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考えるべき対象を選べるとわかった件。視界が開ける瞬間。

所用を済ませて帰宅。

帰宅したら筋トレという流れは…今日はまあいいか。
とりあえずスーパーで買ってきたものを冷蔵庫に収納。

今日はレミパンで1週間分のご飯を炊く。炊飯器はこの前断捨離した。
まずは米を洗って吸水させておこう。

待ってる間に、買ってきたばかりのキットカットとせんべいをつまみながら両学長のYoutubeを見る。

高配当株か…組織に合わない自分は配当金で生活できたら楽だろうなとぼんやり思っている。しかし、種銭がしょぼすぎる。

そういえば昨日ある動画を紹介されたっけ。
こういう隙間時間にさくっと見ておくか。

…ニコ動検索…

「もし発汗したい人がいるなら、どうぞお好きなようにしてくださいな。多分僕もする。てかする…。」

え?何エロ放送?

…(数分後)…

「でもここで一つ提唱したいのは、この話は実は侮蔑的ではなくて、大学で得るべき真の教育というのは、「自分の頭で考えられるようになること」ではなく「考えるべき対象を選べるようになること」だからです。…」

おや…??

「今まで僕が根拠もなく自動的に正しいと信じてきたことは、大方間違っていました。何度もそれで痛い思いをしましたし…」
「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり…」
「知性を崇拝すれば、知的に見られることでかえって自分の無能さを自覚し…」 ←この「…」の部分はまさにわたしのデフォルト

シンクの近くに立てかけて洗い物をしながら見ていたiPadをいつの間にか膝の上に載せて、1Kの狭い廊下に体育すわりしながら聴いていた。

“考えるべき対象を選べるようになる”というところで急に目頭が熱くなってきた。

あ、自分が今飛び込もうとしてる、いや飛び込んでる世界ってもしかしてそういうこと??


さっきまで私は図書館で借りた本を読んでいた。

社会学の入門みたいな一般向けの本だが、その一部をメモしてブログか何かのネタにしておこうと思った箇所がある。

社会は人が作ったものだから人の手で作り変えることができる構築物であるという視点(構築主義)
人の活動とは独立して存在する実在物であり、人が作り変えることはできないという視点(実在論)

というふたつの側面があるけれども、

これらは私たちが日々の活動によって生み出しているという視点。

私たちは社会の担い手になっている(主体)と同時に、何か働きかけようとした瞬間社会が対象(客体)となり、時には動かしがたい岩のように立ちはだかるという考え方。

社会を研究対象としつつ自身もその中に内包される担い手になっているということ。

こう考えると距離や近づきがたさは、実は私たちが対象に関わる準備ができている証拠なのです。無関心なら距離すら意識しません。そのとき社会学は、対象の姿(実在としての社会)を客観的に描き出し、その成り立ち(構築物としての社会)を教えてくれるのです。
『大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる』出口剛司 KADOKAWA 43ページ目

うーん、まだ自分の言葉で表現できず引用とキーセンテンスの羅列にしかなってないのがもどかしいが。。

まあいいや、とりあえず引っかかった部分をインデックス的に頭に留めておくいつもの学習パターンということで…

ほんとに今の自分に関わる準備ができているのだろうか。

うまくいきすぎてやしないだろうか。

ある種トンネリングを起こしていて今こういうことにしか集中できていない危うさも感じられるけれども。

そして最後までスピーチを聞いても、これは水です、って何?ってなった自分の思考のセンスのなさにがっかりしつつ、明日、本を借りに行きたいと思います。

これらも生物学的に、進化心理学的に、私に織り込み済みな行為なのかもしれないが、今、水を知りたい。

明日目覚めたら気持ちが変わってるかもしれないけど。

【第三回ひじき祭】これは水です【琴葉葵】


意識重い系の世界にようこそ。エゴイズムは型におさめるもの。