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断片 時計物語

 四六時中、起きていても寝ていても腕時計をつけている。数年来のこの習慣、もともとは自分に時間を意識させるためにやり始めたことだった。時間が有限であることを常に考えて、なるべく無為を避け、その有限の中でやるべきことをやり通す、そうした心構えとしての腕時計だ。ずっとつけているからベルトやケースの痛みも激しい。スミス&ウエッソンのミリモノ、ケンテックスの海自モデル、セールで買ったツェッペリン、他にはなにかのバッタもんや安物もつけてきて、それらはどれも使い潰してしまった。いまはアンダーンのサハラ、もらい受けたポールスミス、それとタイメックスのエクスペディションとウイークエンダー、この四つを使い分けている。このうちいちばん大切なものは、というとポールスミスである。その時計は何かの約束のように私のそばにある。時間を刻むことの上に重ねられた、決して忘れてはいけない心の在り方を私に教え、戒める。

 しかしまあ、酒はやめられても煙草はやめられないものだ。とはいえ紙の煙草はとうに吸っておらず、ニコチン入りのリキッドを蒸気にして吸うという、そんなタイプの電子煙草を使っている。もはやニコチンが脳に行けばなんでもいいのだと思う。賦活と鎮静。悪しき中毒性。甘いもののように、あるいはからいもののようにハマる。

 クラウディオ・アバド、まだ評価が定まっていないという。時間の淘汰を待っている人なのか。ベートーヴェンを振った全集を何度か聴いているが、どうだろう、すごくいいとまではいえないのかもしれない。マリス・ヤンソンスやロリン・マゼールと比べてどうだよ、などと思えば、確かにアバドよりすごい演奏というのは他にあるものだ。でもねえ。聴いてるうちに愛着が出てきたよ。とっつきやすいとはひとまずいえそう。

 大寒を過ぎ、冬が底を打って、さてここからは春へ向かうような時期だ。いまから楽しみにして待っていれば、気候の流れに乗り遅れることもあるまい。重たいコートをしまい込んでジャケットやらロングカーディガンやらを羽織って出かける、そのような浮き立つ季節が来る。桜だって見に行きたいじゃないか。ひとつの花びらはその瞬間にだけ咲いて、もう二度と同じものが現れることはなく、それ故に降りかかってきた花びらたちは儚くて切なく、美しく愛おしい。

 寺へ行くべきかどうか。親戚が初詣にでかい寺へ行くというので、それに乗っかって行ってみるか迷っている。御朱印が欲しい。だがそこは人出がえらいことになっているだろうから、感染しないという自信もないのだった。自由に気軽に外へ出られたのはもう二年も前の話なのだったか。まったくろくでもないこのご時世、寺や神社にすら安心して行けないとなれば、いったいどこで願いを叶えてくれたり、祈りを聴いてくれたりするのだろう。いま神仏は何を想う。



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