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断片 もっと文学的な映画を

 ようやく映画を観られた。安売りのブルーレイで、テレビで再生した。そこそこのおもしろさ。若ければもっと楽しめたであろうようなもの。この歳となってはもうちょっと深みが欲しい。教訓というのか、学びがあるようなもののほうが楽しいじゃないですか。そこは悪役を倒して終わりみたいなもんではなく、いやそういうプロットでも悪くはないんだけど、やはりこう文学的な教えや学びを求めてしまうのだった。そういうものを期待して観る映画ではないのだったが。アクション映画なんだし。文学的なものをというならヒューマンドラマでも観なさいって話。ところで文学的って何かね。何を指すのかね。文学のようであること、でいいのか。ではどのようなものが文学なのか。これは演繹ではなく帰納でいってみる。世界中の優れた作品のひとつひとつが、その存在において自らを指し示しているのが文学である。合ってるかなこれ。

 承前。だったら小説を読めばいいんじゃないの。ああ、まったくその通りかもしれない。映画で学べることと小説で学べることは違う。ただ狙いとしては件のその映画からも小説のような学びをと思っていたのだった。強欲な話だった。読めばいいじゃん小説を。またいうけど。映画で学んだこともあるんだから別にいいじゃん。ただ、観てて展開とプロットが透けるようなものはもういいかな。じゃあ今回何を学んだのだといって、映像による見せ方、人物の動作などは学んだ。イメージの蓄積のためにはなった。いつか書いたような無意識下の闇鍋にぶち込んだ。それで十分ではないか。こうやってブツブツいってるのはあれだ、観た映画への期待値が高すぎていたので、観てみたらガックリきてるって話。

 文章を書かずにはいられなかった。書くことに強烈に飢えていた。腹の飢えには耐えられるのに、書かずにいることには我慢ができなかった。結果がこの雑文である。何か作品を書けばいいんじゃないかと思う。この断片ももうあと一回で、三十回目で終えるつもりでいて、そうしたら書く先に困るというもの。やりますか小説を。だが仕込みがぜんぜん済んでいないのが問題ではある。絶対に力になるとわかっている本を読んでいない。仕込みとはそのことだ。小説を書くための能力、技術、レベル、経験値、上げていきたいものがそれらであって、ある特定の本たちを読めば必ずや上がるだろうと期待している。

 ディスクがまた届いている。カッチェン、ギュラー、ゼルキンなど。今回の収穫は名ピアニストで固めてきたな。また楽しいぞ。この憂き世のつらさの中、音楽なしでやれるはずもなく。逆にいえば音楽があればかなり救われるところがある。私はたまたまクラシックを好むようになったけれども、そしてそこに喜びの沃野を見出したものだけれども、これはこの世の楽しさ美しさの一部であって、楽しいもの美しいものというのなら他にもいろいろある。そういうものが手元、心の中、すぐそばにもあればいいな。私はそのことを躊躇せず幸福と呼ぶ。誰にとっても幸福だ。

 疲れていて本が読めない、などというのではまだダメらしい。疲れが読書によって癒やされるくらいにならないといけないそうだ。そこまで行ければかなりいいだろうな。まだ修行の途中、ここまでもやってきたつもりではいるが、どこかへ到達するにはまだ足りない。運命の相において到達できないのだとしても、その運命をはっきりさせるには努力するしかないのだった。運命論、決定論、そういうものは未来の時間にジャッジがあるのであって、現在は常に未来の始まりの部分、なんだってこれからのことだわな。



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