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断片 惰眠の者
だいたいこうも寝ていると予定がこなせずに自ずから困る。寝まい、だが少し休む、として横になって結句寝るのだから、横になったが最後と心得たほうがよいのではないか。寝そべってはいかんのである。そういうときにはっと覚めて時計を見れば、いったい何を思うのかぼんやりしているが、どの道また枕に頭を預けることとなり、行くべきときに行くべき場所へ行けないという次第。人としてどうよって話。
アマゾンベーシックの品物の数々、悪くない。いまそのシリーズの、モレスキンのラージサイズを模したであろうハードカバーノートをまた使い出していて、こいつがまた捗る。日々思うこと、コメント、雑記を書いている。一ページに三ブロック、これを六ページ、というペース。いま私は書きたいのだった。読むことがあまりできないときは書くしかない。たぶん頭のキャパシティがいっぱいで、それを吐き出すために書くタイミングなのだ。
スコット・ロス。若くして死んだが、ものすごい仕事を残していった。チェンバロを弾かせてこれ以上の人は寡聞にして知らない。バッハの作品集、十一枚組みのをもうすぐ聴き終わる。これが終わったらいよいよ総本山、スカルラッティの全集に挑もう。三十枚オーバーのそのボックス、やや大変だし怖ろしいのだが、それを享受することはとても豊かな体験となろう。チェンバロはときに退屈な楽器なのだが、ロスの手にかかればこんなにも滋味溢れる音楽となる。
リベラルアーツは大切だ。ことさら教養だ教養だとも思わぬが、ものを知らなければお話にならない場合がしばしばある。私の愚かな経験からもそれはいえる。絵画、映画、音楽、文学、諸学術、その他もろもろの、人間の営為としてこの世に出現したものをより多く知っていくことは、たぶんこの世界を知ることに直結している。そこに知性は宿る。ものを知ることをひけらかすわけではなく、かといってただの自己満足ともいい切れず、知性とはこの世界を味わうための手段のひとつなのだろうーーまたは歩くための力。やがては誰かのための力。
どうもここ一年ほど、いや二年ほどかもしれないが、死の予感のようなものにふれることが多い。なにも危険な目に遭ったとかではなく、ああ、これが人生が終わるときの気持ちか、などという、いわば気分や感覚程度のものとして立ち現れる茫漠とした何か。この先の命は私にはないのだという意識が、なぜか、ときどき感じられる。ここまでだという終わりの合図、なかなかに残酷で冷たいものだ。どうせ死なないだろうに合図はある。
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