見出し画像

断片 愚かの罪

 行いや語ることにまつわる、ひとつの基準としてあるものが、それは賢いのか愚かなのか、といったジャッジだろうか。賢愚の両極、そしてその間にあるグラデーションとして多くの行いと語りがある。私にわからないのは、何が賢くて何が愚かなのか、その本質だ。好感をもたらせば賢いのか、嫌悪を抱かせれば愚かなのか。ジャッジはその程度のものか。賢愚について問うこと自体は、きっと罪があるほどに愚かなことだろう。私はそれでも問い直す。これはきっと正しさの度合いに関わること、大事なことと思うから。

 手書きでもキーボード入力でも文章を書いている。ことに最近はノリが出ている。書きたいだけ書いて何らかの手応えを感じる。何らかの手応えとはいったい何か。これはどうやら楽しいぞ、という感触だ。書くことが好きだとは思っていたが、これほどにも、首や目や手や肩や腰や足や尻を痛くしてでも書いているのは、もうよほど好きなことなのだろう。テレビゲームでいえば、親指が痛くなるほど十字キーを押し続けたことがある経験は巷にわりとあることだろうと思う。ちょうどそれくらいにまでハマっている、私のこうした雑文の書き散らし。

 世に許せないものがいくつかあるが、ひとつにはクチャラーの存在だ。口を閉じて咀嚼するという簡単なことがなぜできないのか。下品というよりも、同席している相手に対して礼を失したふるまいだと思うのだが、どうですか。自分の周りのクチャラーに悩む方々は、友よ、知恵ある友よ、いかにしてあれらクチャラーのクチャクチャをやめさせればいいか、共に考えよう。ぶん殴ってしまえば話は早いが、できればここは平和的な解決策を探りたいものだ。

 いまはもうない石丸電気三号店、懐かしい場所だ。ジャズとクラシックの専門店で、あの店舗がなくなってもう何年が過ぎたか。店の中にみっちりと配架されたディスクたち、その棚の佇まいをおぼろげに覚えている。いつかエンリコ・ガッティの音源を求めて入店し、店内を探しても見つからず、「ガッティを探してるんですが」と店員に尋ねれば、レジの奥の棚から指揮者ダニエレ・ガッティのものが数点出てきた。戸惑っていると「あ、エンリコのほうですね」といってさっとディスクを取りかえてみせた。彼のあの仕業は生半な知識ではできないことだったな、と思い出す。あの店で多くを教わりたかった。

 おととい一冊の本を読み終えた。難しい本ではないのに時間がかかった。これはなぜか。本にはそれぞれ読み方があるのだ。私の場合、ライトノベルを読むのに非常に苦労したことがあり、そのときなんとか読み終えられたのは途中で読み方を変えたからだった。簡単なことで、一般的なライトノベルは漫画のように読むと読める。なんというか、ひとつのセンテンスを漫画の一コマと見なして読んでいくのだ。単語の意味を吟味してはならない。単語について考えるのは哲学書の読み方である。ところでおととい読んだ本はとても有益であった。人間性を正そうとしてくれた、喝を入れてくれた一冊だった。こういうことがあるから本は読まねばならないのだ。



サポートありがとうございます!助かります。