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小説(ラノベ風)『イーストエンド・ガーディアン』

目次(BGM)

1  魔法を信じ続けるかい?/中村一義
2  麒麟児の世界/未映子
3  I Think I Can/the Pillows
4  メギツネ/BABYMETAL
5  常勝街道/雅
6  僕たちの距離感/夢中夢
7  Gypsy Girl/Sword of the Far East
8  魔法少女幸福論/トーマ
9  その時なにが起こったの?/キノコホテル
10 豚の皿/Grapevine
11 シャングリラ/Acid Black Cherry
12 君の事が/清春

(1)

BGM:魔法を信じ続けるかい?/中村一義

 ブーツか登山靴、せめてスニーカーを履いてこいと指定したのだが、客の女は小ぎれいなサンダルをつっかけてやってきた。タクシーから降りてきた女にそれを注意すると、「この暑いのにブーツなんか履けないわよ」といってヘラヘラ笑った。俺は訊いた。
「オシャレを通して破傷風にかかってガタガタに苦しんで死ぬか、それとも無事に行って帰ってくるか、あんた、どっちがいい?」
 女から笑みが消えた。
「この辺りってそんなに危ないの?」
「ガレキが多いし不衛生だ。そんな生足じゃ歩けない」
 運が悪ければ伝染病にもかかるし、目的地にはネズミもゴキブリもいる、といったことまではいわなかった。客なのだから逃がしてはいけない。とはいえ、ここまで、あるいは目的地までたどり着いてから逃げた客はひとりもいなかった。抱えてきた望みのために、客たちは豪胆さを発揮して歩き通す。
 俺と女が待ち合わせたのは駅前で、この駅は近くで線路が断たれて久しく、復旧されないままになっていた。当然人は他にいない。いるのはカラスだけだ。
 黒くすすけたキオスクのシャッターを横切り、コインロッカーから安全靴と靴下を取り出した。女はそれを履きながら俺の足を見た。
「その靴は軍用?」
「払い下げの本物だよ」
 女は白い薄手のブラウスにベージュのロングスカート、足にゴツい安全靴という妙な格好になった。不満そうな表情をしていたが、駅の外へ向かうと、歩きやすい、と呟いた。
 崩れたビルの間を行った。靴の裏でガラスが割れる鋭い音がしていた。灰色のガレキがところどころに山を作っていた。そのガレキを避けながら、俺は女を先導して歩いた。絡まったワイヤーや錆びた鉄骨なんかが地面にあれば気をつけろと声をかけた。
 でも、と女がいう。
「その、キミカさん? っていうのはどういう人なの」
 少し考えて、振り向いた。
「説明が難しいな。あんたラウさんからの紹介だろ? 何か聞いてないか」
「風水だっけ、いや、気学? 気功? それを使って開運のおまじないをするって」
 ラウさんもいい加減なことをいうな、と思った。でもそういういいかたでないと客たちには何も伝わらないかもしれない。
 きつい坂道に差しかかり、先に上がって女の手をとった。足下の砂利がザラザラと流れる。目的地まではもう少しだ。
「風水とか気学とか、広くいって呪術とかね、その手のものだけどちょっと違う」
 納得していないような女に、俺にも本当のところはわからないんだけど、と続けた。
「でもまあ、キミカのあれは魔法なんじゃないかな」
「魔法……」
「うさんくさいだろ。効果は保証するけどね」
 窓ガラスが割れているアパートの角に出た。
 左手、五〇〇メートルほど先に、いくつもの高層マンションが見えた。
 もとは東部地区の都市開発計画として、この辺りの大規模な工事が始まった。作られ始めた高層マンションの群れは、数年前の首都直下型の大地震を機に放置されてしまった。倒壊こそしなかったものの、壊れた家には買い手もおらず、取り壊すには時間がかかるのだ。マンションは完成したものも未完成のものもあった。ここに無断で住む連中が増えた頃に誰かが名づけた。
 東九龍(トンクーロン)という名前だ。かつてアジアにあった、九龍城という巨大スラムになぞらえたらしい。
 この中にキミカの店がある。
 フルーツ屋やラーメン屋など、いくつかの露店がある広場を通って、東九龍の入口に立つ。通路の両側に二五階建てのマンションがそびえ、暗く、苔が生えていた。水滴が落ちる音がした。ガリガリに痩せた野犬がネズミをくわえ、俺たちの横を通り過ぎた。
 怯む女を連れて、俺は奥へ進んだ。

(2)

BGM:麒麟児の世界/未映子

 東九龍にはあまり日差しが入らず、それゆえ外よりも涼しく感じられる。設計上、マンション同士の間は採光を考えられていたのだろうが、無造作に生えた植物、電気を盗み、各部屋に運ぶための何本ものケーブル、外へ向けて拡張されたベランダなどのせいで陰気な暗さになっていた。
 コンクリートの通路は濡れていた。
「なんか……」女が顔をしかめていた。
「変なにおいがするだろ。ソーセージ工場があるんだ。そこの肉がしょっちゅう腐ってる」
「においもそうなんだけど、全体的にこう……大丈夫なのここ?」
「ここに住んでる五千人にとっては普通の環境だ」
 両側二棟のマンションを通り過ぎると枯れた噴水があった。子供がふたり、噴水の縁に座ってこちらを見ていた。垢で黒く汚れた服を着ている。生まれつき疲れ切っているかのような瞳。俺は右手に折れて、子供たちから目を逸らせずにいる女をせかした。女は無言でこちらへ来た。
 やや低い、十四階建てのマンションの前まで歩いた。
「ここの三○六号室だ」
 エントランスの割れたガラスドアを通り、細かなゴミを踏みしめ、奥の階段から三階へ上がる。廊下を端まで行けばキミカの店だ。
 看板どころか表札すら出ていない店のドアの前に立ち、インターホンのベルを鳴らす。
「はい。誰が何の目的で?」とキミカの声。
「フジワラだ。客を連れてきた」
 ガチャンとインターホンが切られ、ドアが開いた。
「フジワラにご苦労。お客さんにようこそ」
 伸びた前髪をかき上げてキミカはいった。化粧をしていないのに肌が綺麗に見えるのは、ずっとひきこもって日光を浴びていないからだ。化粧はともかく、他のところでは、例えば服にはこだわっていた。今日は手作りの白い麻のローブを着ていて、胸のあたりには刺繍まで入っていた。
「こんにちは、私、ラウさんから」
「紹介だね、歓迎だ。上がってみればいい」
 女は俺を見た。いや、上がれよ、と思い、背中を軽く押した。
 香を焚いているらしく、ミルラの甘いにおいがした。店の中の作りは普通で、間取りは3LDKだ。ただ、置かれているものはどう見ても異様だった。
 縦長のリビングの左側一面には天井までの本棚があり、本は何千冊あるのか見当もつかない。右側は、これも天井まであるガラス棚が並んでいて、拾ってきたような石がずらりと整列している。ひとつポツンと置かれた石、山を作っている石などいろいろだ。それぞれの石の手前にラベルのようにメモが貼ってあって、しかしこれは俺には読めない。神代文字やルーン文字だったりする。ABCのラテン文字もあるがそれはバスク語か何かだ。
 こんな古代言語を勉強するから母国語がおかしくなる。
 キミカはリビング中央にあるソファセットに俺たちを座らせた。窓際に置かれたテレビが海外のニュース番組を流していて、キミカは「うるさいようである」といって電源を落とした。
 さてお客さん、とキミカ。
「だいたいのことが概ねなんとかなる。望みをいってみればいい」
 はあ、その、と女は口ごもった。いいにくそうなのを察して、俺は隣の部屋に移った。その部屋は食堂として使っていて、俺とキミカはよくここで食事をとる。東九龍で売っているものを俺が持ってくるのだ。
 昼飯がまだだった。客を送ったら買い出しに行こう。
 しばらくボーッとしていると、キミカが食堂のドアを開けた。
「そして済んだのであった。お客さんを送ってやってくれ」
 あいよ、と椅子から立ってリビングへ行く。
 東九龍から駅まで歩いている間、女は興奮した様子で店でのことを話した。いいにくそうだったのもいまは構わず、望みのことも喋った。それは要するに縁結びだった。キミカの魔法がかけられたあと、ひらめいたように意中の男を落とす方法が理解できたといって――それは解かれた数式のように、詳細でクリアな形で――帰ったらさっそく行動してみたいといった。
 でも、と女。
「不思議だなぁ。キミカさん、石にキスして私のおでこにあてただけだよ」

(3)

BGM:I Think I Can/the Pillows

 少し苦労して駅まで戻り、コインロッカー前で安全靴とサンダルの交換をした。さっぱりと明るい表情の女とそこで別れ、俺はまた東九龍へ歩き出した。
 初夏の暑さのもと、荒れた道を軍用ブーツで黙々と行く。昼飯のメニューを考えていた。
 東九龍では、衛生面を抜きにすれば食べるものは選び放題だ。なにしろ五千人を食わせなければいけないから、大衆食堂のような店はあちこちにある。それらの店から持ち帰ることもできた。
 東九龍に着き、マンションの間の暗い通路をいくつか曲がる。小さな公園に出た。かすかに光が当たっていて、中央に木があった。年かさの男が屋台とプラスチックの簡易テーブルの間で動き回っていた。客は五人ほどいた。こんちは、と挨拶すると、店主はこちらを振り向いた。
「魯肉飯(ルーローファン)二つ、持ち帰り」
 そういうと屋台の内側へ回り、米に炒めた挽き肉をかけるという料理を手早く作って、パックに入れて渡してくれた。
 代金を払ってまた歩き、キミカの店へ戻った。チャイムを鳴らし、名乗り、入る。
 ダイニングでキミカはいった。
「腹がへるのはどうしようもないのであろうか。素朴な疑問だが」
「まあ、どうしようもないだろう」
「食べるのがめんどくさいようである……」
「そういうな。魯肉飯だ、うまいぞ」
 二つのパックをテーブルに並べて、俺たちは黙って食べ始めた。
 食べながら、思い出した。

 ――キミカ。
 首都の震災のあと、俺は潰れた左目にガーゼを当てられて、他のまわりの被災者と同じように、避難場所である小学校の体育館にいた。やることがなく、よく眠れないほど痛む左目に耐え、配られる飯を食べるだけだった。段ボールを使い、隣の被災者のスペースから自分を隔てていたが、それがなんだかホームレスのようで嫌だった。とはいえ実質、もう家はなかったのだが。
 白昼夢のように曖昧な日々を過ごした。あるとき、長髪を後ろで束ねた男が俺の前に立ち、訊いた。
「怪我か? その目」
 残された右目で男を見た。そのまま黙っていると、男は冷静に話した。
「わたし、ラウという。その怪我、治せる子を知っているよ。痛いか。痛いのもなくなる、すっかり」
「……完全に潰れてんだ。治らないっすよ」
「来なさい。来たら、わかる」
 深く考えたわけでなく、信じたのでもないが、退屈と、ぼんやりとした意識のせいで、俺はラウと名乗る男についていった。
 体育館の隅のほうへ連れて行かれた。他の被災者同様の、段ボールの囲いの中で少女が寝そべっていた。
「キミカ。お客さんだよ、起きるよ」
 キミカと呼ばれた色白の少女は、むくりと上半身を起こした。
「怪我人だな。難儀なことだったろう。ここに座れ」
 妙な口調だったし、何より、うさんくさい。何をされるのかわからない。それでも座ったのは、霧の中にいるような非日常を送ってぼんやりしていたのと、少しの好奇心のせいだ。
 キミカは俺の左目のガーゼを乱暴に剥がした。
「ひどいようである」
 傷を見てそういった。地震は真夜中に起き、割れた窓の破片が寝ていた俺の顔を直撃したのだ。その恐怖、痛みを教えてやりたかった。が、その暇も与えずにキミカはいった。
「私にはこれが治せるだろう。見返りをくれまいか」
「ああ、本当に治ったらな」ぞんざいに答えた。
 キミカは頷き、背後にある大きなバッグをまさぐった。そして石を取り出した。
「愛を」
 小さくそう唱えて、石に口づけをした。その石を俺の左目にそっと当てた。
 何も起きなかった。
 そんなものだろう、と思って鼻で笑い、この拝み屋みたいな連中に背を向けて自分のスペースに戻った。
 そして眠り、起きたとき、左目には光が差し込んでいた。

(4)

BGM:メギツネ/BABYMETAL

 メタファライズ演算、というらしい。
 目の治った朝に、礼をいうためにキミカのスペースを訪れると、彼女が何をしたのかという説明をしてくれたのだった。
 魔法だろ? と訊くと、違うといった。
 キミカいわく、メタファライズ演算とは物理法則と力学であり、メタファーを弾き出し、石の儀式と祈りによって――だから結局魔法みたいなものではないか、といまでも思うのだが――変数に手を加える。たとえばAのメタファーの要素をAそのものに与える。
 俺の場合、「俺のようなもの」というメタファーから健康な目の情報を測定し、「俺そのもの」の目の部分を書き換えた、という。
「蝶が何故はばたけるか、それを知っているか」
「羽根があるからだろ」
「あの羽根では物理的にいえば飛ぶことができない。別の次元から重力が漏れ出していて、それだから飛べる」
 その別の次元が存在するように、平行世界や霊界など、そういう呼ばれ方をするものもまたあり、実際にはそれらはすべて同じもので、人によって見え方が違うだけだという。<Aに対しての、ここではないどこかの、AのようなA'>が、キミカのいうメタファーだ。
「つまらない話だろうが、私はそういうことをやっている、といいたい」
「おもしろいよ。難しすぎてよくわからないけどな」
 そうして話し込んでいるところへ、ぶらりとラウさんがやってきた。
「目は治ったね。健康、尊いこと」
 ラウさんにもお礼をいったが、わたし何もしてないよ、といって笑った。
「しかしあなた、キミカにはきちんとお礼しなさい。得をしたら、人にも与える」
 そうですね、と返事をし、キミカに向き直る。
「見返りってのは何がいいんだ?」
 少し考えているように、目線を漂わせて、やがていった。
「私の家が半壊している。荷物をとりに行きたいのであった。手伝ってくれ」
「わかった。どこに運ぶ?」
「新しい住居がある、そこへ置きたい。荷物は本と石だけであるから、すぐだ」
「あんなたくさん、すぐには終わらないね。わたしも手伝う」
 そうして話がまとまり、その日のうちには俺たちは出発していた。ラウさんが運転するジープで、荒れ果てた道を走った。アスファルトは割れ、盛り上がり、建物の破片も多く、車は酔いそうなほど揺れた。
 キミカの住んでいたところというのは小さな一戸建てで、屋根が裏側に大きく崩れていた。ドアがなかなか開かず、ラウさんが蹴破った。
 数時間、石を袋に詰めたり――雑にやるとキミカに睨まれた――本を拾ってほこりを払ったり、そういう作業が続いた。ジープは満載となり、終わったのは夕暮れどきだった。
「さて、お疲れさまだね。戻るか、それとも……あなた名前はなんという?」ラウさんが訊いた。
「フジワラっていいます」
「そうか、フジワラ君、行くところあるか? 帰るところが」
「いや、特には……避難所に戻ります」
「一緒に来てみればいい」キミカがそういった。「住むところは見つかるであろう」
「それならわたし、手配する。来なさい」
 戸惑った。住めるところがあるのはありがたいが、カネなどないのだ。それをいうと、タダでいい、そのうち仕事もやる、とラウさんはいった。キミカは、決まりであるな、といってジープに乗り込んだ。ラウさんがひそひそといった。
「フジワラ君、あなた信用できる。それがわかったし、いい相もしている。顔の相ね。キミカの世話をしてほしいよ。何かあったら助けてあげること。キミカ、頭よいけど、かよわい乙女だから」
 このように状況に流され、俺はキミカと共にマンション群に住み始めたのだった。俺には同じマンション内の別の部屋が用意された。ここが東九龍と呼ばれる前のことだった。

「フジワラ」魯肉飯を平らげたキミカがこちらを見ていた。「ボーッとしてどうしたのだ」
「いや……」俺は鼻の頭をかいた。「お前、かよわい乙女?」
「何をいっているのか皆目わからんが」
「俺もわからん。ちょっと考えごとをしてたんだ」
「食べたら片づけておいてくれ。ゴミも溜まっている。一方私としては昼寝をする」
 そういってダイニングを出ていくキミカを見ていて、かよわいか、乙女かどうかを考えたがよくわからず、冷めた飯を食べた。

(5)

BGM:常勝街道/雅

 食後、ゴミをまとめてキミカの店を出た。ほこりっぽい階段を降りていく。マンションの外は、他のマンションの影と、曇り空のせいもあって薄闇に染まっていた。
 焼却場へ向かう。東九龍の北端にゴミを焼いて処理してくれる男がいるのだ。彼はなんでも燃やす。紙くずから人間の死体まで。
 子供たちがゴムボールで遊んでいる広場を抜け、路地に入り、ショットグラスで強い酒を出す露店のそばを通る。酔っぱらいたちを横目に進み、やがて北端に着いた。
 黒煙と、あらゆるものが燃える異様なにおいの中、焼却人は火かき棒を持って佇んでいた。これを頼む、といってゴミ袋を渡す。すると手のひらを差し出してくるので、ほんの少しの小銭を取り出して払う。これが彼の仕事なのだ。死体を焼く場合はもっと高い。
 ゴミ出しを済ませ、俺は自分の部屋に戻ろうと歩いた。キミカと同じマンションの四○一号室だ。今日はもう仕事もない。ゆっくりしよう。
 途中、売店に通りがかった。粗末な揚げ菓子を一袋買う。あとでキミカにやろう。
 部屋に帰り、電気とラジオをつけた。ソファに座り、そのままうたたねをした。
 六時半頃、飯を買ってキミカの店へ行った。キミカはまた海外のニュースを見ていた。長い間、遠くの国で戦争が続いていて、キミカは何故かそれに興味があるらしい。
 だるそうなキミカがメニューを訊くので、麻婆豆腐弁当だと答えた。昼間に買った菓子も渡した。
「お前は少し太れ」
「この程度やせてても死ぬわけじゃあるまい、と反論しよう」
 そういうわりに、食後には渡した菓子をポリポリ食べるのだった。
 明日の打ち合わせをする。客は三人来るので忙しい。
「まず一人目が午前十時、これは駅まで迎えに行く。二人目は東九龍の住人だ。昼一時にここに直行する。三人目は夕方五時、東九龍の入口で待ち合わせだ。近所に住んでるのかもな」
 キミカはその説明をふんふんと聞いていた。
「みんな充電か?」
「まあ、充電だろうな」
「なら簡単なのであった」
 キミカの操るメタファライズ演算には二種類ある。メタファーを対象に転写するのと同時に、対象のマイナスを石に吸収する、これを充電と呼んでいる。俺の目を治したのも充電だ。
 もうひとつ、放電というのがある。こちらは石に入ったマイナスを現象として解放するものだ。主に汚い仕事に使う。
 いつかキミカが説明していた。「お呪い」と「呪い」の裏表。前者は「おまじない」と読み、後者は単純に「のろい」だ。メタファライズ演算も呪術も、使い方次第の話だといっていた。
 飯も食ったし、打ち合わせも済んだ。じゃあまた、といって店から出ようとしたところ、キミカが玄関までついてきた。
「なんだよ」俺は訊いた。
「あの菓子が気に入ったというわけだ。また買ってきてくれ」

 翌日、駅へ行って男の客を迎え、東九龍へのガレキの道を歩いた。東九龍に入ったあとキミカお気に入りの菓子を買い、それから客を店に連れていった。菓子はダイニングに置いた。用が済んだところで客を駅まで送った。
 店に戻ると、キミカはさっそく菓子を食べていた。ハマったらしい。また買ってきてやろうと思った。
 二人目の処置を終え、俺は外へ昼飯を食いに行った。キミカは菓子でもう十分だとのことだった。屋台でチャーハンを食って一度自宅に戻り、少し休んだ。
 三人目を迎えて案内し、その客が片づくと俺たちの一日の仕事は終わった。ここではカネのやりとりはしない。仲介する時点でラウさんがすべて管理している。ざっと数えるに、俺とキミカの今日の取り分は二〇万近くになるだろう。
 いい商売だと思う。
 キミカがいてこそだが。

(6)

BGM:僕たちの距離感/夢中夢

 その日は客の予約がなかった。こういう、丸一日何もない日はたまにある。
 俺は昼近くまで自宅で寝ていて、一晩つけっぱなしだったラジオを消してベッドから起き上がった。それから身なりを整えてキミカの店へ向かった。仕事があるわけでもないが、習慣だ。
 インターホンで呼び出すと、キミカはバサバサの髪をしてドアを開けた。
「寝てたか。おはよう」
「いい夢を見ていたのだった……浄福と祝祭、その予感……」
「そりゃ邪魔しちまったな」
 店に上がる。リビングのローテーブルに、たくさんの付箋が貼られた本が積んであった。何語なのかはやはりわからない。
 今日は休みのはずだが、というキミカに、散歩でもしようと誘った。
「運動不足も度を超すとよくないだろ」
「そうであろうな……では歩こう」
 まだ眠そうなキミカは、まず風呂と着替えだ、といってリビングから出ていった。待っている間、本棚を見ていたが、俺に読めそうなものはひとつもなかった。
 続いて石の棚を見る。置かれた小石は百や二百はあるだろう。このひとつひとつにマイナスが充電されている。怖ろしい話だ、というわけでもないが、迫力はある。
 髪をふきながらキミカがリビングへ来た。七分袖のシャツとジーンズという格好だ。
「ドライヤーとか使わねえの? 傷むぞ」
「持っていない。髪などどうでもいい」
 生乾きの髪のキミカと外へ出た。真昼のせいだろう、少し暑い。
 とりあえず飯を食おう、ということになり、階段を降りてマンションを出て、路地を歩いていった。
 食堂が並んでいる辺りに来た。それらは東九龍中央のマンションの一階にある。道路との間の塀や植木を取り払い、普通の住宅を店に作り替えているのだ。
 鶏ガラのうまそうな香りがする。ラーメンを提案したらキミカは頷いた。
 安っぽいテーブルにつき、米の麺のものをふたつ注文した。客はけっこう入っていて、それぞれどんぶりに没頭していた。
 やがて俺たちの前にもどんぶりが置かれた。箸とレンゲを手にとりかかった。麺は食べやすく、味はあっさりとしていた。
「なかなかおいしいようである」
「うん。いい店だな」
 食後、キミカをじろじろ見る店員に支払いをして、また東九龍の中を歩き出した。洋服屋があった。入るか、と訊くと首を振った。間に合っているのだろう。
 ダラダラと歩く。通路の端で、ランニング姿の男が二人、将棋に興じていた。なんとなく盤面を見に行く。もう終盤のようで、一方が勝ち切れるかどうかという難しいところだった。指している男たちが同時に俺に顔を向け、睨んだ。邪魔するなというところだろう。気配から察するに、カネを賭けている。俺たちはそこを離れた。
「フジワラは将棋がわかるのか」
「まあ、ヘボだけどな」
 あてもなくうろつく。教会の前を通りすぎた。その他、小さな学校、ベンチがあるだけの公園、金物屋の前を行った。
 売店に差しかかった。いつもキミカに持っていく菓子を買うところだ。
 二人で店先に立つ。店主が声をかけてきた。
「兄ちゃん、今日は女連れかい。いいねえ」
「いやいや、そういうんじゃないですけど」
「じゃあどういうんだよ。こんなかわいい子とデートして」
「いやいや、違うんで」
「フジワラ」キミカが割って入った。いいたいことはわかる。それに応じて、俺はいった。
「いつもの菓子、ください」

(7)

BGM:Gypsy Girl/Sword of the Far East

 今日はひとりだけ客が来る予定だった。夕方五時、東九龍入り口で待ち合わせることになっていた。朝に起きて、空腹を感じながら身支度をする。軍用ブーツを履けば気合いが入る。
 朝飯をキミカと食べようと思い、部屋を出て屋台で弁当を買った。香草の効いた、鶏肉入りの炒飯だ。
 階段を上っていき、キミカの店のチャイムを押すが、反応がなかった。ドアノブに手をかける。無防備なことに鍵がかかっていなかった。
 中に入ってキミカを呼ぶ。部屋のあちこちを探した。リビング、ダイニング、ためらいつつ寝室も見てみたが、いない。置き手紙などもない。どこへ行ったのだろう。
 買ってきた弁当を置き、店の外へ出た。マンションの廊下にはいない。どこかの階にいるとも思えず、とりあえずマンションを出た。
 エントランスの前で通りを見渡した。考える。何の用事で、どこにいるのだろう。ゴミが散らかっている道を、あてはないがとにかく歩いた。
 マンションのそばにはいないようだ。飯を食べに行ったのか? それなら東九龍中央の食堂のあたりか。だが中央へ行ってみて、よく探しても見つからない。ラーメン屋の店員に、女の子が来なかったか、と訊いたが、客のことなど覚えていないという返事だった。キミカの姿、特徴などをいうと、そばのテーブルにいた客が割り込んできた。その子なら北の方に歩いていったという。
 北へ歩く。電線がショートして壁が黒くなっているビルがあり、通路に垂れている電線をよけながら進む。そこで何か大きな虫の死骸を踏んでしまった。
 昼を過ぎた。客が来るまでに見つけなければならない。
 北端に辿り着いた。もの凄いにおいがする。まさかこのゴミ捨て場にはいないだろうが、一応焼却人に訊いてみた。女の子ならさっき焼いた、といわれて驚いたが、それは伝染病で亡くなった七歳くらいの子供だったそうだ。焼却人から線香を買い(彼はなんでも焼くという職業上、そういったとむらいの道具も持っている)、火をつけて地面に差した。探しているのはもう少し年端のいった子なんだが、と改めて訊く。焼却人は首を振った。
 さて、もういよいよわからない。東九龍は広く、マンションが林立して見通しがきかない。また歩いていって、そのうちいつもの売店に差しかかった。店主にキミカのことを訊く。
「こないだのあの子か? 見かけたよ、あっちのほうに行ったな」
 店主が指差した方向には、なんの手入れもされていない荒れ地があるはずだった。礼をいってそちらへ行く。
 荒れ地に何の用だろうか、よくわからない。だがキミカを見つけて訊けばいいだけだ。
 建物の間を突っ切ると、大きく広がった空間が見えた。俺の腰ほどの高さの雑草が生い茂り、いくつもの木々があり、まっすぐに照らす太陽が見えた。
 目がその眩しさに慣れてくると、まわりを探すほどには見えるようになった。
 吹いてきた風に合わせ、草が鳴いた。ひしめいている草の香りが届いた。揺れる緑色の波の中から、ひょいと頭を出したのはキミカだった。
「キミカ……」俺は言った。「何してんだよ」
 こちらを振り向くこともなく、手を上にして伸びをして、答えた。
「石を探しているわけであって、つまりは採集だ」
「こんなところで?」
「コンクリートのガレキでは使えないのであるからな。自然の石が必要だ」
 要するに、商売道具を調達するためここに来たのだ。それはわかるが、俺は文句をいった。
「勝手に出かけるな、とはいわないけど、事前に知らせてくれ」
「それより、見てほしい」
 キミカは微笑んで、両手いっぱいに石を拾い上げた。
「いい石たちであろう?」
 石の良し悪しは、俺にはわからなかった。

(8)

BGM:魔法少女幸福論/トーマ

 キミカのかたわらには石が積み上がっていて、それを運ぶのを手伝わされた。ところどころ穴が空いているビニール袋をかかえて歩き、東九龍の暗い内部へ戻っていく。
「フジワラ」キミカは息を切らせながらいった。「石はいいものなのだ」
「へえ……。どんなふうに?」
「これは星のかけらだ。ここで生まれ、ここで消えていく。そして私たちよりずっと長く存在するものだ。それに」
 キミカはビニール袋を置いた。肩で息をしていた。
「石は私のことを好きなようだ」
「そうか。じゃあ大切にしないとな」
 俺も袋を置いて休んだ。これでなかなか重い。
「あの店で、石たちに囲まれて、私は幸せ者であるようだ」
 ひとりごとのようにいう。足下に置いた袋に目をやっていた。何か考えているように見える。
「私だけが幸せではいけないのだが……」
「わかった。だからこの仕事をしてるんだろ。人の役に立ってさ」
 そうでもあるのだが、と答えてかがみ、袋から石をひとつとった。まっすぐに立ち、しばらくそれを見つめていた。
「いずれ大技に挑戦したいというわけなのだ」
 俺は壁に寄りかかっている。指先の石を見ているキミカの姿は儚げでもあり、その一方、強さが感じられるようでもあった。
「それにはフジワラを巻き込むことになる。許されないことになるかもしれない」
「ラウさんとキミカに拾われたんだ、何でもやる。いままで通りだ」
 本音だ。きれいだろうと汚かろうと、仕事はこなしてきた。古い言葉に、恩は石に刻め、という。俺はその教訓に忠実なのだ。
「でも、ひどいことになったら」
「キミカ」俺はキミカの目の前に立った。「なんでも構わないんだっての。俺を使えよ」
 少しだけ目を見開いて、俺の目を見て頷いた。小さな声でいう。
「私は幸せ者だ。だが、罪人だ」

 マンションのキミカの店まで戻り、すっかり冷めている弁当をふたりで食べた。レンジがあれば便利だが、あいにく手に入らない。
 食後、キミカは持ってきた石を棚に並べていった。どういう分類なのかはわからない。しかし一定の区別があるようだ。
 石を持って、棚に向かったままキミカが訊いた。
「今日の客は五時だったな?」
 そうだ、と答えた。いまは三時近くだ。
「ラウさんから聞いたよ。一応注意しろ、だって」
「だったらこれだ」そういって灰と黒のまだらな石を棚から取った。
「俺のほうはこれだ」
 ポケットからデリンジャーを取り出した。二発しか弾を込められない、手のひらに収まるサイズの拳銃。
 客を分けへだてしないぶん、ときどきはリスキーな商売なのだ。そのための備えはこうして持っている。

 五時になって待ち合わせの場所に行く。東九龍の入り口だ。西日の中、客の男はもう来ていた。
「キミカの客か?」
 細い目をしたその男に近づいた。
「ああ、ちょっと病気をしちまってね。治してもらえると聞いたもんだから」
 男は胸をさすって見せた。
 先導して店へ向かう。男のポケットで、金属がこすれるかすかな音がした。

(9)

BGM:その時なにが起こったの?/キノコホテル

 客を連れて東九龍へ入っていく。オレンジ色の陽が、電線や木々を通して建物の窓を光らせていた。
 客とは話をせずにキミカの店まで歩いた。気になったのは客の歩き方だ。足の運びが静かだし、気配が薄いのだ。
「ここだ」
 俺はインターホンを押し、来客を告げた。キミカがドアを開けた。ようこそ、という。
「上がって、そこらにかければいい」
 そういって店の奥へ行った。客が続き、そのあとから俺がついていった。
「すごい部屋だなあ」
 客は部屋を見回した。石や本だらけのここに感嘆したような言葉だが、気持ちがこもっているようでもない。
 ひとしきり眺めたあと、部屋の中央のソファに腰かけた。手を組み、やや前屈みだ。キミカは向かいに座った。
「さて、何か困っていることは?」
「ああ……肺を悪くしたようでね。息をするだけで痛む。治してくれるか」
 わかった、といってキミカは石の並ぶ棚を見た。そうしてから立ち上がり、高い段にある石に手を伸ばした。男がスチレットナイフを取り出したのと、俺がデリンジャーを男の後頭部に押しつけたのは同時だった。
「物騒なことをされちゃ困る」
「はっ、お前のその銃はどうなんだ?」こちらに顔を向けないまま、笑ってそういった。
「何をしに来た」
「そこのお嬢ちゃんを消してくれと頼まれてね。あんまり目立つと大変だな、敵が増えちまって」
 敵とやらに覚えはない。だがおそらく過去に始末をつけた誰かの関係だろう。
「ありきたりないい方だが」俺はいった。「動くと撃つぞ」
「撃たれるかよ」
 男が振り向き、ナイフの切っ先が俺の喉元をかすめたとき、キミカは取り出した石に「涙を」といって口づけた。
 水風船が割れたような音がし、男の両脚が消えた。うつぶせに倒れ、うめいていた。血は出ていないが、痛みはあるようだ。口づけた石はキミカの手の中で砂になった。放電をするとこうなる。これは誰かの脚を治したときに充電した石だったのだろう。
「で、あんた、誰に頼まれた」
 プロだろうから吐きそうにも思えないが、一応訊いてみる。男は両腕をつっぱって顔を浮かせた。脂汗をかいていて、それでも平気そうに笑ってみせた。その額に銃口を当てる。
「チャチな……銃だな」
「このチャチなもんであんたは死ぬんだ」
「フジワラ、店が汚れる」キミカがいった。そうだな、と答えた。
「これからあんたをゴミ捨て場まで引きずっていく。吐けばそこで楽にしてやるよ」
 何もいわない男の襟をつかんで店を出た。引きずったまま階段を降りていく。段差の衝撃で、苦しげな息をしていた。二階から一階へは放り投げて転がした。縦になり横になり、ゴミと埃まみれになった。
 顔を歪めていても、やはり何もいわない。もう訊き出せないだろう。
「どうしてこういうプロになったのかな。興味がある」
「天命さ」苦しげに答えた。「もう、やってくれ」
「……バイバイ、殺し屋さん」
 デリンジャーを二度撃ち、血でぬめる死体をゴミ捨て場まで持っていった。焼却人に札を数枚渡した。足りない、と彼はいった。何が、と訊くと、線香代が、と答えた。

(10)

BGM:豚の皿/Grapevine

 何も食べる気がしない、とキミカはいうのだが、なるべく食べやすいものを選んで無理に食べさせている。石の放電をしたあとはいつもこうだ。
 キミカが寝込んで三日になる。
 ラウさんからいつか聞いた。他人の運命の流れを害すると身体に反動がくる。大陸のまじない師たちがそうで、術を使うほどボロボロになっていくと。寝込むくらいで済むのだから、まだいいほうだ。
 今朝も東九龍中央へ行き、滋養のありそうなものを――ここではあまりないのだが――見つくろっていた。いい香りのする、鶏肉入りの粥を買った。俺が食べるぶんとしては、別の店で玉子入りの焼きビーフンを包んでもらった。
 それらが入った使い捨てのパックを持ってキミカの店へ行く。キミカが動けないため、鍵は俺が預かっていた。
 店内に入り、奥の窓からの淡い光を頼りに蛍光灯のスイッチをつけた。食堂にパックを置く。それから寝室へ向かった。
 ドアを開けると、簡素なベッドで眠るキミカの横顔が見えた。乱れた髪に半ば隠された、その白い顔を前に少したじろぐが、いつも通りに起こすことにした。眠らせておくと何日も起きないのだ。
 声をかける。名前を呼ぶ。んん、とうめいて片目を開け、キミカは俺を見た。
「飯を持ってきた」
「……わかった。いま起きる」
 先に食堂へ入って、テーブルの上の支度をした。とはいえ、スプーンと箸を出すだけだが。
 スリッパの音をさせてキミカが来た。
「腹がへっていないのであるが……」
「なんとかして食え。死んじまうぞ」
「死にたくはないな。それならば食べよう」
 そういって椅子に座り、粥のパックのふたを開けた。湯気が上る。まだできたてだ。
 食べ方を見るに、体調はよくなってきたようで、顔色も悪くない。ちょっと前までは真っ青だったのだ。
 お互い食べ終わり、俺は片づけを始めた。キミカは隣のリビングへ行った。テレビをつけたようだ。改造アンテナで違法に受信している、海外のニュース番組。キミカが見るのはいつもそれだけだった。
 ゴミ袋をまとめたあと、俺もリビングに来た。ソファに座ってテレビを見ているキミカがいった。
「戦争が激化しているようである」
 俺も画面を見た。灰褐色の空、砂ぼこり、ガレキ、血だらけで建物から運び出される住人たち、いつもよりヒステリックなアナウンサーの声。
 言葉はわからないが、図解と映像で連合軍の爆撃の話をしていることがうかがえた。
「フジワラ、殺しをどんなふうに思う?」
「なんだよいきなり……。殺しそのものは正しいも何もないな」
「そう思うか?」
「ああ、そう思う。殺しだけならな。殺しの上に何かが乗っかってる場合は違うだろうけど。善悪とか価値観とか」
 三日前にデリンジャーで撃った男を思い出した。あの殺しはどうだろう、とぼんやり自問したところへキミカがいった。
「これに映っている戦地に行ったとして、百人殺せるか?」
「さあな。でも、なんでだ?」
「ラマルク説、またはエピジェネティクスの話だが」キミカは画面を見たままいった。「まだ生命科学の中でも理論的に確立された学術体系ではないが、使えそうなことだ。遺伝子情報とその発現の変異、つまりヒストン装飾のアセチル化とDNAのメチル化の――」
「待て、全然わからない」
「ではざっくりいおう」キミカは俺を見た。「百人殺した男の、形質的に変異した遺伝子が欲しい」
「……それは……答えに困るな」
「試験管でもいいのだ。だいたい、恋愛ができるほどお互い素朴でもないだろう?」

(11)

BGM:シャングリラ/Acid Black Cherry

 つまり、子供が欲しいということなのだろうが(遺伝子の変異うんぬんは俺にはわからなかった)、だがそれはなんのためなのか? 母性に目覚めたか。
 それを訊ねてみると、キミカはソファから立って、俺のそばに来た。
 見てくれ、といい、俺の頭を両手で掴んで唇を重ねた。
 閃光が白く目に映り、意識が飛んだ。

 ――熱帯の植物がコンクリートの隙間からいくつも生えていた。ヤシやシダ、その他見たこともないような草木が俺の周りにあった。苔むした道に見覚えがある。この苔や植物がなければ、ここはそのまま、東九龍だ。見上げるとマンションやビルの群れがあり、それらの窓や屋上からもやはり緑色の樹木が伸びていた。
 草木の茂る中から抜け出ようと歩く。あのマンションのほうへ、と思った。ここは暑い。額や首に汗が浮いてきた。
 密集した草木から抜けると道に人々がいた。誰か知り合いは、と探した。人々はみな同じ方向へ向かっていた。
「ラ囲祭ぬいエ祈」
「めあ和ヌ希ク。十けラる」
 彼らはそのようなことを話しながら歩いていた。この言葉はなんだ、と思うが、どこか高揚している様子であり、これから大事なことがあるというように見えた。彼らの向かうところへ俺も行ってみようと、異様な言葉が交わされる中にまぎれこんで歩く。
 北へ向かっているようだ。東九龍の内部を通り、このまま進むとゴミ捨て場があるはずだった。
 しかし到着してみると焼却人はおらず、焼かれるゴミもなかった。そこにそびえていたのは、白く磨き上げられた、巨大な石の建物だった。
 人々がその周りに群がる。
「ンえ来比ヲ、よ見ヌ」
「早ナ。も解イねア礼、貴弥呼」
「貴弥呼、クみ来な」 
 それらの声にひっかかりがあった。貴弥呼――キミコ。
 突然場が沸き返り、人々の声が大きくうねった。白い建物の上、屋上にあたる部分に女の子が現れていた。刺繍入りのローブを着て、髪は長く、肌は白い。あれは……キミカか?
 だがよく見るとキミカより幼い。人々が合唱している。貴弥呼、貴弥呼と。
 少女は手に持った銀色の杖をかざした。
 空が、破れた。
 その裂け目からあふれた光があたりを包んだ。もはや声はなく、俺は、俺の心と体は満たされた。ただこれだけで生きていられるのだと思

 パチン、と頬を叩かれ、我に返った。目の前にキミカが立っていて、ここは店の中だった。
「見えたようである」
「あれは……なんだ?」
「いつかいった大技だ。成功すればああいうふうになる。祈りだけですべてが足りる世界だ」キミカはうっすら笑った。「私はこの国をメタファライズ演算にかける。新しいこの国には一切の苦しみもなく、一切の悲しみもない。楽園だ」
 つまり――キミカは国生みをしたいということだ。
「巫女がいただろう? あれが私の娘というわけだ。百人殺した男の遺伝子が欲しいのはあの子のためだ。殺せる者だけが守れる……フジワラと私が守り合ってきたように。あの子には、ひとりでも国を守っていけるだけの強さが欲しい」
「じゃあ、キミカはどうなる?」
「死ぬかもしれないな。だがやりがいはある。私の力の使い道として」
 俺は黙った。キミカも話さない。テレビはついたままだった。戦争は続いている。

(12)

BGM:君の事が/清春

 砂を含んだ風が、汗でベタついている顔に当たる。おかげで顔中いつでも砂まみれだ。
 半壊した灰色の建物の一階で、俺は顔についた砂をこそげ落としながら、連合軍の若い兵士と話していた。そいつはひとりで行動していた。部隊はどうした、と訊くと、いまから合流しに行くという。兵士はこの建物の近くで現地の女を犯し、一休みしているのだといった。
「なにしろ、そういう楽しみがなくちゃな。でなきゃ戦争なんかやれるかよ」
 青い目を細め、子供っぽく笑った。シガレットケースを出した。紙で巻かれたマリファナが入っていた。俺にも勧めてきたが、断った。
 しかしまあ、と、甘い香りの煙を吐いて気だるげにいった。
「こんなことしなくってもなあ。わからないよ、戦争をやって殺し合おうっていうさ、そういう話が」
「同感だ、といいたいが」俺はいった。「殺さなきゃならないんだろうよ」
「お偉方の都合だろ?」
「それだけじゃないさ。たとえば、俺の都合ってのもある」
 兵士は黙った。まじまじと俺を見た。
「そういや、あんた、どこの所属? 外国人部隊か?」
「だとよかったな」
 俺は漆黒のコルトパイソンを取り出し、兵士に向けた。
「お前の神に祈れ」
「おい……何やってんだよ」兵士は小声でそういった。
「仕事だ」
「俺を殺すのか?」
「戦争にもルールがあってな。戦時国際法を教わってないか? 民間人を犯すなって」
「それくらいいいだろうが――」
 パイソンの六発の銃声で、兵士の声は途切れた。
 肉塊となった兵士から血が流れ、床には赤色がじわじわ広がっていった。建物の外から、ガイド役の男が声をかけてきた。
「フジワラ・タイチョー、済みました?」
 ああ、と答えると、ガイドは中へ入ってきた。
「うわ……やっぱ汚いな、殺しかた」
「文句は上にいえよ。マグナム弾なんか持たせやがって……ああ、肩が痛い」
「とりあえず報告しときますよ。外に出ましょう」
 俺は黙ってガイドのあとについていった。
 晴天の午後だ。あちこちの建物が崩れた市街地の片隅に日陰を見つけ、俺たちはそこに座った。ガイドが暗号化された端末を使い、現地語で報告を始めた。
 俺が身を置いているのはテロリストの組織だ。この組織の上層部は潔癖で、彼らが決めたことからのいかなる逸脱も許さない。連合軍の兵士がこちらの女を犯すこともそうだが、収容している連合軍側の捕虜についても、組織のメンバーが犯してはならないと強調した。もちろん戦術にテロを使っている以上、何もかもを人道的にやっているわけではないが。
 その他にも様々なルールが決められていた。ルールを破る者を殺すのが、俺に与えられた仕事だった。
 報告を終えたガイドがこちらを向いた。
「でも、フジワラ・タイチョー、オマエノ……とかいうのは何だい? 殺すときいつも唱えてるけど。ニンジャの呪文?」
 パイソンのシリンダーを開いて薬莢を落とし、新しい弾を込めながら、俺はいい加減に答えた。
「そんなもんだ。死んで出直せってな」
 ふうん、といって、ガイドは俺の手元を見ていた。六発の弾を装填し、銃身を横に振ってシリンダーを戻した。
「こんなもんを支給されたことにも意味があってな。リボルバーはジャムらない、つまり撃てば必ず発射されるんだが、これは『確実に殺せ』ということだ。六発の弾は『六回殺せ』、そしてマグナム弾は『徹底的に殺せ』だそうだ」
「おっかないね、上の人たちも」
「完璧主義なんだろうな……さて」
 俺はガイドにパイソンを向けた。
「お前の神に祈れ」
「おい、なんだよそれ」ガイドは慌て、地面から立った。「冗談になってないよ」
「捕虜の女を犯したそうだな。十七番収容所で」
 俺がそういうと、しばらく絶句した。やがて絞り出すように叫んだ。
「……いいじゃねえかよ、あいつらは敵だぞ! あいつらが俺たちを殺してきたじゃねえか! いろんなものが奪われたぜ、そんな連中のことを丁寧に扱えって?」
「悪いけど、俺はいわれた通りに殺すだけだ」

 ガイドの死体のそば、彼のバッグを漁って端末を取り出した。
「フジワラだ……ああ、始末した……S市の大通り近くだ……了解、四時間あれば行ける……了解」
 別のガイドがつくのと、物資の補給のために、ここから少し離れた丘へ行くことになった。
 日が強く照っている。爆撃を受けたこの町を見て、何か思い出しそうになった。ガレキと廃墟。
 俺に、大切な誰かがいたはずだ。
 一瞬その誰かの顔が目に浮かび、だが忘れてしまったのか、名前がわからなかった。
 風が強く、あたりに砂塵が舞い上がっていた。
 俺の国の言葉で、大切なその誰かに向けて、呟いてみる。
 君のことが好きだ。

 たぶん。

<了>

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