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断片 生きろと呼ぶ声が聞こえ

 生きてりゃ死ぬわい、とは中上健二の小説の中に出てくる台詞。作中あっさりといわれるこのひとこと、何回思い出しては頷いたかねえ。プラスとマイナスのように生と死がある。陽と陰、朝と夜、光と闇、そんな感じの両極だ。いや、別に誰かが死んだとかそういうことがあったわけでもなく、この断片のタイトルに引っぱられて書いているだけなのだが。人間どうせ生きているうちのことじゃないの、とは山本周五郎の小説の台詞。なんかみんないいこというな。小説っていいこといわなきゃダメなんじゃないの。ひとつ勉強しました。

 承前。生き死にに関するいいことをいうそのスキル、経験、死生観、ここ大事かもしれない。人生の最大の問題ってそこじゃないですか。自分のことから家族から交友関係から。みんなが抱えてるその大問題にひとこといえたら、書けたらいいですよね。そこでは何を書くかってこととどのように書くかってことと、要素は二種類かそこらあると思うが、ほら、小説ってけっこう人が死ぬじゃないですか。死んでいく登場人物に何を託すのかだとか、なんかそのへんにヒントがありそうなのだ。登場人物は必要があって死ぬ。物語の要請でそうなる。その死の意味、メッセージ、感情の揺らぎ。やはり何かありそうだ。

 なんか真面目に考えてみたところでどうしたことでもない。金井は別にどうもしない。今日も雑文を書いて生きている。夏はこうはいかないですね。七月から九月あたりまではもう執筆漬けの日々となるだろう。がんばって書いて、出版社の賞に送りつけて、そのあとは運がよければケツに奇跡を突っ込まれてプロデビューだ。いい仕事をしよう。小説は斜陽の分野だってみんないうんだけれど、私もそう思うのだけれどもね、夢とか憧れを超えて信仰みたいなことになってきてるんで、じゃあさ、信仰ならば実践するしかねえよなと。あとは食えればいいくらいのもんで。食うのすら大変らしいんだけど。いやはや。

 オーディオ機器の沼というのがある。プレイヤーとアンプとスピーカー、これらをいいもので揃えれば音楽の聴こえ方がまた違ってくるだろう。私にはちょっとまだ手が出ない沼。いいディスクを持っていてもいいオーディオで聴かねばもったいない、ということはあるかもしれない。たぶんあるんだろう。ところがどすこい、大枚をはたかずともちゃんと音楽は聴ける。私のメインのスピーカーはタイムドメインの安いやつで、これで十分鳴っているから文句もない。ただしCDプレイヤーについては沈黙するしかない。いえばマニアの方々は鼻で笑って相手にしないであろう。何がいいたいか、というと、今日も音楽を楽しんでいますってだけ。メンデルスゾーンの弦楽四重奏、いいねえ。

 課題図書というのが昔から苦手で、みんなで一緒に何かをやるというのがダメだったんですね。やるならひとりでやりたいと。高校のときなどは漱石の『こころ』を読まされることになったんだけど、気が乗らず一切手をつけず、代わりに確か『希望の国のエクソダス』とか読んでました。反社会分子ですねえ、そんな高校生は。法律には従ってたんだけど。あ、嘘ついた。煙草吸ってました。酒も飲んでました。文学系の不良だったのかな。やりたいようにやってて、思い返せば非行があった。あの頃にもうちょっと文学を仕込んでおけばよかったですね。家に世界文学全集があって子供の頃からそれを読んでいた、という人もいるじゃないですか。メチャメチャ羨ましいですよそんなの。



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