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断片 天文学者

 部屋の机の前、パソコンの横に絵がかかっている。フェルメールの『天文学者』だ。いつか行った展覧会で買い求めた安いレプリカで、もう長いこと私と共にある。天球儀を見つめるこの老学者のように、私もまた自らの道を突き詰めたいものだ。この絵はひとつの教え、ひとつの導きである。どれだけ学んでも学び尽くせることはなく、ただひたすらの歩みを続けるだけだと語ってはいないか。このレプリカを買ったとき、人の生き方として描かれた学究への没頭、そういうものに憧れたのかもしれない。私は学者になりたかったのだ。

 この断片を載せるころ、コンサートが終わった翌日であろうそのときに、どれくらい余韻が残っているだろうか。コンサートは永遠には続かない。始まり、終わる。終演後に鼻歌まじりで帰るであろう私に、そのときなんの不幸もない。きっと心が生き返ったような気持ちで帰るのだろう。何も音楽がすべてではないが、すべてと引き替えにしてもいいと思えるような体験はしてみたい。そのためにコンサートに通い続けるのか。いや、通い続けるというほどには足を運んでいないが、いつも最高のものを期待してホールへ向かっている。では最高の音楽とは何か。神やそれに類する何かの気配を引き起こす音楽だ。私はかつて一度だけ、たった一台のピアノによってその気配を経験した。あのときばかりは個人的な不可知論を踏み越えたものだった。何かがあった。

 貯金を増やそうと思う。わずかばかりの収入からコツコツと貯めてみて、以前いい感じの額までいったのだったが、散財してまた貧しくなった。貯めるといってなんのためかというと、これはまず安心のためにといえる。いくらか預けてあればおたおたすることはない。カードの引き落とし日が近づいたとき、ヤバいよヤバいよ、これはヤバい本当にヤバいマジでヤバい、とならずに済む。カネの計画性を身につけなければならない。そうはいえ、貯めても欲しいものがあったら買ってしまうのだろう。いったい私の消費というのはキリがなく、煩悩なのか物欲なのか、カネというのを持てば使ってしまう性分だ。なかなか貯まらない。カネは使わなければ貯まりますよ、と、当たり前のことを先人はいったが、その当たり前のことがこんなにも難しく。

 バルビローリのモーツァルトを聴いた。モノラルの古い音源ながらうっとりとしてしまう美しさ。ドロドロに甘いかと思えば今度は弦がザクザク刻んでくる。こういうモーツァルトは聴いてこなかったなあ。惚れてしまう。ヤベェわバルビローリ。ボックスものなどがあったらまた買ってしまいそうだ。私はCDで貧乏になってるようなもので、なんだろう、ここまで突っ走る必要もないだろうに、買っては聴き、聴いては買って、まあ、道楽をたしなむようなことのひとつの形。この歳だ、趣味のひとつやふたつはあるもんで。だが節度は守らねば。音楽鑑賞は心を癒やして耕してくれるとは思うが、あまりそればかりではいけない。

 読書をもっと。まだ、もっともっと。これまで読んできた上でこれからも読んでいくのだ。この営為に終わりはない。ただ死によって断たれるのみである。読める本なら全部読んでいくくらいの心構えでいってみてはどう。せめて蔵書くらいはすべて読破してみてはどう。最近は、といってここ数日のこと、なかなか調子がよく、わりとサクサクと読みこなせてはいる。読まねばゆかれぬ道なのであるから、どんどん行こう。ここまで来てしまったらここからも行けばいいのだ。思うに、この人生はたぶんなんとでもなるだろう。



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