と或る日の日記より③毒親を「捨て」れば
そして、ただ隣にいてくれた夫。
もちろん、経済的なサポートは大変ありがたいけれど、私のハード面、ソフト面、どちらの面に対しても、そのままを受け止め、受け入れ、尊重してくれていた。
私から愛を持ち出そうということもせず、
認めてもらおうということもせず、
かといって過剰に与えるでもなく、
今中、中庸、真ん中、をただ静かになぞるように。
どちらに強く振れることもせず、
いつも穏やかに、
ただそこに存在していた。
これは無条件の愛?
悟(夫の名)=さとる=差取る。
差を取って真ん中の本来人間が存在するべき場に居続けてきた人。
その姿は身仏のようだ。
こんな風に表現していいものかどうかはわからないけど、夫の本質には、仏様の中庸の道があった。
お釈迦様の中道!!
それが、夫の本質には流れている。
その部分に触れている時、非常に心地よい。
そして魅惑的でもある。
そのように感じられるのは、私もまた中道にいるからだ。
中道から外れている時、夫に対してチクチクとした感情が芽生えたり、
物足りなさを感じたり、
私が中道から外れているにも関わらず、中道にいる夫を責めていたのだ。
以上、日記より。
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地域コミュニティを立ち上げたいと3人で集まったら、私の生き方自体を見直す必要性を感じ、また、現在の自分を否定して、もがき苦しんだ。
しかし、まさか、それがきっかけで、
こんなにも奥深いところにいきつくとは。
見えなくしていたのは自分だけれども、
見える部分が増えてよかった。
いつもイライラ不機嫌で、
家族に当たり散らかしていた印象の母。
もっとこうして欲しかった、
なんであんなことされたのか、
もっと幸せに生きて欲しい、
恨みと愛が混在し、
いつからか「毒親」という言葉を
当てはめるようになった。
同題材の本を読んで、
私はまだマシな方だなと思ったり、
毒親じゃないかもなと思ったりしたけれど、
私の思い通りにならない人生を母のせいにして
「毒親」だと思い込みたかった。
しかし、母に対する自分の想いばかりを見てきたせいで、母側の想いに全く気づかなかった。
先述したように、母が望まないことを一生懸命送り続けて、見返りをもらえなかったと心を閉ざしていたのだ。
途轍もない思い込み。
毒親などという観念を捨て、
起きた出来事の本質を眺めることで、
大変な気づきと学びが押し寄せてくる。
そして、足枷がはずれて、
本来の自由な自分を生きる道へと
進むことができるのだ。
大爽快である。
中道と中庸には違いがあるようで、その叡智を深めることにより、この世の真理をさらに追求してみたくなった。
また、「ありのままの自分でいい」ということを、すぐそばで夫が体現し、夫の在り方を通して知ったこと。既に、ありのままを受け止めてもらえていたこと。
それによって、私は私の捉え方が変わっていきそうだ。
今回のいろいろによって、私はありのままの私を認めて、そのままを愛することができそうだ。
たまには、見て!見てー!になってもいいけれど、私は私から溢れ出したエネルギーをこの世に還元していきたい。
おしまい。