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断片 ヒステリック首狩りママ

 育ちの話。(関係者の人々に配慮して大幅に削除。公表してはいけないということもあるようだ)その育ち方をしているので私も狂っていったし、いまですらまだ名残りもあるというもの。そして重要なことに、原因や結果はあれど、これらは誰の責任でもないのだ。少なくともそうして無罰的に考えないと、幼子だった頃の私がかわいそうだと思う。いまからでも助けなきゃいけない。半ば殺されてるから。

 桜が咲く頃にはどこかへ花見に行きたいものだ。この二年三年の感染症騒ぎで宴会などはできなくなったが、咲いているところを歩いていくことなどはできる。どこへ行こうかねえ。名所に行ってみたい。そこで撮る写真は普段のモノクロではなくて是非ともカラーで。桜色という言葉の指す桜の花びらよ。なんか俳句か短歌かでも詠みたくなるんじゃないの。ともあれ春が来る。早晩やってくる。コートをしまい込んでジャケットを引っぱり出すのだ。あるいはロングカーディガンなども。あのジェンダーレスさがけっこう好きですな。男女どちらが着てもいいようなやつ。衣替えは楽しい。冬も終わりゆく。雪のように溶けるのは何。何やのそれは。

 いまインスタントコーヒーの溶けなかった部分が口に入って苦かった。そんなどうでもいい情報もありつつ、これを書いてるいま現在は早朝、ぼちぼち日も昇るのかなというあたり。書きまくったぜえ今夜は。ノート術のノート六枚、雑記のノート六枚、そうしてこの断片である。やはりこれだけいろいろ書いてたら疲れもするし時間も食うな。これで書くことそのものの訓練にはなると思いたい。noteの創作大賞の行方がどうであれ待ってるだけというわけにもいかず、また新しく小説を書いてだ、秋頃にまた新人賞に送ろうかなと。いつまでワナビやってんだって話よ。

 リュビモフのモーツァルト(まだこないだのコンサートの影響が残ってる)を聴いていて、ああ、これは聞き流してしまえることもモーツァルトらしさなんじゃないのかと思う。楽想やメロディの素晴らしさはもちろんある。ただそれがあまりにも自然な感じで、無理がない感じで流れていくので、身構えなくても気軽に聴けてしまうのだった。もちろん盤や奏者にもよるんだけれども、バリバリした緊張感の中で演奏されるモーツァルト、というのはあまり知らない。サロン的な気軽さ、優美さがなんだかどれにもあるような。25番とかは別なんだけど。レクイエムもそうね。あとなんだろう。そういう悲壮なものは少ないのかな、もうちょっと勉強します。

 ジョゼフ・キャンベルという神話学者がいる。神話学という学問分野があるのだ。そこでキャンベル、先達のクリエイター諸氏がその影響元としてよく挙げる人で、ジョージ・ルーカスとか村上春樹とかがね、影響を受けたらしい。某ライトノベル新人賞に受かった作家にはこのキャンベルの『千の顔をもつ英雄』が渡されるなどと聞いたことがある。新訳が出てもう長いが、この人によくよく就いて新しく書き始めようと思う。私事でいうと、以前同じキャンベルの『神話の力』というのを読んだだけで340枚の作品が書けました。落ちたけど。


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