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『日々貧賤』

 ときどき思う。俺には別の生き方もあったのではないか。たとえば中学時代からの友人Mのように。こいつなど実に堅実にやっていってる人物だ。コツコツと働いて、いまはローンを組んでタワーマンションに住んでいる。
 優劣の比較ではなくて形式の比較だ。優劣なら、人物全体からいってどこがどうと、俺とMとでは決まらない。見事に一長一短なのだ。カネがあるということは実に強い。だがMの部屋には漫画とテレビとパソコンしかない。小難しいような話をこぼすとふてくされる。「学がないのバレんだろ」などという。これはあいつの劣等感のあるところだろう。
 形式でいえば、コツコツというのは一致するところだが、Mは俺のような勝負をしていないということがいえる。仕事で勝負所があろうが、結果はどうあれ組織にはいられるようで、その安定感たるやすばらしい。一方俺は負けたらどん底が続くだけである。十年以上、未だに勝ったことはない。
 最近Mとはあまり会ってはいないのだけれど、なんだか会ってもそれほどおもしろいものではないように思う。どうせアニメと漫画の話しかできないのだ。または加齢と健康などが話題になって、病院の待合室でもあるまいに、しけたものなのだった。
 貧賤にも楽しみがある、と書に読むのだが、その楽しみというのも俺の場合はさほどのものでもない。持っているカネに苦しめられる、人間がカネを持っているのではなくカネが人間を持っている、そんなようなことがなくて身軽なのが貧乏だという。そうはいえど欲しいものを買えるという楽しみくらいはあってもよかろう。俺はカネを商品引換券としてしか見ていない。
 忌野清志郎の歌を思い出す。「金が欲しくて働いて眠るだけ」。うろ覚えの話だが、あの人も長らく、三十だか四十だかまで苦しかったそうである。売れて愛されて、伝説になってしまった。勝負を続けて勝った男なのだ。偉いものである。
 しかしいつまで俺はカップラーメンと豆腐という食事を続けることになるか。この先の暮らし方を考えるとやや滅入るところもあり、かといってどうするということも、諸事情からいって打開されるものでもない。
 昨日、アパートの二階に内見の者が来ていた。またうるさくなるようであれば、それはもううんざりするようなことであるが、これもどうしようもない。

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