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『東九龍絶景』 5

 5 アラムのカオサンロード

 髪の色や体格が違う、と思った。ここには外国人が多く、彼らは僕になじみのある姿ではなかった。旅行客、といえなくもないのだが、物見遊山の半端な探検家ともいえる。東九龍という名所として来ているのだ。
 彼らはだいたい大きなリュックを背負っている。グループもいるが、ひとりでいるのも見かけた。荷物を安宿にでも置いたのか、サンダル履きでフラフラしている人も多い。
 通りのにぎわいは、彼らへ向けたみやげものの店の呼び込みと、聞いてもわからない外国語で占められていた。
 若い旅行客が、ハーイ、といってカメラを向けてきた。笑顔でも見せれば喜ぶのだろうか。僕とカザミは真顔だった。写真にはどう写っているのだろう。
 悪気はないんだろうけど、と僕はいった。
「イラつくね」
「動物扱いだぜ」
 昼食をとろうとカザミがいうので、安っぽい食堂に入った。テーブルにあったメニューには外国語も併記されていた。
 ふたりとも塩焼きの魚と米を注文し、オープンテラスで座って待った。
 店内には他にひとり客がいた。粗末だが清潔らしい身なりをしていて、漫画雑誌を読んでいた。東九龍の住人ではなさそうだが、数週間という単位で滞在しているような感じだ。沈没、というやつだろう。旅先で動けなくなって、ダラダラと日々を過ごしてしまうのを沈没というらしい。
「バックパッカーだな」カザミがいった。「この辺だとうじゃうじゃいる。歩いてんのもその手のやつらだ」
「何が楽しくて来るんだろう」
 わからない、といってカザミは外を見た。日差しがきつい。僕らはうっすら汗ばんでいた。店の奥から魚の焼けるにおいがしてきた。厨房では炭のグリルの前に女の子がいて、箸を持って焼き加減を見ていた。
 何を話すでもなく料理を待った。リュックからラジオを出した。両手で持って眺める。ここで聴いてはいけないだろうか。
 料理ができたようだ。ラジオを脇に置いた。大皿に焼き魚と米が乗っているものを二つ、グリルを見ていた女の子が運んできた。
 赤い色のソースが小鉢に入れられ、添えられていた。箸の先を入れてなめた。かなりからい。
「それをかけて食べるとおいしいよ。かけなくてもいいけど」
 女の子はそういってまた奥へ戻っていった。料理を前に、いただきます、といった。もう食べ始めていたカザミが顔を上げた。
「それ、まじない? たまにいってるけど」
「いや、礼儀作法」
 お坊ちゃんだな、といってがっついた。僕も食べ始める。魚はよく焼けていて、米は弾力がちょうどいい。ソースを魚にかけると、からいが、確かにおいしかった。
 しばらく通りのやかましさを忘れて食べた。食べることに集中すると気にならないものだ。
 先に食べ終わったカザミが奥へ行き、女の子に何か訊いていた。聞きとれはしなかったが、たぶん北部に関することを質問しているのだろう。
 が、違ったようだ。席に戻ってきたカザミは照れたみたいにニヤついていた。
「ナンパ失敗だ」
「なにやってんだよ」
「いや、あの子かわいいじゃん」
「そうかもしれないけどさ」
 といっても、別にまじめにやれとは思わなかった。カザミが楽しんでいるならそれもいいだろう。
 支払いを済ませて外へ出た。ガヤガヤとうるさい。旅行客たちの視線が鬱陶しい。東九龍の人間がそんなに珍しいか。
 そう思ってしまう、イラついてしまうような通りを見渡す。どこで誰に訊けばいいのか、さっぱりわからなかった。
 カザミと並んであてもなく歩いた。もとは赤色だったろう看板が茶色くなっていたり、値切りの交渉をしている人がいたり、道には煙草の吸い殻がたくさん落ちていた。誰かと肩がぶつかるたびに大きくよろけながら、手がかりを探す。
 旅行客に訊けばいいか、というと外国語がわからない。なら住人に訊けばいいか、と考えたが、北部への行き方など、そんなことをそこらの人たちが知っているだろうか。
 旅行。
 北部。
 雑踏の中、閃いた。旅行代理店へ行けばいい。立ち止まった僕をカザミが変な顔で見つめた。どうした、と訊いてくる。
「旅行代理店を探そう」
「なにそれ」
「ツアーを組んでいるようなところだよ。もしかしたら北部へのツアーなんかを扱ってるかもしれない」
「ツアー?」
「小さな旅行みたいなものでさ、北部観光っていうのはないかな」
「うーん、どうなんだろうな」
「代理店に行こう」
 オッケー、とカザミはいったが、僕もカザミも代理店がどこにあるかなど知らない。歩いて探すことになる。
 夥しい数の看板を見る。外国語も書かれてあるし、東九龍の言葉もある。目が疲れそうな作業だが、とにかく歩いて看板を見続けた。
 斜め上を見ながら歩き、たまに立ち止まり、そうして旅行代理店の看板を探した。外国人たちに紛れて、彼らの物珍しそうな目線にさらされて探す。
 写真のアルバムを抱えて呼び込みをやっている連中がいる。彼らは僕やカザミには声をかけない。お金を持っている旅行客相手の商売だろう。
「あれ、何を売ってるかわかるか」カザミが訊いた。僕は首を振った。
「女を売ってるんだよ」
「え、人身売買?」
「ジンシンなんとかっていうのは知らないけど、あれは一発いくらっていう商売。売春っていうのか」
 売春というのが何かはわかる。
「ああやって東九龍の女たちが買われてる」
「ちょっと、嫌な気分だね」
「こっちは貧しいんだ。金のためには仕方ない」
「それでいいなんて、誰が決めたんだろう」
「買うやつ以外は、誰もいいとは思ってないんじゃないか。ただ、仕方がないだけなんだよ」
 そんな雑談を交わしつつ、相変わらず看板を見て歩いた。
 視線を下に戻したとき、旅行客がたむろしている何かの店先を見つけた。彼らはサングラスなどかけて、あるいは帽子をかぶり、煙草やビールを片手に騒いでいる。
 そのそばには大きな白いワゴン車があった。
 もしかしたら、と思って近づく。背の高い旅行者たちの、そびえる肩の間から看板を見た。『アラム・トラベル・オフィス』とあった。あとから来たカザミにいった。
「これだよ」
「これか」
「あの車でどこかへ向かうんだろうね。東九龍のツアーだよ」
「で、どうするんだ」
 カザミが訊いてきたのと同時に、僕は店の中へ入った。壁にくっついた扇風機が回っていて、店内は薄暗く、安っぽい机の向こうにきつい目つきをした男が座っていた。ワイシャツの袖をまくり、何かの書類にペンを走らせている。
 男がこちらを見た。
「なんだ。客か?」
 視線をすっと滑らせて、僕の足下から頭までをすばやく見た。
「お尋ねしたいことが」
「客じゃないのか?」
「場合によっては客です」
 男は露骨にしかめっつらをした。かったるそうにため息をつき、ペンを置いた。
「なんの用だ。子供と遊んでるほど暇じゃないんだぞ」
「北部行きのツアーはありますか?」
 またため息をついた。疲れてでもいるのだろうか、とてもだるそうに見える。
「ある。だが、高い。君らには払えない額だろうな」
「いくらするんだよ」横に来ていたカザミが訊いた。答えられた額は確かに高かった。屋台のスープ麺、三〇〇食ぶんの金額。
「ガイドつきで五時間、北部を回れるミニツアーだ。あっちには名所が多くてな、楽しいぞ。金さえ払えればの話だけどな」
「遊びで行けるのか? 外の連中、気楽そうだけど」カザミが訊いた。
「あいつらは南部のツアーだ。北部行きは護衛もついてて、そいつはすてきなサブマシンガンを持ってる。だから高い」
 わかったら帰れ、といって手を振って、また書類に目を落とした。
「他に行き方はないですか」
 手にしたペンをバチンと置いて、男は質問した僕をにらんだ。胸のところに名札がついている。アラム、と書いてあった。ここの経営者なのだろうか。
「帰れといったんだが」
「帰らねえよ。行き方を教えてくれ」カザミが迫る。
「なんなんだお前らは。これじゃ仕事にならんよ」
「アラムさん、僕らはどうしても北部に行きたいんです。ツアーの手配をしているくらいなら、何か手段があるかと思ってお尋ねしてるんですけど」
 アラムさんはまたため息をついた。椅子の背もたれがギッと鳴った。僕を見ている。
「手段はある。この商売だ、正直なところいくらでもある。でも、タダで教えろって?」
「うん、まあ、ネタの見返りって話だな。でも俺らは金はないよ」カザミが答えた。
「ならもう帰れ。無駄だ」
「金はないけど、おっさん退屈じゃない?」
「充実してるよ毎日」
「おもしろいもん、見たくない?」
 うるせえなぁ、と声を荒げてカザミをにらみつけた。
「怒るなよおっさん。そのさ、おもしろいもんがあんたにとってもおもしろかったら、行き方を教えてよ」
「芸でもやるのか」
「そうだよ。それを見て決めてくれ」
 帰ってくれそうもないな、とアラムさんはいった。壁の時計を見る。僕も見た。いま、六時近い。もう少しすれば夕暮れになるような時間だ。
「オフィスは七時に閉めるんだ。そのあとならつきあってやる。七時に店の前まで来い。それまでは俺に仕事をさせろ。いったん帰れ」
「ありがとうございます、アラムさん」
「名前を呼ぶな。気安い」
「サンキューおっさん」
「おっさんというな。俺は若い」
 そういうやりとりをして、僕とカザミはオフィスを出た。ワゴンはもう出発していて、たむろしていた連中はいなかった。
 さて、とカザミがいった。
「まずは道具だな」
「芸って何をやるの?」
「ジャグリング。得意なんだよ」
「アラムさん、納得するかな」
「まあ、派手にやるから。たぶんだいじょうぶだろ」
 西日が差し、通りの色合いが少し変わってきた。蛍光灯のような明るさから暖色系のやわらかさになってきている。
 外国人たちの雑踏の中、カザミはあたりを見回している。何か探しているようだ。
「道具ってどういうやつ?」
「棒が三本、あと油かガソリン」
 何をするのか見当もつかないが、その道具が手に入りそうな店なら知っている。
 ガラクタ屋だ。あのリヤカーの中に、そういうものはいくらでも入っていそうな気がした。ただ、ガラクタ屋はここらにいそうにもない。
 そういうことを話すと、カザミは頷き、じゃあいったん通りを出よう、といった。
「いつも屋台街あたりにいるよ」
「わかった、戻ろう」
「ラジオもその人から手に入れたんだ」
「便利なやつだな」
 いくぶん減ってきた人混みを抜け、来た道を戻る。風景は西日が差しているせいでより寂しげに見えた。バラックの建つうらぶれた道を黙々と歩き、やがてビルの群れが見え始めた。これでけっこう時間がかかっている。アラムさんの指定した七時までに戻らなければならない。
 屋台街の端に立ち、通りを見渡す。食べている者、飲んでいる者、将棋やシャンチーを指す者などで賑やかだが、肝心のガラクタ屋が見えない。
「いつも客寄せで笛を吹いてるんだけど」僕はいった。「聞こえない?」
「聞こえないな」
「どこだろう……」
 屋台街へ入っていって探し回る。食事の香りがあちらこちらから漂い、料理の判別がつかない。宴会の騒ぎ声。地面にこぼれている酒。
「そいつは笛を吹いてて、リヤカーを引いてるんだな?」
「そうなんだけど、今日は店じまいしたのかもしれない」
「どこかにいないか。目立つだろそんなやつ」
 よくよく通りに目をこらしたが、見つからない。
 時間がない。
「カザミ、他を当たろう」
 承諾したカザミを連れて、また同じ道を歩いた。早足だ。西日が夕陽に変わってきている。
 あ、といってカザミが立ち止まった。
「笛」
 後ろを振り向いてそういった。気の抜けた、間延びしたような笛の音が、僕にもかすかに聞こえた。聞こえる方向を見ると、ビルの陰からひどくゆっくりとガラクタ屋が現れた。
 僕たちは走ってそこまで行った。
 息を切らせてリヤカーのそばに立つ。ガラクタ屋は笛を吹くのをやめ、帽子の隙間から僕たちを見た。
「なにかいるか」
 ぼそっとそう訊いてきた。僕は息切れでしゃべれない。カザミが答えた。
「木の棒切れと油をくれ」
 取っ手から手を離し、後ろの荷台を見た。しばらく目で探していたようだったが、やがていった。
「油はない。棒切れはある」
「いくらする?」
「ゴミだ。やる」
 そういって荷台から、束ねた木の枝を取り出してカザミに渡した。手元の束を持ち、カザミは不満げだ。
「もっと整ってるやつはないか。角材みたいなの」
「贅沢をいうな。ここは東九龍だ」
「そりゃそうだけど」
「カザミ、時間がない」僕は割り込んだ。
「わかった……ありがとな、ガラクタ屋さん」
 聞いているのか聞いていないのか、また取っ手を持って移動するようなそぶりを見せた。帽子をちょっと直し、笛をくわえた。
「ありがとうございます」
 僕が軽く頭を下げると、ピヨ、と笛を鳴らした。それからリヤカーを引いて歩き始めた。「変なやつだ」カザミがいった。「便利だけど」
「棒切れ、それでだいじょうぶ?」
「ああ、削れば使えると思う」
 あとは油かガソリンだ、とカザミがいった。食用油でもいいのか、と訊くと、かまわないという。それならいくらでもある。
 また屋台街に引き返す。行ったり来たりでちょっとしんどいが、何しろ急がなければならない。
 揚げ物の店を探すと、それはすぐに見つかった。アップルパイを親子で売っている露店。揚げたてのアップルパイを置いたテーブルと、その奥に煮え立つ油の鍋。
 油をください、と僕がいうとその親子は嫌な顔をしたが、捨てるやつでいいよ、とカザミがいうと、廃油の入ったポリバケツを取り出した。ビニール袋をもらい、カザミが広げて僕が流し込む。油は茶色っぽく、細かいゴミも入っていた。
 露店の親子に礼をいい、油を持って早足で歩いた。夕暮れの赤に染まって、アラムさんのいる通りまでの道は現実感がない。夕陽はこんなに赤いものだっただろうか?
 やがて外国人の群れの中へ入ってゆく。ぶつかりながらアラムさんのオフィスまで急ぐ。オフィスはまだやっていた。入っていくと、机から目を上げたアラムさんがこちらをにらんだ。
「なんだ」
「間に合ったみたいですね」僕は時計を見ていった。六時五十分だ。
「終業まであと十分ある。十分あればどれくらいの仕事ができると思う? この快適な、効率性重視のオフィスで」
「知らねえけど、店の前を借りるよ」
 アラムさんの苦言も気にせずに、カザミは店の外の道に座り込んだ。アラムさんはまたため息だ。「変なことがあるなあ……」
「すみません。邪魔はしませんから」
 僕も店を出ようとしたのだが、呼び止められた。
「お前ら、北部に行ってどうするんだ?」
「ちょっと探しものです。人と、物」
「必死だよな。よほど大事な探しものなんだろう」
 ええ、まあ、などと答えた。
「芸、せいぜいがんばれよ。何をやるのかわからんがな」
「がんばるのは僕じゃないですけどね」
 ふたりで店の外を見た。カザミはこちらに背を向けて座り、枝をナイフで整えているようだった。二、三人の外国人がそれを見ている。話しかけてもいるようだが、カザミは無視して削り続けた。そばに行くとチラリと僕の靴を見た。それで僕とわかったのだろう、ぼそりといった。
「生木だから重いんだ。軽くしなきゃな」
「何か手伝おうか」
「いや、いい」
 ナイフを使いこなし、枝を削いでいく。表面の皮は剥がしとられて、内側の白い部分が出ていた。軽く手を広げた程度の長さの枝が一本と、その半分の長さのものが二本。
 僕らに話しかけてきた金髪の外国人に、何をどういえばいいかわからず困っているところへ、アラムさんがオフィスから出てきた。外国人はアラムさんに何か訊いて、同じような発音の言葉で二、三やりとりした。外国人は楽しそうに笑った。
「ぜひ見たいっていってるぞ」
「アラムさん、仕事は?」
「定刻だからな、今日は店じまいだ」
 そういって腰に両手を当てて背中を伸ばした。腰が痛くてかなわん、という。
「こうなると、何がオフィスで仕事だって感じだ。職業のプライドが腰痛に負ける気がしてくる」
「息抜きにはなるよ」
 カザミが立ち上がってそういった。右手には白くなった枝を三本持っていた。きれいな直線に仕上がっている。
「自信があるんだな」
「まあね。おっさん、オムツはいとけよ」
「何をいってる」
「感動して漏らすぞ、黄色いのも茶色いのもな」
 まったく口の悪いガキだ、などといいながら引き返し、店のシャッターを下ろした。錠を閉める。
「まあ、見せてくれよ。疲れてる俺の息抜きをさせてみろ」
 陽が沈みかけていて、通りは各種の店の明かりがあるだけで、だいぶ暗くなっている。オフィスの前の僕らの周りに人だかりができていた。カメラを用意しているやつもいる。酔っ払っているようなのもいる。騒がしい。
 そこをかきわけて、三本の棒とビニール袋を持ち、カザミは通りの中央に移動した。人だかりもそちらへ移動した。
「ソラ! ラジオ!」
 カザミが叫んだ。BGMにするのだろうと察し、僕はラジオをリュックから取り出して、電源を入れた。
――っていうような、ニュースではそんなことをいってたな。でもまあ、復旧なんてのは別にいらないんじゃないかって俺は思うぜ。そんなに不自由はないだろ、東九龍ではさ。メシだってあるし電気は通ってるし――
「イエロウを黙らせろ」
「無理だよ」
「音楽はかからないのか」
 まだかかりそうにない、と返事した。カザミはシャツを脱いだ。ナイフで二つに裂く。長めの棒の両端に裂いたシャツを巻きつけ、固く結んだ。先端を交互に、手元のビニール袋に突っ込み、油を染みこませて少し振る。くるりと回す。油が散った。顔にでもかかったのか、外国人の小さな悲鳴が上がった。
 夕暮れから夜にかけての時間だった。カザミはどこかで拾ったのか、ライターを取り出して棒の両端に火をつけた。音を立てて激しく燃え上がる。あたりが明るく照らされる。どよめき。またくるりと回す。薄闇に赤く光の円が描かれ、観客が沸く。ラジオはイエロウのおしゃべりが終わり、激しい電子音の音楽が流れてきた。僕は音量を上げた。それを合図にカザミは棒を上へ投げた。すっとしゃがんで、地面に置かれた他の二本を両手に取り、落ちてくる棒をその二本の先のあたりで受けとめた。音楽はリズムを作った。カザミも片足をそれに合わせてみせた。両手の棒から火のついた棒がふっと浮き、落ちてくるところを、右端を上へ向けて打つ。コン、と音が鳴り、火の棒が回転した。半回転したところで左を打つ。また回転した。観客の騒ぎが大きくなった。カメラのフラッシュが連続した。リズムの早さに合わせて回す。炎は円形に動き、激しく揺れ、回り続ける。半回転から、より強く叩いて上げ、一回転に切り替えた。回転のスピードが速くなった。コン、コン、コン、と軽快な音。赤い輪がつくられる中、粉のように火花が散っていた。高めに上げて二回転。通りや観客は炎に照らされた。カザミがその中心にいた。浮かび上がる顔や首筋に汗が光っていた。音楽が激しくなってきた。コーダというやつだろう、カザミにそれがわかっていたのかどうか、曲の終わり際、最後に空中高く火の棒を上げ、右手の棒を投げ捨て、その手を上へかざし、ゆるやかに回転しながら落ちてくる火の棒の中心を掴んだ。最後に炎がバチバチと散った。曲が終わった。示し合わせたかのような一瞬の静けさのあと、拍手と歓声が上がった。カザミは右手をかざしたまま、汗をしたたらせ、目を閉じ、深く祈るようにうつむいていた。まだ燃えている炎がカザミを赤く彩った。
 アラムさんのほうを見ると、観客の中にまぎれて立ち、少し苦い顔をして拍手をしていた。
 ラジオを切った。労いたいが、いま、カザミには近寄りがたい。別の誰かのように感じられて、気後れする。
 カザミがこちらを見た。棒を地面に置き、フラフラと僕のところへ来た。
「どうだよ、俺のデビルスティック」
「……」
「言葉もない?」
「うん、なんていうか、大迫力」
 カザミは消耗した表情をしていたが、それでもニヤリと笑った。ひさびさにやったからな、という。
「ちょっと火傷しちまった」
 右腕を見せるのだが、暗さでよく見えなかった。平気そうにしているから、ひどい火傷ではないのかもしれない。
「おっさんは?」
「あっち」と僕はアラムさんを指した。カザミは今度はそちらへ行く。僕もあとを追った。外国人の観客の中、アラムさんは腕を組んで立っていた。
「どうだおっさん。おもしろかったか」
 苦々しいような顔で答えた。
「悔しいが、おもしろかった。予想以上だったな」
「息抜きになった?」
「多少はな」
「漏らした?」
「うるせえよ、漏らしてない」
 でも、まあ、という。
「対価としてはそこそこもらったな。取引成立ってことでいい」
「よっし!」
 カザミは手を叩いた。それから僕の肩をつかんだ。やったぜソラ、という。上機嫌だ。アラムさんが、ちょっと待ってろ、といってオフィスの横の外階段を上っていった。観客たちはどこかへ散っていった。
「カザミ、ありがとう」
「ん?」
「でも、ごめん」
「なんだよ」
「火傷が……」
 近くの店先の電灯のもとでよく見ると、カザミの右肩から二の腕にかけて焼けただれた痕があった。皮膚がグズグズになっていた。カザミは身をよじって自分の腕を見たが、なんてこともなさそうにしている。
「これは、じんじんするけどな、体の痛みは自分が生きてるって感じで悪くない」
「手当てしないと」
「いいよ。でも新しいシャツが欲しいな」
 どこかで買おう、といったことを話していて、やがてアラムさんが階段を下りてきた。
「おい、これをやるよ……ってお前、すげえ火傷だな」
「名誉の負傷だよ」
「そりゃかっこいいな。雑菌が入らないようにしろよ。どこかで消毒しろ。でだ、お前らにこれをやる」
 アラムさんは手に持っている冊子を見せた。観光パンフレットのようだった。表紙にある、東九龍ガイドの文字。
「中に地図がある。印をつけておいたから、そこへ行け。北部へ連れていってくれるはずだ」そういって僕に手渡した。
「そこでも何か、対価は必要ですか」僕は訊いた。差し出せる何かなど、もうないような気がしていた。
 アラムさんはちょっと考えている様子だっった。
「依頼はあるかもな。あいつらのまじないの手伝いだ」
「まじない? うさんくさいな」カザミが右肩の火傷をいじりながらいった。
「あまりさわるな。そこにいるのはまじない師と掃除屋で、何かを頼むと用事をいいつけられる」
 たいした用事でもないが、とつけくわえた。
「東九龍に掃除屋なんているのか。すげえ汚いところだと思うんだけど」
「掃除というのにもいろいろある。それは行けばわかるだろう」
 ふーん、というカザミは興味がなさそうだ。一方で僕はおもしろそうだと思う。掃除屋が何かはわからないが、まじない師というのに惹かれる。どんな術を使うのか、どんな人なのか。
 蛍光灯の周りに虫が飛んでいるのが見えた。視線をずらすと食堂の看板。もう夕食どきだろう、何か食べておきたい。カザミのデビルスティックに見とれて気づかなかったが、おなかがへっていた。
「じゃあ、せいぜい気をつけて行け。北部行きには旅行傷害保険をすすめたいが、金がないんだったな」
 はあ、と僕は曖昧にうなずいた。保険まであるのだった。
「おっさん、ここらでうまいもんない? 腹へった」カザミも空腹らしい。
「名物は玉子入り焼きそばだな。そのへんにある。安いしうまいぞ」
 じゃあな、といって階段を上がっていった。あんまりあっさり帰るから、お礼をいいそびれてしまった。
「素っ気ないな」
「でも、地図をもらえて助かったね」と僕は手元のパンフレットを見た。これはありがたい。カザミのおかげで手に入った。きっと北部へ行けるだろう。
「役立ててよかったぜ。で、俺ちょっと寒いんだけど」
 カザミは上半身が外気にさらされたままだ。そこらを見渡し、みやげもの屋の店頭に服がかけられているのを見つけた。そこへ歩いて行く。
 一番安いのでいいや、というカザミは黒っぽいシャツを買った。相場よりは高いのだが、この通りでは観光客相手の商売をしているのだから仕方ない。
 右肩の火傷にはりつくらしい。着たシャツを引っぱったりずらしたりしている。
「消毒はどうしよう」
「いらねえだろう。それよりメシだ。玉子入り焼きそばってのを食おう」
 その料理の屋台を探す。ネオンや蛍光灯が細々と照らす通りを歩き、酔っ払いたちの騒ぎを横目にあちこちを見る。
 小さなホテルらしき建物の前、路上に大きな鉄板とガス台があり、その鉄板で何か焼いている男がいた。周りには地べたやホテルの階段に座り込んで、紙皿に乗った何かを食べている連中がいた。みな外国人だ。
 鉄板では麺が焼かれていた。これが玉子入り焼きそばだろう。
 屋台の男に注文をする。
「玉子は入れるか?」指先に玉子を挟んで訊いてきた。僕らは頷く。男は片手で鉄板の角に玉子をぶつけて割り、麺の上に落とした。麺と混ぜ合わせ、調味料をざっとかけて一気に焼き上げる。
 料理はすぐに紙皿へ盛られて、割り箸と一緒に差し出された。代金を払い、それぞれ紙皿を持ってホテルの階段に座る。
 玉子入り焼きそばはおいしかった。確かにこれなら名物にもなるだろう。周りの連中もおいしそうにむさぼり食っている。
 食後、アラムさんに渡されたパンフレットを見た。地図は南部と北部のものがそれぞれ見開きで載っていて、印がつけられているのは端のあたり、北部との境界付近だった。
「東九龍は、広いな」地図を見つめてカザミがつぶやいた。

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