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『東九龍絶景』 6

 6 キミカのデルフォイ

 地図の印の部分には、正式名称の他に通称も印刷されていた。ゴミ箱、というのがそれで、少しだけ聞き覚えのあるものだった。廃ビルだらけの荒れ果てた地区だったはずだ。それだけなら他の場所とさして変わらないが、ゴミ箱には人が住んでいないと聞いたことがある。
 そういうことをカザミにいうと、笑って答えた。
「いかにもって感じだな。そういうところに秘密があるっていうか、裏の世界?」
「ちょっと怖いけどね」
「ソラは怖がってばかりだ。だいじょうぶだよ」
 そういって紙皿を投げ捨て、ホテルの階段から立った。振り返り、ホテルを見上げる。
「こういうところに泊まってみたいもんだぜ」
 僕もホテルを見た。外壁は真っ白で、たくさんの窓があり、そこから室内の照明が見える。高級というほどではなさそうだが、中級ではある。清潔さが感じられた。
 ただ、ここに泊まれるわけでもなく、今夜の寝床を他に見つけなければならなかった。
「どこで寝よう」
「そこらでいいだろ。道端でも十分じゃないか?」
「せめてベンチがあればいいな」
「贅沢だ。でも賛成だ」火傷をいじりながらカザミはいった。
 通りやら路地やら、あちらこちらを歩き、やがて視界がひらけた。広場に行き着いたのだった。街灯はあるが人影は少ない。四角い広場を囲む木々の横にベンチが並べられている。
 ここで眠ることになった。おやすみ、といってベンチのひとつに横になると、カザミに注意された。財布は頭の下に置いて寝ろ、とのことだ。
「基本だぞ」
「ラジオはどうしよう」
「それも枕にすればいいけど」
「固い」
「まあ、柔らかくはないよな。でも貴重品だから、なんとかしたほうがいい」
 じゃあ寝るよ、といってカザミは隣のベンチに寝そべった。
 夜風が冷たい。枕のラジオが固く当たる。街灯の向こう、ビルの角のところに、銀色の細い月が見えた。時折雲に隠れる。それを眺めているうちに眠った。

 父親が夢に出た。そう、確かこんな姿だったはずだ、と夢の中で思った。顔つきは野卑なもので、目は澱み、好色そうな笑い方。僕と父親は以前住んでいた家のテーブルについていた。父親は何かをまくしたてていた。僕はただ相鎚を打っていた。どこからかハルカが現れた。手にはナイフ。姉さん、それは僕のナイフじゃないか、といおうとすると、父親に近づいて胸を刺した。父親が笑って何かいいながら、空気の抜けた風船のようにしぼんでいった。それを見ているハルカの後ろ姿。振り向いた。一緒に勉強をしていた頃の、幼いような顔で僕にいった。
「ソラも私も……」そこから一部分聞こえなかったが、「……でも、ここはすばらしいところよ」とハルカはいった。

 日差しをまぶたに感じた。後頭部に当たるラジオの固さ。次に汗ばむ体を感じた。そういえば、二日間風呂に入っていない。
 体を起こして隣のベンチを見る。そこにはカザミはいなかった。どこだろう、と見回すと、広場の向こうのほうにいて、水道で水浴びをしていた。蛇口の下に頭を突っ込んで洗っている。
 ぼんやりと座っているとカザミが戻ってきた。
「起きたか。水浴びしてこいよ」
 髪から水を滴らせてそういった。水は冷たくないか、と訊くと、ぬるい、と答えた。シャワーを浴びたかったが、またお坊ちゃんといわれそうなので口にしなかった。
 水道まで行く。服を脱がなければいけないが、気後れした。とはいえ周りに人はおらず、思い切って脱いだ。
 体を洗い、タオルがないことを悔いながら服を着た。乾いてない肌に、生地がぺったりとくっつく。
 ベンチに戻るとカザミが地図を見ていた。
「何かおもしろいものはあった?」
「いや」という。「俺は字がわからないんだ。カジノって書いてあるか?」
 横から地図を覗き込み、カジノがどのあたりなのかを探した。
「僕の部屋から行って、このへんまで歩いたかな」
 指で示す。カジノがどこにあるかの表示がないので、だいたいの位置しかわからない。地図上ではその周辺には何もない。
「で、カジノからミルイザさんのところに行って、僕の部屋に寄って、いまこの辺り」と指でなぞった。
「歩いたなぁ」カザミがいった。「それで今日はここか」
 印の場所を指した。ざっと歩いて一時間というところだろう。車にでも乗りたいが、ヒッチハイクをしたところでゴミ箱に向かう車などはないだろう。
 広場に揚げバナナを売っている露店が出ていた。僕たちは朝食として二本食べた。カラメルが薄く塗ってあって、甘い。
 水道から水を汲み、水筒でギミタラ茶を作っておいた。じゃあ行こうか、とカザミがいって出発となった。リュックを背負う。
 今日は陽が強く、できるだけ日陰を歩いていった。目的地まで日差しの中にいては干上がってしまう。
 夢を見たんだ、と僕はいった。
「父さんと、姉さんの夢」
「へえ」カザミは前を見ている。「いい夢だったか」
「どうだろう。姉さんに会えた気分ではあるけどさ」
「じゃあよかったな」
「カザミには兄弟いないの?」
「わからない。カジノのそばで十人くらいまとめて育てられてな、その中にいたかもしれない」
 親は、とまでは訊けなかった。
 昨日ジャグリングをした通りから離れていく。進むにつれ、だんだんと賑やかさが減っていき、建物の背も低いものになっていく。人も少なくなり、やがてまたバラックの建ち並ぶうらぶれた地域。薄汚れた格好の住人たち。
「またこんな景色だ」カザミがいう。「うんざりする」
「まあ、滅入るよね」
 道の先を見る。地平線が見えるほどではないが、だだっ広く、遠くまで視界に入った。目的地のゴミ箱はもう見えていて、それはまっすぐ行けばたどり着くであろう、あの黒っぽいビルの群れだ。
 あの中のどこかに掃除屋とまじない師がいる。
 とにかく歩く。バラックの地域では日差しが直撃する。汗をかいた。僕たちはたまにギミタラ茶を飲んだ。
 カザミがラジオをせがんだ。僕はリュックからラジオを取り出して電源を入れ、またリュックへ入れた。
――そいつの話はこんなところだ。まったく愉快なもんさ。そこで、俺としてはこんな小話を披露したい。ある男が足を折って入院した。婦長がその男の病室から帰ってきて、新米のナースにニヤついていったんだ、「あの患者さん、あそこにタトゥーでADAMって入れてるのよ。今度見てきなさい」。そこで新米のナースが病室へ行ったとき、戻ってきて婦長にいった。「AMSTERDAMって入れてありましたけど」。アッハッハ! 外国の冗談もおもしろいだろ? まったく冗談とかユーモアは気楽になるよな。俺はコメディアンたちを賛美するね。彼らは音楽家たちと同じように偉大なのさ。さて、ちょっと昼飯を食ってくるが、このアルバムが終わるまでに帰ってくる。アッパーでクレイジーなロックだ――
 音楽が流れ出した。ガシャガシャとした音楽だったが、メロディーを追っていると耳に馴染んできて、歩くスピードが早くなった。鬱々とした風景も気にならない。
「いいな、これ」
「かっこいいよね」僕は答えた。
「ロックっていってたか。俺はこういうのが好きかもしれない」
「ロックンローラはすべてを欲しがる」
「なんだそれ」
「別になんでもない、思い出しただけ。昔の映画の脚本にあった」
「映画ってのも楽しそうだな」
「どこかで観ようよ。北部から帰ったあとにでも」
「テレビを持ってるやつを探さなきゃな」
 そうして音楽を聴き、しゃべりながら進んでいくうちに、ゴミ箱まですぐそこというところにきた。林立する薄黒いビル。アスファルトの道を、ところどころ毛が抜けた灰色の野犬が横切った。
 ここのどこかなのだが、詳しい場所がわからなかった。もっと教えてもらえばよかったのだが。
 ビルのそばにテントを張っている人たちがいた。ぼろを着て鍋を囲んでいる。訊ねてみるかと躊躇していると、カザミがさっさと彼らのところへ行ってしまった。あとを追う。
「掃除屋を知らないか?」
 テントの彼らはカザミをにらみつけた。何もいわない。ひとりが派手な音を立てて痰を吐いた。
「まじない師は知らないか?」
 沈黙。ふわあああ、というわざとらしいあくびの声。意味がとれない罵声。
 カザミがナイフを抜いた。
「なあ、知らない? 知らないかな」
 キレそうなカザミを慌てて押しとどめ、今度は僕から訊いた。
「その人たちのところに行かなきゃいけないんです。知っていたら教えてください」
「八階! 八階!」突然、大声でひとりが答えた。「八階だよぉ八階八階!」
 それだけいうと、鍋の具合がどうだということをわめき始め、そのわめく声がテント周辺の全体に広がり、その数々の声は轟音になり、土くれや石なんかを僕らに投げてくる者までいたので、カザミを連れて慌てて退散した。
 テントから離れて訊く。
「どうしたんだよカザミ」
「ムカついちゃってな」
「刺すのかと思った」
「俺もそう思った。火傷でイライラしてるのかもしれない」
 とにかく落ち着こう、とギミタラ茶を分け合って飲んだ。
「八階っていってたけど」カザミがいう。「どのビルの八階だろうな」
 ゴミ箱のビル群を見上げる。住宅用というよりは企業が入っていたようなものだった。かつては清潔だったろうに、いまでは外壁は汚れ、ツタが這い、ビルの間の道路はひび割れていた。結局、入っていくしかない。ゴミ箱の中に足を踏み入れた。日陰の中を歩く。涼しい。ビル風が強く吹いていた。人通りというのはなく、道路のわきにたまに人が座っている程度で、とても静かだった。
 きょろきょろとあたりを見ていると声をかけられた。
「何か探してるのか」
 ワイシャツとスラックスという服装があちこち汚れている、という身なりの男にそう訊かれ、事情を説明した。
「そりゃキミカの店だな。あのビルだよ」
 男が指差した先に、淡いグレーの、他と比べて小さめの建物があった。
 お礼をいって立ち去ろうとしたところ、お金を要求された。とても払える額ではなかった。僕は肩を掴まれた。大きな手で、鎖骨が強く圧迫された。
「そりゃいけない。払わなきゃダメだろう。人の親切に報いないのか」
 ギリギリと肩を締めつけれた。その鋭い痛みがふっと消えた。カザミが男の眉間にナイフの先を当てていた。
「いいナイフなんだ。デコに刺さるかな。試していいか?」
 男は身動きしない。カザミはナイフを下げ、右足の二段蹴りを股間と腹に見舞った。男はよろよろとうずくまった。
 ふうっ、と息を吐いてさっさと歩き出した。
「ソラ、行くぞ」
「荒れてるね」
「ああ、もう全部火傷のせいにしたい」
 背後に男のうめき声を聞き、僕らはグレーの建物を目指した。
 入り口まで来てみると、建物の様子がよくわかった。汚れてはいるが他のビルほどではなく、周囲にはゴミが落ちてない。掃除屋がいるからだろうか?
 中へ入る。エントランスもきれいにしてあった。珍しいことにエレベーターが使えたので、それに乗って八階へ行く。最上階だった。
 エレベーターのドアが開くと、ゴミ箱を見渡せる廊下に出た。ぽつぽつといる人々、黒く汚れたビルの群れ。視線を少し上げると、遠くに町が見えた。あれが北部だろうか。
 カザミと並んでしばらく見ていたが、せかされたので、掃除屋とまじない師を探し始めた。
 この階のどこかの部屋だろう。廊下はただ一直線に伸びているだけなので、しらみつぶしにドアを見ていった。
 だがどれも特徴がなく、表札もない。どこにいるのか、と思っていた矢先、ドアが開く音が聞こえた。振り向くと、廊下の端で、黒いスーツを着た長身の青年が部屋から出てくるところだった。
 彼もこちらに気づいた。近づいてくる。
「なんだお前ら。迷子か?」
「いえ、人を探していて」僕は答えた。
「ここで?」
「はい」
 ふーん、といって、僕とカザミを見定めているような様子だった。カザミが訊く。
「掃除屋とまじない師を探してんだけど。お兄さん、教えてくれない?」
「掃除屋は俺だよ。よかったな、見つかって。じゃあな」
 そういってエレベーターのほうへ行こうとするので、慌てて声をかけた。
「あの、お願いがあるんですけど」
「俺からもお願いがある。メシを買ってくるから、用件があるならそこで待ってろ。腹がへってんだ」
 そういってエレベーターに乗り込んでしまった。僕とカザミは顔を見合わせた。
 カザミは廊下の手すりに背を預けた。僕は景色を見ていた。北部らしき町が気になる。あの町にハルカがいる。距離はそんなに遠くはない。ふらっと行けそうに思えるのだが。
 ああ、くそ、とカザミがいった。
「いやな傷になった」
 カザミの右腕を見る。火傷の痕はじくじくとして濡れていた。
「包帯をもらおう。やっぱりそのままじゃダメだよ」
「すぐに治るかと思ったんだけどな」
 僕は再び景色に目をやった。静かなゴミ箱を見た。この建物の下、路上で、カザミがぶちのめした男がこちらを見上げていた。僕は顔を引っ込めた。
 エレベーターが開き、掃除屋がビニール袋を持って出てきた。
「で、用件だったな、メシを食いながら聞く。店まで来い」
 そういって廊下を行った。僕たちはついていく。廊下の端まで行き、部屋のドアの鍵を掃除屋が開けた。入れ、という。掃除屋に続いて入っていく。
 何かのハーブかお香のようなにおいがした。部屋はマンションのような作りになっていて、僕たちはリビングに通された。ソファをすすめられる。ローテーブルにビニール袋が置かれた。
「お前らのぶんはないぞ」
 掃除屋がそういって、プラスチックの器をふたつ取り出した。そのうちひとつを持ってリビングの隣の部屋へ行った。
「キミカ、メシだ。起きろ」
 うーん、という女性の、寝ぼけたような声が聞こえた。掃除屋はキミカというその女性を起こすのに苦労していた。
「起きろって」
「眠い……」
「客も来てる。さっさと起きて食え」
「フジワラ」
「なんだよ」
「そぼろご飯は飽きた」
「わかった、次は他のを買ってくる。いまはこれを食え」
 そういう会話のあと、掃除屋のフジワラさんはドアを閉めてリビングへ来た。僕らの向かいのソファに座り、そぼろご飯を食べ始めた。
 それで? という。
「なんの用だ」
「北部への行き方を教えてください」
 フジワラさんは僕の目を見たあと、また器に目を落とし、口を動かした。食べ方はがっついているが下品ではない。
 食べ終えていった。
「ダーツをやったことはあるか」
 僕は首を振った。カザミは、あるよ、といった。フジワラさんは立ち上がり、壁にある木製の円盤をさわって位置を直した。どこからかダーツの矢を取り出し、ここに立て、といった。
 カザミが円盤から少し離れたところに立たされた。矢を三本渡される。やれ、とフジワラさんはいった。
 カザミの矢は一本だけ円盤に刺さったが、あとは外れて床に落ちた。次はお前、といわれ、僕も渡された矢を投げる。
 投げてみると、三本がすべて円盤に刺さった。そのうち一本は中央の赤い点に近いところだった。
「そっちのモヤシのほうが目がいいみたいだな」
「俺はケガしてんだよ。集中できない」カザミが文句をいった。「お兄さん、包帯とかってない?」
「ないな。ガーゼならやるよ」
 壁際に行き、ゴタゴタといろんなものが並んでいる棚を漁った。花瓶の横にあった箱から、四角く畳まれた白いガーゼとメディカルテープを取り出した。カザミに投げる。
「それで覆え。見てて痛々しい」
 ありがと、といってガーゼを当てた。テープでぐるぐると巻く。器用な巻き方ではなかったが、それでも火傷は隠れた。
「で、北部に行きたいと」
「はい」僕は答えた。
「何をしに行くのかはどうでもいいが、案内くらいはしてやろう」
 拍子抜けするほどあっさりとそういった。だがカザミは用心深く訊いた。
「対価は?」
 そうだな、とフジワラさんは首をひねり、思い出すように中空を見つめた。
「俺からは特にない。キミカから、っていうのは隣でメシを食ってる女だが、そいつから何かおつかいでも頼まれてくれ」
 そういって隣の部屋のドアを指差した。フジワラさんが出てきてから、ずっと物音ひとつしない部屋だ。
「まじない師っていうのは、そのキミカって人なのか?」
「いわれるほどまじないは使えないけどな。お前のその火傷も治せない」
「残念だよ」
「だいたいは、もうちょっとこう、相とか運みたいな見えないもんをいじってたんだ」
 それももう廃業しなきゃいけないが、という。
「どうしてですか」僕は訊いた。
「自然にある相や運を無理に変えると、体に反動がくる。天に嘘をつくからガタがくるんだ」
 フジワラさんは立ち上がり、キミカさんがいる部屋へ入った。何か雑談して、それから家具のようなもののきしむ音がした。
 キミカさんがリビングへ現れた。フジワラが押す車椅子に座っていた。青白い顔と長い髪。刺繍の入った麻のローブを着ていた。
「小さな客だ」キミカはそういった。「小さいのがふたり、仲がよさそうに。ギルガメシュとエンキドゥのようだ」
 へえ、とフジワラさんがいい、車椅子をリビング中央に押していく。
「この子たちはバランスがいい。上手に補い合える」
 どちらかが女ならもっとよかったが、という。フジワラさんが車椅子の車輪のストッパーをかけ、自分ももといたソファに腰かけた。キミカさんの体はやせ気味で、足はあるのだが、動かせないのかもしれなかった。
「お姉さん、体どうなっちゃったんだ? 顔はきれいなのに」カザミが無遠慮に訊いた。
僕は目でカザミをとがめたが、カザミはこちらを見もしない。
「働きすぎた。過労だ」
「まじないで?」
「そう、呪術をやりすぎたからだろう。そこにある運命に人為的に干渉しすぎてはいけないんだ。先人の例はいくらでもあったのに深入りしすぎた。これは間抜けな話だ」
 キミカさんは気だるげにゆっくりと話した。時折髪が顔にかかり、それを指ですくってかきあげる。その仕草で僕はハルカを思い出した。ハルカもそういう手つきをしていたのだった。
「ところでぶしつけな少年、用はなんだ?」
 キミカさんが訊いたが、フジワラが横から入った。
「こいつらを北部に送る。報酬をお前が決めてくれ」
「私に用があるわけじゃないのか」
「あっても俺が止めるさ。キミカはいま休むときなんだ」
 そういわれ、キミカさんは目を伏せた。寂しそうな吐息。引っぱり出された上で用がないといわれて、人はどういう気持ちだろうか。
「お金は払えないんですけど、何か、代わりにできることなんかがあれば、それをさせてください」
 僕がいうとキミカさんは目を上げ、壁際の棚の一部を見つめた。目を細める。一角を指差した。
「フジワラ、上から二段目の右あたり」
 ん、といってフジワラさんが立ち上がった。棚の前に立った。壺か? と訊いた。いや、その横の箱だ、とキミカさんがいった。フジワラさんはその木箱をとって戻ってきた。キミカさんの前に置く。木箱を開けた。中には色とりどりの、宝石のようなものが詰まっていた。
 キミカさんが指先でその中を漁る。やがてくすんだ緑色の丸玉をつまんで出した。僕たちに見せる。
「北部で、この石を埋葬してきてくれ」
「埋葬?」僕は訊いた。
「土に埋めるだけでいい。北部の隅に、土がむき出しの舗装されてない一角がある。そのあたりにはインディアンのような連中がうろついている。そこへ埋めてくれ」
「そういうのもまじないなのか」カザミがいった。「地味だね」
 正確には、とキミカさん。
「まじないに使った石だ。もう死んでしまった。もとは透き通っていたのに、さんざんこき使ってこうなった」
 そういって、愛おしげに、悲しげにその緑の石を見つめた。お別れなんだ、とつぶやいた。
「わかりました。けど、それだけでいいんですか」
「それだけというが、難儀するぞ」キミカさんは僕に石を渡した。「北部は、広い」
 そう、とフジワラさんが割って入った。
「そこで北部に行くお前にプレゼントがある」ポケットに手を突っ込み、小さな何かを取り出した。手のひらに収まって銀色に光る、銃。
「このデリンジャーをやる。弾は二発だ。殺しすぎちゃいけないからな」
「僕にですか?」
「目がいいだろ」
 それでダーツをやらされたわけがわかった。フジワラさんは銃をうまく撃てるかを観察していたのだ。
「撃つなら必ず至近距離でやれ。でも必ず当たる方法がある。ヨロシク・ショットっていうんだが……ちょっと立て」
 僕はいわれるままに立った。フジワラさんが近づいてくる。握手を求める右手を差し出したので、僕も手を差し出した。
 手を握った瞬間、フジワラさんは左手をすっと上げ、僕の額に銃を当てた。
「バン! と、こうだ。ヨロシク・ショット、これなら確実に殺せる」
 冷や汗をかいた。フジワラさんが銃を下ろし、僕の胸にどんと押しつけた。受け取る。鉄の塊の重さ。
「いいなあ。俺にもなにかくれよ」カザミが不平をいった。
「ガーゼをやっただろ」
「つまんねーなー」
「そんなことより」キミカさんがいった。「埋葬のことなんだが、インディアンの中にコシャリというやつがいる。そいつに訊けば手っ取り早い」
 案内もしてくれるだろう、とつけ加えた。
「じゃあ、行くか」とフジワラさんがいった。「越境ラインのトンネルまで連れて行ってやる」
「トンネルってなんだよ」とカザミ。
「地上を歩いていくと狙撃される。地下から行けば死ななくて済む」
「なあ、南部の人間って嫌われてるの?」
「殺されるくらいにはな」
「どうしてですか」僕は訊いた。
「理由はわからないが、そういう街と住人たちなんだ。南部の人間は邪魔者だな」
 そういって玄関へ行った。僕とカザミも席を立つ。
「キミカさん、石は必ず埋めてきます」
「ああ、頼む。身を守るようなまじないもできないで、申しわけないが」
「いえ、いいんです」
 キミカさんは息を吐いた。
「君たちは帰ってこられるだろう。ただ、どちらかは無事ではないだろう」
 僕が戸惑っていると、カザミが訊いた。
「どういうこと?」
「天命の話だ」
 さあ、もう行け、というので、僕らも玄関へ向かった。部屋を出る前に振り返った。窓からのささやかな光の中、車椅子のキミカさんは木箱を閉じた。
 フジワラさんを先頭にマンションの廊下を歩く。エレベーターに乗り、出入り口を通る。
 カザミが倒したあの男が立っていた。ナイフを持っている。
「やあ、小僧。お返しをしたくてな」
「ザコの相手はしないよ」カザミは素っ気なくいった。男が近づいてきた。ナイフを素早く突き出した。カザミは斜めに身をそらした。切っ先が光る。男の腕をフジワラさんが掴んだ。
「ここを汚すな。血が出るだろ?」
「だったら掃除しろや、掃除屋」
「そういう掃除は副業だが、まあ、俺の仕事を増やすなよ。来い」
 腕を一回転、ねじり上げた。ナイフが落ち、関節が曲がった。男の悲鳴。ぐにゃぐにゃの腕を持って、男を引きずりながらフジワラさんは歩いた。地面に男の脂汗が点々と落ちている。
「フジワラさん、掃除屋っていうのは……」怖くてその先がいえなかったが、カザミが引き取った。
「殺し屋ってことだろ」
「そうだ。儲かる仕事なんだ、銃も弾もいくらでも買える。でも副業で普通の掃除もしてるぞ」
 そっちは儲からない、といった。引きずられている男が暴れた。フジワラさんは顔を蹴り上げた。おとなしくなる。
「なんでかな、殺すごとにきれい好きになっていった」
 本当にきれいにしたいのは俺自身の心だろうな、と、おとなしくなった男を見ていった。男は死んだようにも見えたが、息はしていた。
「そいつどうするの?」とカザミ。
「あとで焼却場に持って行く。燃やすよ」
 そういって道の隅に転がした。
「ここがゴミ箱っていわれてるのはな、その焼却場があるからなんだ。そこから出るすすでビルが黒っぽくなってる。南部のいろんなゴミが持ち込まれて燃やされる」
「僕の住むあたり、ゴミだらけですけど」
「よほど邪魔じゃないと持ち込まれないな。細かいゴミは誰も掃除しない。俺を見習ってもらいたいもんだ」
 そうして話しながら歩いた。時折ビルの隙間から陽が差す。ゴミ箱の中は相変わらず涼しい。
 延々とビルの並ぶ中を進んでいって、やがて僕の腹が根を上げた。空腹だ。
 フジワラさんにそれをいうとカザミも同調して訴えた。
「もう動けねえ。なんかおごって」
「北部はすぐそこだぞ。あっちで食え」
「うまいもんある?」
「日本料理がうまいな。天ぷら、寿司、そば、うどん、握り飯」
 聞いたこともない、というような表情でカザミはぽかんとしていた。僕はそれらを知っていたが、見たことはない。
 安く売ってるからなんでも食えばいい、とフジワラさんはいった。
 南部の北端だろうと思われる場所に来た。枯れかけた木々の茂みが横一直線にあり、その先を見ると黒いアスファルトの平地が広がっていた。
「頭を低くしろよ、撃たれる」
 そういったフジワラさんは前屈みだ。僕らもそれにならう。茂みのこちら側に身を潜める。そうして歩いた先に井戸があった。縄梯子が中へぶら下がっていた。
 いいか、とフジワラさんはいった。
「この井戸を底まで下りて、この平地の下を突っ切っていけ。どん詰まりにまた井戸がある。それを上れば、北部だ」
「着いた瞬間に襲われるとか、そういうことはないですか」
「向こうの井戸の上に、俺の仲間内がいる。俺の名前を出せ。キミカの名前も出せ。それでなんとかなる」僕にそう答えた。
「あのお姉さん、こういうのに関係あるの? 北部に行くこととかに」
 カザミの質問に対しては無言で、答えなかった。
 フジワラさんに見守られながら井戸を下りる。縄梯子は、ゆらゆらとして下りづらく、すり切れていて握りにくい。僕は何度も滑り落ちそうになった。それでもやがて底へ着いた。

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