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断片 人間を書くのか、物語を書くのか

 公募ガイドのバックナンバーを読んでいたら純文学のざっくりとした定義があった。「小説とは何か」「人間とは何か」といった問題を、物語性を犠牲にしてでも書くもの、といったところだそうだ。テーマならエンタメのほうが重いってよ。だもんで純文学は少し現実的な世界から遊離して芸術っぽく、いやどこの何がどう芸術なのかという問いもあるが、「小説とは」「人間とは」などの哲学っぽさもありながらの散文、みたいなものがそれだと。そんなの芥川龍之介 vs 谷崎潤一郎の論争のままなんじゃないの、と思うと理解が浅いのだろうか。ともあれ、人間を書きましょう私は。もうそろそろ書けるだろ人間。なんて大見得を切っておいて撃沈したら恥ずかしいぜ。

 承前。エンタメのほうが向いているんじゃないの、と幾人かの先達にいわれたこともあり、過去エンタメを意識した三百四十枚ばかりの長編を書いたところ、これがもう落ちて落ちて。なんだったんだろうなあれ。おもしろいものを書けたという自負はあった。だがエンタメの賞ではあちこちで、三度一次落ちした。じゃあエンタメ向いてないんじゃないのって話。あるいはエンタメとして書けてなかったんじゃないのって。「人間とは」。それにはピンとくるもんがあるわけだよ。例えば大江健三郎を読んでたりすると発見するじゃないですか。小説の中に人間を見つける。そういうのが好きなんだったら私はやはり純文学をやるしかないんだろう。自分語りばかりで恐縮だが。芸術芸術。人間人間。

 花を活けている。花屋で一本だけ買ってきてそれを一輪挿しへ。こないだ買ってきたのは小さなひまわり、九九円だったんだけども、安いんだけども、まあなんともいえぬ輝きで部屋を彩ってくれました。そのひまわりがしおれてきてちょっと悲しい。また買わなきゃな。次は何を飾ろうかねえ。季節のものがいいのかね。そんでこの際なので花の名前を覚えていこうという気にもなってきている。図鑑が欲しいところ。花がわかったら町を歩くのも楽しいだろうな。カメラ持って歩いて撮るわけだよ、町角に咲く花を。楽しい。思うに、それは楽しい。

 小林愛実、ヨーヨー・マ、オーガスタ・マッキー・ロッジ、などなどを聴いている。そうしていてときどき思うのは、音楽を聴くことと小説を読むことと、本当はどちらが好きなのか、という自問。楽にやれるのは聴くことだ。多少しんどいのは読むことだ。だが楽かどうかが好きか嫌いかではない。普通のことをいえば、いい音楽を聴くのといい小説を読むのが好きだ。そういうものは常に求めている。単純に主観の問題なんで、いいもの、といっても自分にとってのいいもののことである。そればっか探し続けてきたからやっぱちょっと偏ったよね。もっと幅広くやらなきゃいけないんじゃないの金井さんは。

 四月も終わりが近く、読書のノルマをこなすべく必死こいております。書くことの比重を減らしたほうがいいんだろうなとは思う。断片は書くとしても手書きのあれこれはちょっと見直したい。半分にするとか。書くばっかりになってしまう。だいたいボールペンの替え芯が一ヶ月もたないんだからやりすぎだよな。修行になったと信じたいけど。でもどうなんだろー。雑文を書くことにはどんな効用があるのか。疲れ果ててまでやらんでもいいんじゃないのって話。金井さん悩む悩む。



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