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寿司雑記


3年間、コロナ禍もあり遠慮していた水泳を再開した。
週に2回、1時間程の水中ウォーキングと遊泳なのだが体力が落ちていることが顕著に解る。何より競泳用の水着が以前より窮屈になっていることに落ち込む。午前中、15分程歩いて区民プールへ向かい、1時間泳いだ後は花屋に寄り一輪挿し用の花を買う。八百屋に寄って少し買い物をして、豆腐屋で木綿豆腐を買う。天気がいい時はスーパーで焼売弁当を買い、帰宅途中にある公園で弁当を食べ、また15分歩いて帰宅する。この一連の時間、2時間程の何も考えない時間が3年前に比べとても贅沢に感じている。
閑散としているものの色々な商店が並ぶ通りを抜け、閑静な住宅街を歩きながらどこかのお宅から漏れ聞こえてくるテレビの音。保育園、言葉ともつかない奇声の大合唱。工事中、重機を操作する音。井戸端会議に花が咲く奥様達のお喋り。そういった日々の物音が歩きながら目につき、耳に入ってくる度、振り返ったり立ち止まったりしながら歩いているだけの時間、ふと鼻歌をうたっている。時折「あれ、今のいいメロディだったな」と思うのだが、次の瞬間には忘れてしまう。3年前の私はこう言う時、携帯のボイスメモをすぐに取り出して録音していたのだが、そういうこともしなくなった。


昨日。
某ラジオ番組にゲスト出演していたミュージシャンが
「曲は常に降りてくるものなので(曲ができないといって)困ることはない」と話していた。まぁ、インスピレーションが常に湧くということなのだろうが、きっとこのミュージシャンは“そういう状態”を常に保持しているんだろう。自分がどういう状態であれば曲の源が生まれるのかを解っているんだろう。日々、作業をしながら今日も何もできなかったと言っている私の様な凡人にも時々そういう状態が訪れることがあるが、こちらの雑念が瞬時に邪魔をして「あれ?なんだけか……」独り言で終わるのが常である。
仕方ない。毎日少しずつ、新しいことを憶えながら地味な作業を繰り返すことでしか到達できない小さな山を見上げてばかりいる。


ここ数日、昼間は窓を開け雑用、作業などしていると、我が家の斜め前で工事をしている現場から「オーライ!オーライ!」と聞こえてくる。この声が野原しんのすけで全く集中できない。正しくは初代、野原しんのすけ声優の矢島晶子氏の声なのだが、余りにソックリでつい聞き耳を立ててしまう。
「おーい、昼飯食べたのかぁ?」「アハハ!そぉうなんだよねぇ」もう、野原しんのすけが働いている姿しか想像できなくなり、全く何も手に付かない。どう言う人か見てやろうと野次馬根性が抑えきれずついさっき、見に行った。工事現場の前を通ると4人の男達が昼飯を食べた後なのか、昼寝をする者、携帯をいじっている者、一服している者、最後の一人は週刊誌を読んでいる。誰も一言も発さないので暫くうろうろしていると携帯をいじっている者と目があったので「ご苦労様です〜」と話しかけてみたが一瞥されただけで終わり、もどかしい。仕方ない明日もう一度通ってみようと思い踵を返し暫くすると「そぉ〜なんだよぉ!」と野原しんのすけの声。あぁ、ここで走って戻ることほど怪しいことはない。悔しい。
見たい見たい、欲しい欲しい。思えば思うほど近付いてこない。こちらに準備、物心がついていない時ほど驚いたり嬉々とする物事が訪れる。
生きているうちはずっと、“何か”に試されながら暮らしているような気がしてくる。


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