『シルク』

  隣県に住んでいた折、同居人が猫を欲しがったので、ネットで引き取り手を探していた家に連絡を入れ、もらいに行った。

  晴れた日だった。電車を乗り継ぎつつその家まで行ってみると、工場と倉庫と家がくっついている形の、ひどく古びて見える建物があった。募集をかけた主婦に案内され、家の玄関を入るとすぐそこが居間で、毛羽立ったグリーンのカーペットがあり、老婆が座っていた。老婆の横にケージが置かれていて、その中に猫が、前脚を立てて座ってこちらを見ていた。
  小さなころは真っ白な毛色をしていた、ということからシルクと名づけられたその猫はシャムハーフで、いまの毛並みは白と黒のツートーンだ。脚の先が黒く、顔はたぬきを思わせるような愛嬌のある色合いだった。
「この子は遊ぶのが下手でねぇ。すぐに爪を立てちゃって」
  主婦はそういったが、一度も爪を切ってもらえていなかったことをあとで知った。
  部屋に日光が差したとき、シルクの瞳はアクアマリンのような淡いブルーに光った。

  もらいうけ、家に連れて帰った。最初は刺激を与えないように徐々に慣らしていった。夜に電気を消し、僕が布団に入ると、部屋の隅にいたシルクは恐る恐る家の中を歩いた。
  慣れてくるとこちらを見つめていたり、人に構わず家をうろつくようになった。食欲もある。トイレのしつけの必要もなかった。
  撫でようとして手をかざすとびくっと身構えた。虐待されていたのだと思う。前の家には小学生がいたという。切ってもらえない爪のある前脚で怪我をさせ、それで叩かれたといったところだろう。
  怖くないよ、といいながら、手を下から差し出した。今度は身構えなかった。ただ手を見ていた。
  爪を切ってやったり、いい餌を食べさせて、そうして世話をしているうちに懐いた。上から手を近づけても平気になり、撫でてやると目を細めた。あぐらをかいているとシルクも横に座る。なんだね、と訊いても、大きな瞳で見つめ返すだけだ。それから足の上に乗りにくる。そうなると十分や二十分はそのまま動かない。ノートパソコンでの作業をしたいところなのだが、こういうときは仕方なく乗せてやり、延々と撫で続けた。

  一年後、事情があり、同居人がシルクを引き取って越していった。
  パソコンの中に写真が一枚だけある。アクアマリンの瞳をこちらへ向けて、何かものを思うような風情だ。シルクは何を思っていただろうか。いま幸せか。覚えていることはあるか。僕はお前を覚えている。

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