アドラーと一緒に考える発達障害 No1
アドラー心理学も発達障害もここ十数年にわたって世間で話題になっているように思います。
もちろん、アドラー心理学は、嫌われる勇気という書籍が出版されベストセラーになってからより認知度が上がったし、恥ずかしながら私もそれで強く興味を持ったといっても過言ではありません。そちらは別途マガジンを書いています。
そして、発達障害は、今、私が働く精神科領域、児童福祉領域では現在もキーワードであるし、かつて働いていた学校領域ではキーワードどころかマジックワード化していました。
このマガジンのテーマ
今日立ち上げたマガジンは、アドラーが”発達障害”といわれた子を見たら何と言うだろうか?どのように支援するだろうか?という問題意識から文章を書いていこうかと思います。
でも…、それは表向きのテーマであり、本音は、私が見ている発達障害と呼ばれている子どもたち(主に子どもで、大人の方もいらっしゃいます)についてアドラーの力を借りてしっかりと整理して考え直したいのです。
ですので、テーマは、「アドラーと一緒に考える発達障害」です。アドラー先生、勝手にすみません。
アドラーは発達障害をどう定義するのか
まず、アドラーは、発達障害についてこう定義づけると思います。
「ただの言葉です」と。
アドラーの人間観は、存在に価値があるという所だと思います。発達障害と言われる子ども達は様々な行動をします。ある一定の法則を持っていて、徹底してその法則通りに行動したり(こだわりというやつです)、その法則通りの行動が上手くできなくてパニックになってみたり、あるいは、人と目を合わせることを極端に拒んだり。そういった、行動の特徴で彼らを見てしまいがちです。
しかし、アドラーは言うでしょう。「行動のレベルではなく、存在のレベルで見ていきましょう」と。私もそう思います。
同じではないけれど対等
私には苦い思い出があります。
特別支援学級でアルバイトをしていた頃の話。当時”自閉性障害”と診断された小学4年生のA君の担当だったのですが、その子の行動ばかりを見ていました。行動に対してどう支援するかばかり。するとどうしたことかその子との相性が最悪になってしまったのです。結局担当を外れることになったのです。
まずは、その子の存在をそれ自体を喜び、感謝の言葉をかけていく。その言葉の重みを身に染みて感じます。行動ばかりを見て、まったくA君の存在を見ていなかった自分を振り返ります。
まずは、同じではないけど対等、横の関係としてその子を見ることが必要です。
立場を越えて
そしてアドラーは言うでしょう。「わたしはわたし、あなたはあなた、その意味において同じです」と。
もし、あなたが発達障害といわれた子と相対した時、どのような立場で接しますか?
先ほどの学生時代の私は、A君を介助するアルバイトの学生としての立場で接していました。”介助をする人”とか”アルバイトの人”という立場で接していたので、彼と対等、横の関係を築けなかったのでしょう。そう…
より大きな共同体の声を聴け
ですね。今いる立場や共同体に捉われず、より大きな共同体の声を聴くことで、今、目の前にいる、そのひとと対等になり、横の関係を結べる。
まずは、その辺りがスタートでしょうか。