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『東九龍絶景』 4

 4 ミルイザのダマスカス

 何か食おう、とカザミがいうので、そこらにある食堂を物色した。カジノの周辺からはだいぶ離れていた。僕はこのあたりにも来たことがない。
 うらぶれた、というのは東九龍ではどこでも同じようなものだが、ここらはもっと寂しい感じがした。静かで、より暗い。
「地味なとこだな」カザミが呟いた。
 足元が見えない道の先に、裸電球を灯した屋台が出ていた。近づいて店先を見ると肉の串焼きを売っていた。いい香りがする。焼ける音もそそる。
「カザミ、これを食べよう」
「肉か。好きなのか?」
「普段あまり食べないんだ」
「これは牛肉だな。食うと強くなるぞ、牛は強いからな」そういって拳をぐっと握ってみせた。
 店主は頭にバンダナを巻いた青年だった。右腕にぐるりとタトゥーが彫ってあった。二本注文すると、既に焼き上がっているものを炭火で温めた。
 青年の後ろの地面から、何か聞こえた。
 ラジオの音。派手な音楽。
「イエロウの放送ですか?」
 青年に訊いたが、目を合わせただけで何もいわなかった。話す言葉が違うのかもしれなかった。
 熱く温められた串焼きを手に、僕らはまた歩いた。カザミは固い肉だと文句をいったが、僕はおいしく食べた。
「イエロウってなんだ?」
 口をもぐもぐと動かせながら訊いてきた。
「ラジオを放送してるDJ。ラジオ・インフェルノっていう番組」
「ソラはラジオを持ってるのか」
「昨日手に入ったんだ」
 ラジオか、いいなあ、といって串を通りのわきに捨てた。
「聴きたければ持ってくるけど」
「うん、聴いてみたいな」
 僕も串焼きを食べ終えた。串を捨てる。普段ポイ捨てはしないのだが、今夜はなぜかそうした。
 気分がいい。強い牛を食べて体力がついたようにも思う。足は疲れているが、まだ歩ける。
 点々と窓の明かりがある街路に入った。進むたび少しずつ光が増えていく。往来を行く人もちらほらいる。だいたいは酔っぱらいだった。その中に物売りと客引き。
 古本売りが路上に座っていた。腕を組んでうなだれている。一冊いくらと、立てかけた段ボールに書いてある。僕はそこに吸い寄せられた。
 雑誌が主な商品のようだった。女の裸の写真が表紙にあったりする。後ろから来たカザミがそれを手にとってめくった。僕は活字の本を物色して、いろいろと手に取ってみた。
 カザミがしびれを切らして、早くしろ、というまでそうしていた。結局一冊も買わなかった。
 店を離れてから訊いた。
「さっきの雑誌は買わなくていいの?」
「あのエロ本か、別にいいよ」
「エロ本?」
「知らないか、センズリに使うような本なんだけど」
 よくわからなかったので黙った。僕の知らないことだ。
「女は生身じゃなきゃな」そういって笑顔を見せた。僕はたじろいだ。そういうことにはとんとうとい。
 黙っていると茶化された。
「お子様のソラ」
「いいだろ、別にそんなの」
「お子様のソラ、俺の友達」
 歌うみたいに、屈託なくそういった。
「まだ会ったばかりだけど」
「時間じゃねえ、何を一緒にやるかだ。カジノで遊んで、メシ食って、並んで歩いてる。友達だ」
 もともとお金をふんだくろうとしていたのに、あっさりしたものだ。
 道の先に、五階建てほどのビルがたくさん見えた。窓や街灯がたくさんあり、進んでいくとずいぶん明るかった。香辛料のにおいがする。五香粉(ウーシヤンフェン)だ。
 道で寝転がっている人たちを横目に歩く。浮浪者たちだ。東九龍では仕事は少ないし、給与も少ない。
 僕は将来どんな仕事をしよう? 選べるほどいい町ではなさそうだが。
 肉屋が、カゴから逃げた鶏を追い回していた。羽根を広げ、素早く逃げていく。
「焼き鳥も食べたい」
「お前、けっこう大食いだな」
「妙におなかがへるんだ」
「疲れたのかな。ミルイザになんか食わしてもらおうぜ」
 もうすぐ着くから、といい足した。
 ビルの路地裏に入り、闇に慣れてきた目で、苔むした坂道を上っていく。ぐにゃ、と嫌なものを踏んだ感触があったが、構わずにカザミの後についていく。するすると進んでいくのを、初めてここに来た僕は苦労して追いかける。
 坂道の半ば、赤く色づいた頑丈そうな窓が見えてきた。その赤は時折ゆらぐ。闇夜に映える光だ。
 カザミが窓のそばに立ち、その隣のドアをノックした。ミルイザ、と呼びかける。反応はなかったが、ドアを開けて入っていった。
 そのとき僕のいるところまで熱風が届いた。ドアから吹きつけてきたのだ。開かれた入口のあたりは煌々と照っている。赤色とオレンジ色とが混ざったような色だ。
 金属音がリズムよく響いていた。
「ミルイザ!」カザミが中へ向かって声をかけた。やはり反応はなく、ただ金属音が聞こえるだけだった。
 カザミがふっと中へ入っていったので、僕も追いかけて入口に立った。
 熱がこもっている。肌が熱い。
 部屋の中は明るく、一瞬目が痛くなった。まばたきしながら見る。焦げ茶色の壁に囲まれ、何かを吊すチェーンが数本、天井から下がっている。鉄屑の山が部屋の隅にきらめき、やはり鉄であろう何かの塊がそこらに転がっていた。赤っぽく浮かび上がるその部屋の風景の中、窓際にカザミと、大きな背中をこちらに向けた男を見た。
 カザミが男に話しかけていた。やがて金属音のリズムが途絶えた。男はハンマーを持ち、金床に向かっていたのだった。低い粗末な椅子から立ち、んん、とうめいて腰を伸ばした。首をぐるぐると回した。パキ、という骨の音。
 男がこちらを見た。手招きした。僕はそちらへ近づいた。熱の正体がわかった。窓際に大きな炉があり、その内部が激しく燃えていたのだ。
 男は長身で、肩と腕が盛り上がり、頭はドレッドヘアという、あまり見たことがない髪型にしていた。顎を覆う黒いヒゲ。
 男はタオルで顔を拭った。
「一本欲しいんだって?」
 低い声で僕にいった。頷いて、はい、と答える。
「俺の作品が欲しいんだな?」
「はい」気圧されつつ答えた。
「わかった。よく来たな、何か飲め。俺もちょうど休みたいところだ」
 僕とカザミの横をのしのしと通り、部屋の奥へ行った。
「ミルイザは冷蔵庫を持ってるんだ、いいよな。でも、こんな暑い部屋にいちゃ必要だよ」
 カザミがそういった。
「確かに、暑いね」
「あいつは一年中ここにいるんだ。よくやるよ」
「こっちに来い」ミルイザさんが奥から呼んだ。僕らはそちらへ行った。
 ガラクタまみれの汚れたテーブルに、グラスが三つ置かれた。白い箱――あれが冷蔵庫だ――から瓶を取り出し、ミルイザさんは中の水を注いだ。
 飲め、と目でいい、先にグラスを干した。僕もグラスを手にした。一口飲む。
 しょっぱかった。
「ミルイザさん、塩が入ってますね」
「飲まねえと死ぬぞ。クソ暑いからな、体から塩分が抜けちまうんだ」
 ミネラルもたっぷり入ってるぜ、とつけ加えた。僕は少しずつ飲んだ。
「カザミも飲めよ、俺の特製ジュース」
「やだよ、まずいんだから」
「ここに来てこれを飲まずにぶっ倒れたやつを、俺は十人以上知ってる。そのうちひとりはいまも寝たきりだ」
「脅かすんだもんなあ……。わかった、飲むよ」
 カザミはしぶしぶ口をつけた。顔をしかめて飲む。
「ジュースもいいけどさ、食いものない? こいつ腹へらしてて」
「食いものか」ミルイザさんは僕を見た。「何が食いたい? それと、名前は」
「いただけるなら何でもいいです。名前は、ソラ」
「ソラか……空……飛ぶもんがいいな。縁がある。鳩を焼いてやろう」
 そういってまた冷蔵庫を開けた。羽根をむしってある鳩が一羽、まるごと出てきた。
 串を刺して窓際に行き、炉のそばに立てかけた。すぐにいい香りが漂ってきた。
 火力が強い。数分で鳩の丸焼きは完成した。皿の載せ、タレをたっぷりとかけ、僕の前に置かれた。テーブルにつき、お礼をいった。
「いいんだよ、人に何かしてやるってのは自分のためなんだ。結局は全部そうなんだ」
「おもしろいことをいいますね」
「そうかい。俺は作業をしながらときどき考え事をしてるんだ。鉄を打って、刃を研ぎ、そうしていると教訓が降ってくる。瞑想みたいなものか……いや、食いな。冷めちまう」
 いただきます、といって食べた鳩は、くさみが消されていておいしかった。
 僕がかぶりついていると、カザミがいった。
「で、さっきもいったけど、何か一本をソラにって話」
「お前のリーダーがいったのか?」
「そう。気に入られたのかもね」
「ケツをか」
 僕はむせた。
「いや、やられてないよこいつ」
「珍しいな。あいつ普段やりたい放題なんだろ?」
「そこはさ、リーダーたちの愛の問題なんだよ」
「愛ねえ……。愛は美しいな」
「美しいもんなの?」
「ああ、知れば美しいとわかるさ」
 鳩を食べつつ、横で聞きながら僕は考えた。愛は美しいとミルイザさんはいうが、それはどこで知るのだろう?
 鳩を食べ終えると、またそれぞれのコップに塩ジュースが注がれた。
「もういいってこれ」カザミが文句をいった。
「飲まねえなら帰れ」
「ああ、もう」
 カザミは一気に飲んだ。僕も飲む。
 ミルイザさんが訊いた。
「ソラ、どんなのがいい? 好きなものを持っていけ」
 そういって指で示した壁に、赤い光の中にきらめく何十本もの刃物がかかっていた。武器庫というか、戦争に備えてでもいるかのようだった。小ぶりなもの、形状がくねったもの、ナタのように大きなもの、剣と呼べそうな長いものなどがある。
「僕は詳しくなくて。どれがいいか、ちょっと」
「好きなもの、といったんだ。ピンとくるやつを取れ。直感だ」
 壁の前に立ち、眺めた。これだけあると何がどうなのかわからない。
 カザミのナイフを思い出した。うねる模様の浮き出た、鈍く光る刃の一本。
「カザミが持ってるようなのってありますか?」
 ん? とミルイザさん。「お前のはなんだっけ」
「ダマスカス」カザミは答えた。
「そうか、それなら」といいながら壁の上のほうにかかっている一本を取った。「これがそれだ。同じ素材と製法」
 きれいだ、とただ思った。ミルイザさんの手の中、それはくすんだ色をしているが、すらりと伸びていて、模様はやはり水面の波のようなうねり。
 差し出された。両手で受ける。ずっしりと重たく、冷たかった。指の皮が刃先に軽く引っかかった。
「惚れたな。そいつにするか」
「はい。それであの、代金は」
「金はいらねえよ。どうせ高いもんじゃない。さて、次はグリップだな」
「グリップ?」
「持つところだよ。そのままだとむき出しで使いづらいだろう」
 そういって壁の脇の木箱を引きずってきた。ガチャガチャと音がした。
「選べ」
 また難しいことになった。グリップ、持ち手はどうすればいいか、何がいいものなのか。
 ナイフをミルイザさんに渡し、木箱のそばにしゃがむ。ゴム製、鉄製、木製などがあり、動物の骨のようなものもあった。
 目を引くものがある。赤の鉄製のもの。手に取ってみる。やはりこれも冷たく、重い。握りこむと手によくなじんだ。指が曲線にぴったりと合わさるようになっていて、心地いい感じがした。
「決めたか。じゃあそいつをつけてやる」
 グリップを渡した。それを縦に、割るように外した。内側に凹凸がついていた。ナイフを挟むようにしてグリップをはめこんだ。両手でぐっと押さえて固定した。完成形はこういう感じだ、といった。少し毒々しい見た目になった。
「派手だよそれ」とカザミ。
「個性的っていうんだよ」ミルイザさんがいった。
「まあ、派手ではあるが……。ダマスカスを選ぶのは子供が多いな。これから成長していくやつだ。赤のグリップを選ぶのは冷酷になれるやつで、心が揺らぐことが少なく、戸惑わず敵を殺せる」
「殺しませんよ」
「俺のナイフ占いだ。当たるぞ」
「カジノのリーダーにいわれたんですよ、誰も殺すなって。いわれなくても殺さないですけど」
「あいつの意見もな、そりゃあるだろうが、ナイフってのは切ってなんぼ、刺してなんぼだ。せめて身を守るためには切れ。刺して殺せ」
「怖いよその発想。ひけらかすだけで十分なのに」カザミがいった。
「お前はぬるい。殺し合いの経験はあるか?」
「ないよ、おっかねえな」
「一度やってみろ。命の軽さと重さがわかるんだ、感触として理解できる。戦えば一方は虫のように死ぬし、一方は神のように生きる」
「そういうもんか」
「ソラにもおすすめだな」
 リーダーは殺すなというし、ミルイザさんは殺せという。どちらが正しいことなのだろうか。
 僕は北部へ行く。醜悪で危険とされる北部で、ナイフを持った僕はどうするだろう。
 手の中のナイフを裏返したり縦にしたりして、ミルイザさんは目を細めた。
「調整しなきゃダメだな。刃が少し錆びてる。夜のうちに直しておいてやるから、泊まっていけ」
「暑いのに」カザミがまた文句をいった。
「奥の部屋を使え。そこはまだマシだ」
 じゃあ借りるよ、おやすみ、といってカザミは奥へ行った。
「ソラはどうしてナイフがいるんだ?」
「北部へ行く、とリーダーにいったら、まずここへ行くようにっていわれて」
「なるほど。なら武器は必要だな」
「やっぱり、危ないですよね」
 ミルイザさんは黙り、シャツを上げて腹を見せた。へその横に大きな傷があった。ケロイドになっている、ピンクと白の傷跡。
「こうなる程度には危ないな」
「それは……北部で?」
「探しものをしてたら襲われた。油断だな」
 シャツを戻して話した。
「このダマスカス鋼の刃物は製法が特殊でな。昔、シリアという国のダマスカスっていう町で作られてたんだ。ロストテクノロジーってやつで、俺はそれに似せて作っただけだ。本当のダマスカス鋼の刃物は、ただ鉄を打てば作れるってもんじゃない。ウーツ鋼やら何やら、素材も複雑だし、練り方だって普通じゃない。ただ、鍛冶をやってると試したくなるような、おもしろいものだ。本物は作れなくてもな」
 似せるための作り方は邪書に書いてあった、とつけ加えた。
「邪書を読んだんですか?」
「北部に行ったとき、ダマスカス鋼のページを書き写したものを手に入れた。襲われたのはそのせいかもしれない。邪書は機密なんだろう」
「……僕は邪書を読みたいと思ってます。できれば持ち帰りたい」
 ミルイザさんは口元で笑った。
「死ねるか? 邪書のために」
「死なないと思います。邪書は姉が持ってるんですよ」
「お前、ハルカの弟なのか?」
 驚いたな、といったが、そぶりには出ていなかった。
「それなら無事に行けるかもしれない。いくらなんでも弟を殺させはしないだろう」
「そうだと思いたいですけど。もう何年も会ってなくて、いまどんな人になっているかも想像できないんです」
 ハルカはな、とミルイザさんはいった。
「ひとことではいえない、というかどういう言葉でいえばいいかわからない。何者なのかとはいえない」
「でも、ただの人間でしょう」
「それも怪しいな」
 さあ、もう寝ろ、といって奥の部屋へ行くよう促された。おやすみなさい、というと、よく休んでおけ、といわれた。
 炉の光が届かない奥へ行った。ボロボロの木の扉を開けるとベッドがふたつあり、片方にカザミが横たわっていた。規則正しく息をしているが、寝息というわけでもなさそうだった。壁に向かっている姿勢のままカザミはいった。
「いいやつだろ、ミルイザ」ぼそぼそとした声。「ジュースには参ったけど」
「なんだか行く先々、いい人ばっかりだよ」
「南部には悪いやつはいないかもな、だいたいはだけど」
「北部は? ミルイザさんの傷を見たら怖くなった」
「やめるか、北部行き」
「やめない」僕はいった。「姉さんに会いたいし、邪書も読みたい」
 ふたりとも黙った。僕は空いているほうのベッドに入り、脂っぽく汚れた薄手の毛布をかぶった。枕はないようだった。
 仰向けになる。
 カザミがつぶやいた。
「俺もついていく。一緒に行こうぜ、北部に」
 迷った。来てくれるのなら心強い。だけど、危ない目に遭うかもしれない。
 僕を友達と呼んでくれたカザミを、危険な北部に連れていっていいのだろうか。
 カザミが寝返りをうち、こちらを向いた。
「はっきりいうよ。ソラがひとりで北部に、ってのはたぶん危なすぎる。俺が役に立ってやるよ。お前を助けてやる」
 それだけだ、といってまた壁に向かった。
「危なくても来る?」
「危ないから行くんだよ」
 しばらくして、カザミの寝息が聞こえだした。

 翌朝、ミルイザさんに肩を揺らされて目覚めた。起きろ、という。
「いい仕上がりになったぞ。キレッキレの、すごくいい一本だ」
 浮かれたような調子でそういい、部屋を出ていった。僕が身を起こすとカザミはまだ寝ていたので、放っておいて工房へ行った。
 工房には朝日が差し込み、それが炉の火と合わさって不思議な明るさだった。白の光と赤の光。暑さは相変わらずで、また僕は塩ジュースを飲まされた。
 飲み終わらないうちから、そわそわした様子のミルイザさんがナイフを持ってきた。
「ダマスカスナイフ、ソラ・カスタムだ」
 手の中でくるりと回し、グリップをこちらに向けた。持て、と目でいっている。
 右手で握った。
 刃の部分は鉛のような色で、波のような模様が浮き、重く、グリップは冷たいが、だんだん体温が移ってなじんできた。すらりと伸びたそのナイフに釘づけになった。美術品だ、と思った。
「いいだろ? なあ」
 まだ上機嫌のミルイザさんが嬉しそうに笑った。
「だいぶ古びてたからな、少し鍛え直して、刃の調整もしておいた。薄い鉄くらいなら貫通するくらいの強度がある」
 刃に魅せられ、言葉を失った僕はようやく、ありがとうございます、とだけいった。
「よし、じゃあ戦い方を教える。知っておいて損はないはずだ」
 昨晩、カザミは僕と一緒に行くといった。僕を手助けすると。ならば、僕もカザミを手助けしなければならない。
 戦わねばならない。
「教えてください」
「おう。でも難しいことは何もないんだ。フェンシングは知ってるか?」
「西洋の剣術ですか」
「そうだ、あれを真似するだけでいい」
 ミルイザさんは手近にあった別のナイフを持ち、腕をすっと伸ばした。ナイフは右手にあり、その切っ先は僕に向けて、左腕は肘を曲げ、腰のあたりにあてた。右足も前にすると、体の右半分が僕に向いた。
「これが基本だ、やってみろ」
 同じ体勢をとった。右腕を伸ばしてナイフを向け、左手を腰。いいぞ、とミルイザさん。
「あとはアタックのときに一歩、大きく踏み込んで刺せばいい。簡単だろ」
「うわっ、何やってんだお前ら」
 起きてきたカザミが驚いた様子でそういった。
「戦い方を教えてる」
「そっか、喧嘩してるのかと思ったよ」
 ナイフを置き、ミルイザさんはカザミに塩ジュースをすすめた。カザミは溜息をついて冷蔵庫を開けた。僕は構えを解いた。
「ソラ、殺しをためらうなよ。ためらえば殺されるのはお前だ」
 朝飯を作る、食っていけ、といって冷蔵庫の横の戸棚を漁った。
「殺さなくてもいいじゃんって思うのは、俺が南部しか知らないからかなぁ」
 カザミはそういった。僕はナイフを見ている。かっこいいなそれ、とカザミ。
「シースはもらったか」
「え?」
「鞘だよ」
「ああ、まだもらってない」
「ミルイザ!」
 カザミが呼びかけたが、調理中で、返事はなかった。大きな背中をこちらに向けて、フライパンなどを手にあれこれとやっている。
 料理ができるまで待つことにして、僕とカザミはテーブルについた。回りを見る。朝陽が入ると、この工房の迫力がよくわかった。威圧的というのか、そうでありながら清浄さも感じる。壁にかけられた無数の刃物は控えめに光っていた。炉はまだ燃えている。
 僕はナイフをいじった。刃先をつついてみたり、裏返してみたりして眺める。これが僕を守ってくれるだろう。そう思うと愛しいような気になった。愛刀、という単語を思い出した。
 カザミのあくびが三回出たところで料理が出てきた。トースト、スクランブルエッグ、ベーコン、コーヒー。
「食え。うまいはずだぞ」
 そういって座った。いただきます、といって僕はトーストを取った。
 スクランブルエッグを頬張ってカザミがいった。
「ミルイザのさ、最高傑作ってどれ? あの壁にあるのか」
 いいや、という。
「最高傑作はまだ作っていない」
「これからか」
「ああ。俺には自負があるが、まだまだだとも思う。もっといいものが作れるはずなんだ。挑戦したいものもあるしな。この国の名前がついた剣を、一振りでいいから作ってみたい」
「この国って、東九龍か」
「日本」僕はいった。
「そう、日本の、日本刀ってのを作ってみたいんだ。素材も製法もえらく特殊な剣らしいんだが、以前、一目見てゾクゾクした。青ざめたような色の、クールな、美しいものだった」
 そこで頼みなんだが、と続けた。
「邪書を手に入れたら、刀剣のページを写させてくれ。きっと製法はそこにある。俺はダマスカスのページの写ししか持ってないからな」
「わかりました。そのときには必ず」
「生きて帰れ。用心深くやれよ」
 食事を終えた僕たちは、そろそろ出発しようかというときになり、そこでカザミがシースのことをいった。おお、そうだったな、といってミルイザさんは立ち、薄茶色の革のシースを持ってきた。
「ベルトに通せるようになってる。抜きやすいところにつけろ」
 そういわれ、ベルトを外し、輪になっているシースの上部を通して、またベルトをつけた。腰の左側に据えて、ナイフを納めた。
 武器を帯び、気分が張り詰めた。命を奪えるほどの力を持った、ということがとても高揚するものだったし、同時に怖くもあった。
 イズキさんの図書館の、古い本の一節が浮かんだ。
 殺しなさい。
 そして君も殺される。

 今日の作業をやる、というミルイザさんに挨拶をして工房を出た。出入り口のところで厚手の紙の束をくれた。ナイフについた血をぬぐうものだそうだ。
 坂道を下りながらカザミがいった。
「もうさ、殺すっていう前提みたいだよな」
「それで当たり前だって感じで話してたね」
「元軍人だからかな」
「そうなの?」
「噂だけど」
 朝の終わり、昼の始まりごろの陽光に照らされて僕らは歩いた。行くあてをあれこれと話したのだが、とにかく情報がないと動けない、ということもあり、人がたくさんいるところで誰かに訊くことにした。
 カザミがいうには、東九龍の外から来る連中の溜まり場があるらしい。その通りには物売りや旅人たちも集まっているそうだ。
 とにかく、北部への行き方を知らなければならない。人が多いその通りで訊いて回ることに決めた。
 夜のうちに投げ捨てられたゴミが、腐って乾くにおいがする。いつもの東九龍だ。嗅覚になじんだ、僕の住む町のにおい。
 歩いていくとすれ違う人々の数が増えてきた。見覚えがあるような気がして、それは錯覚ではなかった。僕の部屋が近いのだ。
「カザミ、ラジオを聴きたいんだったよね」
「そりゃ聴きたいけど」という。「いまそんな場合?」
「僕の家がすぐそこなんだ。取ってくるよ」
「のんきだな、北部に行くのに」
 ラジオを聴きたいのはカザミだけじゃない。僕だって聴きたいのだ。あの浮かれたイエロウのおしゃべりと、気分が上を向く様々な音楽。
 歩き続けた。ミルイザさんが作ってくれた食事のおかげか、体力は十分にあり、足はサクサクと進めることができた。
 あるいは食事のせいではなく、腰のナイフのせいかもしれない。武器を持つと恐怖や不安がなくなる、ということを知った。不必要な警戒心を持たずに町を歩ける。
 東九龍を悠々と歩ける。
 きっと北部でも難なく先へ行けるだろう。ハルカのところへ行き、邪書を取り返せるだろう。そう思った。
 屋台街の喧噪が聞こえ、料理のにおいが漂ってきた。カザミに、もうすぐ着くよ、といった。
「マンションの一部屋なんだ」
「ひとりで住んでるのか?」
「姉さんがいなくなっちゃったから」
 屋台街の横を抜け、マンションが両隣にそびえる道で、カザミは上を見た。
「高いな。リッチな感じがする」
「上ると見晴らしがいいよ」
 マンションのエントランスで、ここだ、といった。カザミは花壇の雑草やそこら中のゴミには驚かなかったが、マンション名が彫られた、錆びたプレートを見て反応した。
「高級マンションってやつか? こういう板がついてるってことは」
「いや、ただの廃墟じゃないかな」
 ふたりで階段を上っていく。いつもは僕の足音だけが響くところ、いまはもうひとつ聞こえて、それがなにか嬉しい気がした。
 512号室まで来て鍵を開ける。カジノへ行き、ミルイザさんの工房で一晩過ごしてから帰ってみると、この家が懐かしく、気分が落ち着いた。
 いい家だな、とカザミがいった。
「きれいだし」
「掃除は嫌いじゃないから」
 カザミはリビングを突っ切っていって窓の外を見た。僕の自慢の景色だ。遠くの建物、眼下の屋台街の雑踏。
「けっこういいでしょ」
「いいな」
「僕が買ったわけでもないけど、この家はちょっと誇らしい」
 コップを出してギミタラ茶を注いだ。窓の外を見ているカザミに渡す。おいしそうに飲んだ。
「お茶か」
「ギミタラのお茶」
「ミルイザにも教えてやりたいぜ。あの塩ジュースよりずっとうまい」
 くっと飲み干した。もう一杯注いでやってから、僕は自分の部屋に入った。
 枕元のラジオを持った。電源を入れるとノイズが聞こえた。ダイヤルを合わせる。ラジオ・インフェルノはいま音楽を流していた。重い音がズンズン鳴っていて、そこに電子音がメロディーを重ねていた。
「ラジオだ」カザミが寝室の入口に立っていた。「初めて見た」
 ラジオをカザミに持たせた。珍しそうに見ていた。ここから音が出てるんだな、と呟いた。
「この音楽はなんだ?」
「わからないけど、イエロウの番組」
「ノリノリってやつだな」
「何それ」
「古い言葉」
 しばらくふたりで、突っ立ってラジオを聴いていた。この不思議な、何の楽器なのかもわからない音色に耳をすませていた。
 曲が終わり、イエロウがしゃべった。
――さあ一曲お届けしたところで俺が登場、DJイエロウだ、よろしく。邪魔だって? そんなこといわないでくれ、俺だっておしゃべりはしたいさ。知ってるか、人はひとりじゃ生きられないんだってことを。この放送、ラジオ・インフェルノを聴いてくれる君らがいてくれる限り、俺は生きられるだろうさ。俺は声が届くだけでもいい、それだけでいい。聴かせたい音楽はあるけどな、それは番組をやる理由の半分だな。でも、音楽、こんないいものはないぜ。俺ひとりのものにしておいちゃダメなのさ。ディスクを手にしたやつの使命みたいなもんだ、いいものを、より多く届けなきゃいけない。世界の美しさってのはすべて音楽が教えてくれる。だから聴こうぜ、俺も君たちもな。さあ、次の曲にいこうか。シブいのをやるぞ、いいかな? さっきのはみんな大好きクラブミュージックだったが、クラシックっていうジャンルがあってだな――
 棒立ちのカザミに椅子をすすめて、ラジオはテーブルに置き、僕は新しくギミタラ茶を作った。まだしばらく外出するだろうから、水筒に乾いたギミタラの葉と水を入れた。お湯を使わなくてもおいしいものが作れる。水の場合は少し長く待てばいいだけだ。
 ラジオからは穏やかで悲しげな曲が流れていた。楽器はふたつ使っているようだ。ボールみたいに弾む音と、糸のように細く伸びる音でできた音楽。
 カザミは聴き入っているようだ。うつむいて動かない。僕は窓の外を見た。正午は過ぎているが、西日が差すまではまだだろう。
 クラシックとやらの曲が終わり、カザミは顔を上げた。どうだった、と訊いた。
「どういえばいいかわからない。でも、きれいだったな」
「いいものをいっぱい聴けるんだ。僕はイエロウのファンだよ」
「どこから流してるんだろう」
「北部だって」これはイズキさんからの情報だ。「放送局があるらしい。海賊放送局」
「海賊?」
「違法で電波を使ってるってこと」
「なんで違法なんだ」
「それは知らないけど」
「北部はなんでもありだな。楽しいところなんじゃないか、もしかして」
 うーん、と僕はうなった。南部でいろんな話は聞いているものの、結局北部のことはよく知らないのだ。本当はどんな場所なのか。
「行ってみなきゃわからないね」
 やっとそれだけはいった。
「じゃあ、まあ、行くしかねえな。興味が出てきたよ」
 そういってまたラジオを見た。次の曲が流れている。壮大な、いろんな楽器が鳴っている音楽。
 その音楽に鼓舞される。
 うまくいく気がする。
「一緒に来てくれるんだね?」
「そういったはずだ」
「わかった、行こう」
「さっき話した通りがこの近くだと思う。旅行者とか物売りとかの通り。この屋台街からすぐだよ」
「思い当たる場所はあるけど」
「行ったことないか?」
「横目で見るくらいだね」
「けっこうおもしろいんだけどな」
「ちょっと怖くて」
 カザミが笑った。
「北部に行くってやつが、あんなところでビビるなよ」
 そういって玄関へ行った。僕はハルカの部屋に入り、壁の写真をじっと見た。会いに行くんだ、と念じた。それからギミタラ茶の水筒をリュックに入れた。
 早くしろ、と急かされて家を出た。マンションの廊下を歩き、階段を下りていく。踊り場から太陽が見えた。天井の横から強く照らす。肌がほてる。
 エントランスを出て、だいたいあっちのほうだな、とカザミが指差した。
「ソラ!」
 遠くから呼びかけられ、そちらを向くと、今日もビールを飲んでいるあの男がいた。いつもの屋台の、いつもの席。
 カザミを連れてそちらへ近づいた。
「遊んできたか? カジノ、よかっただろう」
「それなんですけど、勝てなくて」
「最初はよかったけどな」とカザミ。
「そうか。また行けばいいさ。いずれ当たって儲かるもんだ」
「残ったお金、お返しします」と財布を出したが、受け取ろうとしない。持っておけ、という。
「貸したんじゃない、あげたんだよ」
「……ビール代だけでも」
「それならもらおう。大歓迎だ。おい、もう一本くれ!」
 店主は笑って応じた。氷水の入った箱からビールを取り出し、男のテーブルに置いた。また僕にすすめるのだが、断った。
「おっさん、俺が代わりに飲むよ」
「イケるクチだな、少年。じゃあ飲め」
 新しいグラスになみなみと注ぎ、カザミはひと息に飲んだ。うまい、という。
「君はソラの友達か?」
「うん、友達。カジノで知り合ってさ」
「仲よくしてやってくれ。そこんとこくれぐれも頼む。ソラは勉強ばっかりで遊ばないんだ」
「俺も仕事はあるんだけどね」
「何やってる?」
「カジノのガイド」
「立派だ。おい、ソラの友達は立派だぞ!」
 また店主にいったが、鍋をかきまぜていたからか、無視された。
 さて、とカザミがいった。
「じゃあ行くか」
「どこ行くんだ? もっと飲めよ」
「用事があるんですよ」と僕。
「そう、大変な用事だよ。おっさん、ビールありがとう」
 さびしげな表情をした男は、すぐにまたいつもの陽気さでいった。
「またな! 次はふたりにおごってやる、メシでも酒でも」
 男はそういって、挨拶のように軽くグラスを上げた。僕は手を上げて応じ、カザミはさっさと屋台から離れた。雑踏の中でカザミに追いつく。
 にぎやかなこの屋台街をまっすぐに歩いた。別の通りにぶつかる。リヤカーを押す人々、自転車で走る人々が多い。あっちだな、とカザミは右を指した。歩いていく。ビルやマンションが急になくなってきて、背の低い建物が道の両脇に並ぶ。バラックの小屋もかなりあり、それらの小屋は必ず草むらの中に建っていた。入口からは中が黒く見え、様子はわからない。
 小さな子がカザミの前に飛び出してきた。カザミを見上げ、走ってバラックの中に逃げた。
「ソラ」カザミが訊いた。「俺は怖いか」
「目つきが悪いかな」
「こんなにナイスガイなのに」
「人相はしょうがないものじゃないかな」
「しょうがないのか」
「うーん。たぶん」
 しゃべりながら歩き続けた。遠くに色とりどりの、いくつもの看板が見えた。行き来する人たちも増えてきた。あのあたりだろう。
 近づいていく。

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