間配分ミスで不完全に終わったわけだけれど、 それが起きたことで自分の中で1つのブランドを確立することが出来たので結果オーライである。 何かを初めてやり、そこから自分が予想していなかったものが生まれる。 これだよな、自分が持つアートメイレイの重要性って。 自分にとって実験場なのよ。 本屋に入って直感で知らない言葉を手にとって、それと自分を擦り合わせていくみたいな感覚。 だから知ってることはやりたくない 勿体無い
あぁ、自分の中で2つにわかれてる自分は「意識」と「無意識」の2つなのか。 あー、納得。 ずっと「客観視」であるのはわかってたけど、見てる側は意識がある。 けどもう1人はなんだ?ってのは思ってたんだ。 作りあげた自分かと なのにコントロールが出来なくて不思議で。 作りあげた者ならば上手く意識で動かせるはずだから、自分からみたら「下」の存在であるけれども、 コントロールも出来ず上でも下でもなく「対等」であるから不思議だったんだ。 「無意識」か。 あー、なるほど。
自分の言葉の表現や使い方も「決められたルール」の上ではなく「感覚」で成り立っているものだから 自分では同じ物事と理解していることでも相手からは別々の物事を引っ張ってきて同じテーブルに置いていると感じるからか「意味がわからない」とよく言われます 故に外へ言葉を出すのをやめたのはある たとえば、環境や状況を「テーブル」とし、同じものとして「象」と「靴」を置く。 自分からしたら、その「テーブルに置く」ものとして合っていると思い、「象」と「靴」も共通点のある「繋がっている」ま
そうすると「なるほどな」と。 この「なるほど」が無意識で行われていたことを理解する瞬間。 自分の無意識のパターンを意識の自分が探って見つけてる感じ。 それから「自分の行動・思考のパターン」とし、頭でファイリングする。 そこに偏りがあれば、また崩して無駄を省いて意識の自分に戻す。 「感情をなくす」を自分はよく意識しているけれど、それは無駄を省く行為で、 その無駄を省くためにはどうすればいいのかを考えた結果、「自分自身が納得する」が落ち着くのかと。 悲しいことに何故
どばーっと書き出して可視化しているけれども、これでも1割しか書き出せてない 書いてるうちにも大量に過去数日分の情報が流れてきて、それを省いて吸収して擦り合わせて納得してを繰り返してる けれどもやっぱり記憶力が悪いので、データとしては保存されるけど意識ではなく、無意識に保存される そうなるとどうなるか。 そうです、無意識は「存在」はあるけれど「認識」がないので、自分の意思で引っ張り出せないんです。 それが引っ張り出されるのが「何か共通点のある物事」がおきることでようや
「考えない」を生きてるうちにするのは不可能だと考える。 意識をもつ環境に生まれる、考える脳を持った時点で、 人のお腹の中で発生した時点で体が生きるために栄養をとろうとする。 それは意識ではなく「無意識」に入るけれど、脳に映像が流れていないだけで音は進んでいる状態に近い だから「無」は、生きている限り不可能だと考える かなりの不純物を省いて人間として生きている状態での「無」に1番近い行動は「感覚」で 自分が「知らない」と思っている「知っていること」に体を近づけるのが