『東九龍絶景』 1
1 ソラの512号室
窓の外、屋台街の喧噪と、そこを行くガラクタ屋が鳴らす笛の音が聞こえ、朝の日差しがまぶたに感じられた。僕は寝返りを打ち、目を開けてベッドから這い出した。
体は汗ばんでいた。六月の終わりのいま、気温は日に日に高くなっていく。エアコンが壊れていることを思い、憂鬱になった。真夏になるまでになんとかしたい。
あくびをした。自室からリビングへ行き、テーブルの上のペットボトルからハーブティーをコップに注いだ。東九龍に自生するギミタラというハーブを使うもので、ギミタラ茶ともいう。作り方はかつて姉のハルカが教えてくれた。気分を整えるのに効く、といっていたが、僕はよく朝の起きがけに飲んでいる。
コップを持ったままリビングの大きな窓に近づく。今日は暑くなりそうだ。眼下の雑踏を見る。人々が露店の並ぶ通りにうごめいている。黒い頭があちこちに見え、朝食をとる者、何か買う者、売る者であふれている。呼び込みの声と怒鳴り声。
腹がすいた。飲み干したコップを置き、財布と鍵を持って家を出た。
かすかな悪臭がする渡り廊下を行き、壊れて使われていないエレベーターの脇の階段を降りていく。隣のマンションの壁に朝日が照っている。踊り場は吹きだまりで、細かでカラフルなゴミが積もっている。通るたびそれがわずかにふるえる。
五階から一階までひと息に降りた。暗いエントランスに出ると、通りの明るさが出入り口の四角形に区切られて見えた。
通りに踏み出して光を浴びた。まぶしさと人々の声や気配、フルーツや料理の香り。さっき笛を鳴らしていたガラクタ屋は、もうどこかへ行ってしまったようだった。
日よけ用の水色のタープがあちこちに張り巡らされている、屋台の並んでいるあたりに歩いていく。朝に食べるものはいつも同じで、同じ店の同じメニューを、同じテーブルで食べている。
店の――屋台の――主人とは自然となじみになり、加えて客にも知り合いができた。名は知らないが、屈託のない、裏表もなさそうな中年の男だ。
今朝もその店に男はいた。プラスチック製の白いテーブルと椅子を陣取り、ビールを飲んでいた。僕を見て、呼んだ。
「おはよう、ソラ、おはよう!」
僕は男のいるテーブルに近づいていって、おはようございます、と返事をした。
「また朝からビールですか?」
「いいだろ別に。俺には楽しむ権利がある。なにせ、さっきここのツケを全部払ったんだから。カジノで大勝ちだったんだ」
男がそういったのを聞いて、屋台の主人が苦笑いした。
男の向かいに座り、鶏ガラのスープ麺を注文した。主人は手際よく作り始めた。大きな鍋がいつも煮立っていて、料理はすぐにできあがる。
目の前にスープ麺が置かれ、それをすすった。男がいう。
「ソラ、おごってやろうか」
「そんなの、いいですよ別に」
「役に立ちたいなあ。だってお前、家族が」
僕が箸を持つ手を止めると、男は黙った。軽くうつむいて頭をかいている。
「……僕にはイズキさんがいますから」
いまの生活費もそのイズキさんにもらっている。再び食べ始めた僕に、そうだよな、といって男は頷いた。
「でも、俺だって味方になるさ」独りごとのようにそういった。
スープまで平らげて席を立ち、主人に小銭を渡した。ごちそうさま、というと主人は誇らしげな目つきをした。
「勉強、がんばれよ。ソラは読み書きができるんだからな」
そういった男に挨拶して屋台を離れた。後ろで追加のビールを注文する声が聞こえた。
人で賑わい、何十もの屋台が並ぶ中、もう少し何か口に入れたいような気がして、そこらを見回した。串焼き、煮込み料理、揚げ菓子、フルーツ。人混みの熱気のせいで、暑い。フルーツ屋に行った。薄汚れたミキサーでミックスジュースを作ってもらい、代金を払った。紙コップで飲むそれはおいしかった。
ジュースを片手にマンションまで戻る。途中、すすけたビルの壁を見上げている人たちがいて、視線を追うと、電線から大きな火花が出て壁を黒く焦がしていた。東九龍では電気は貴重だ。技術屋と呼ばれる人たちが、どうにかして町の外から引いてきているものなのだ。
「これはだめだな、誰か報告してこい」
「お前が行けよ」
「行けったって、あいつらどこにいるんだよ、技術屋連中は」
そんなやりとりが交わされている横を通り、苔むした日陰を歩いていった。道はゴミだらけだ。あまり邪魔なものは撤去されるが、食べ残しやプラスチックの容器や、そういうものは放置される。掃除する者がいないのだ。踏んで歩くしかない。靴はひどく汚れる。
腐臭の中をマンションまで戻った。暗いエントランスに入り、階段を上り、僕の家である512号室へ入った。
テーブルにジュースを置いた。窓からの陽光でリビングはうっすらと明るかった。そのリビングには三つのドアがある。、通り側の僕の部屋に通じるドアと、姉のハルカの部屋、そして物置になっている部屋へのドアだ。
ハルカの部屋のドアを開けた。服や本などが雑に置かれ、片づけきれていない。数年前、ハルカが失踪したあと、イズキさんがこの部屋をかき回して何かを探した。盗まれた何かを見つけようとしたのだ。イズキさんが諦めたとき、僕も一緒に片づけをした。この部屋はそのときのままだ。
壁のコルクボードに写真が貼ってある。東九龍では写真を印刷することは高くつくのだが、それでもこうして飾ってある。それは二枚あり、一枚はざらついた画質の、幼い頃の僕とハルカの姿、もう一枚には母が写っていた。父のものはない。
写真を見るたびに思う。この512号室に来たときはハルカとふたりだったが、それ以前に住んでいた家で僕ら四人は一緒だったのに、どうして離ればなれになったのだろう?みんないなくなってしまった。寂しいというのでもないが、ただ、原因や理由のようなものを考えてしまう。
以前の家でのことはあまり覚えていないが、この512号室でハルカと暮らしていたときのことはよく思い出せる。朝、早く起きたほうがまだ寝ているほうを起こし、屋台街へ行って食事をとる。部屋に戻ったら図書館へ行く準備をした。ふたりで毎日のように通い、勉強をして、帰りは夕食をとってからということが多かった。その夕食も屋台街で済ませていた。部屋に帰ったあとは何か話をしたり、カード遊びをしたりと、いつも楽しかった。
ハルカの部屋を出て、自分の部屋に入る。棚にいくらかの本とノート、その横に古い机、窓際にはベッドがある。床に放ってあったリュックを拾い、棚から本などを取って詰め込んだ。机の上のシャープペンも入れた。本もノートもシャープペンも、全部イズキさんがくれたものだ。しっかり勉強ができるように、といって渡してくれたのだ。その当時、僕は嬉しく思う反面、勉強することの意味を測りかね、イズキさんにそれを訊いたことがある。
答えはこうだった。
「生きるためだよ。よりよく、より強く」
それはいまなら納得できる答えだ。簡単な算数の他、僕は文字の読み書きを教わった。それで本が読めるようになった。ノートに書くこともできた。そうするとできることが増えた。考えられることも増えた。保存食の作り方、町の地理と行き方がわかる。わからないことは本で読んで知り、必要ならノートに書き写す。それだけのことが僕を、きっと成長させたと思う。
リビングに出て残りのジュースを飲み干し、水筒にギミタラ茶を注いだ。起きがけに飲むのもいいが、休憩するときにもいい。ハルカのいった通り、気分が整う。
水筒もリュックに入れ、ジッパーを締めて背負った。それから家を出た。
気温が上がってきていた。湿り気のある空気がマンションの廊下に充ち、ゴミの生臭さと混ざっていた。
階段を降りてエントランスを出た。通りの向こうの日陰でガラクタ屋が休んでいた。いつも引いているリヤカーに寝そべり、タオルを顔に乗せて仰向けだ。タンクトップからのぞく腕は茶色っぽく日焼けしている。
そっと近づいてリヤカーの中を見た。だが何がどういうものなのか、まったくわからない。棒状のプラスチック、いびつな鉄のボール、板きれなどだ。黒っぽい機械があった。四角くてダイヤルが三つある。これは、ラジオだ。さわろうとして手を伸ばした。
「いるか?」
ガラクタ屋が、タオルをどけて顔を向けていた。僕は手を引っこめた。
「安くしてやる。それはいいラジオだ」
「いいです、お金がないし」
「交換は?」
「……」
「欲しいんだろ、ラジオ」
僕は少し待ってくれるように頼み、マンションへ引き返した。階段を駆け上がり、家の物置き部屋に入る。何か交換できそうなものを探す。段ボール箱やクローゼットを漁った。
オイルランプが見つかった。
それを持ち、急ぎ足でまたマンションの外へ出て、ガラクタ屋のそばへ行った。
「これでどうですか」
ガラクタ屋は気だるげな顔でランプを見た。
「いいぞ、交換だ」
僕はランプを渡し、リヤカーの中にあるラジオを取った。電源を入れるとノイズが聞こえた。ダイヤルを回す。周波数は合わない。
「壊れてませんか?」
「だったら直せ」
ガラクタ屋はまた寝そべり、目を閉じた。
壊れているのなら修理しなければならないが、僕にはできそうにない。手に持ったラジオを見つめる。
イズキさんに相談しようと思った。
ラジオを手に持ったまま、イズキさんのところへ向かった。
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