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【教養】としての、戦前・戦中・戦後 基礎知識④

皆さまこんばんは。1976newroseです。

連休明けの本日、大変暑い一日でしたね。体調を崩されませんよう…

いったい誰に向けて書いているのかわからない、こんなニッチな記事ですが、毎日予想以上の方々に読んでいただいているようです。ありがとうございます。

さて前回まで、政治が軍部を統制できないという制度的欠陥を抱えたまま・中国大陸での権益をめぐって戦争を繰り返し・太平洋戦争であのような敗戦を迎えた大日本帝国の姿を概説してまいりました。

本パートからは、私が本当に描きたかったテーマ

「大日本帝国時代の反省は、現代日本でどのように活きているか?」

を描写してゆきたいと思います。


「戦争について考える」「過去を反省し、未来へ活かす」といった言葉はこの国に溢れています。
しかし「どのように考え」「未来に活かすのか」、まで具体的に説明している稿はほとんどないように思われます。

皆さん、この状況について、奇妙に思われませんでしょうか?

今や、あらゆる媒体で、あらゆる優秀な方々が、明晰かつ論理的な表現で自分の考えを他者に伝える時代です。

論理的な明快さは他者の理解を促し、共感を生みますから、こうした「論理化」の傾向は今後も一層強まるでしょう。

にもかかわらず、大日本帝国が経験した過ちを「どのように」現在に活かすのかーこんなに明快なテーマについて論理的に説明した文章は、本当に限られているように見受けられます。

(その原因は、ひとえに戦争だけが持つ哲学上の特徴に由来すると私は考えております。しかし、そのお話はまた別の機会にさせていただければと存じます。)

話を戻します。

「大日本帝国時代の反省は、現代日本でどのように活きているか?」

この問いに対する、私の結論はこうです。

「大日本帝国時代の反省は、リベラル国家群の一員となった日本の国家戦略に十分活かされている」

この結論に至る思考プロセスを、できるだけわかりやすくご説明したいと思います。

しばしおつきあいください。


★1945年8月15日以降の日本

戦後日本がどのような国家であるか、実際にこの国に暮らす皆さんはよくご存じと思います。
そのため、ここでは敗戦から現代までの日本で起こった重要イベントを列記するにとどめます。

日本が、米国を中心とした西側自由民主主義国家として再スタートを切り、再び大国へと成長してゆくまでをざっくりみていきましょう。

●1945年9月:帝国は連合国との休戦協定に調印。

●46年11月:大日本帝国憲法を改正する形で、日本国憲法発布。翌年5月に発効、我が国は大日本帝国から日本国へ。

【ポイント】終戦後、モノ不足から日本ではしばらく深刻なインフレ不況に陥りました。また米国を中心とするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設置され、日本は軍政下におかれました。

●50年6月:朝鮮戦争勃発。日本が後方支援基地としてにわかに活気づき、好景気・日本再軍備のきっかけとなる。

●51年:サンフランシスコ平和条約締結により、正式に終戦。同時に日米安保条約締結。

【ポイント】当初、GHQの占領政策は日本の再軍備を抑制し、自由民主主義的な国家へと生まれ変わらせることに主眼が置かれていました。

しかし、世界の構造が東西冷戦へと急速に移り変わる中、日本は米国の極東戦略の一部を担う、西側先進国としての一歩を歩み始めました。

なおサンフランシスコ平和条約には、ソ連・中華民国は署名しておりません。東側陣営の雄であった両国との国交正常化は、もう少し後になってから実現します。

●54年:警察予備隊(のちの自衛隊)発足。事実上の再軍備開始。

●56年:ソ連と共同宣言調印。同年の経済白書に「もはや戦後ではない」の表現が登場、日本は高度経済成長期に突入。

●60年:日米新安保条約調印。国内の保守派と革新派の間に、国論を大きく分ける論争起こる。

【ポイント】日本の戦後復興は、同じ敗戦国のドイツと比較すると、以下の2点で誠に恵まれていたといえるでしょう。

①東西陣営により国土を分割されることなく、西側国家としての安定的な地位を占めることができた。

→国土の均質的で自由民主主義的な発展に結びついた。

②ソ連・中国のような大陸軍国の脅威に陸続きでさらされず、米国の核の傘の下、もっぱら国内の復興に注力できた。

●72年:沖縄返還、しかし米軍基地は残された。

●同年:中華人民共和国との共同声明調印。国交正常化。

【ポイント】15年以上にわたった高度経済成長も、原油価格が暴騰したオイルショック等の影響を受け、70年台前半には終わりを迎えます。
外交では、それまで米国の施政権下にあった沖縄が日本に返還され、また、中華人民共和国と国交を正常化し、代わりに戦後から続いてきた台湾との国交を断ちました。

●86年〜91年:バブル景気
証券・不動産市場を中心に投機マネーが流れ込み、日本経済は空前のバブル景気に突入。しかし、地価暴落によってバブルも崩壊。日本は「失われた30年」と呼ばれる低成長期に突入。

【ポイント】1970~80年代の日本は、優秀な製造業や国家の実力以上に割安な日本円に支えられ、世界第2位の経済大国へと踊り出ます。

しかし、優秀な日本製品に国内製造業の雇用を脅かされた米国では、対日貿易強硬策が繰り返しとられます。いわゆる「ジャパン・バッシング」です。

米国の要求は、大きく分けて以下の2点に分類できます。

①円安ドル高の是正。

→円安ドル高の状態では、以下の例のように、外国製品が相対的に割安となるため、外国の輸出企業が儲かります。

【例】

1ドル=100円のレートの場合。

りんご1個が日本円で100円、米ドルで1ドルとすると、米国内で販売されるりんごは、両方とも1個1ドルとなります。

しかし、1ドル=500円の、円安ドル高レートの場合。

りんご1個が日本円で100円、米ドルで1ドルとしても、米国内で販売されるりんごは、米国産は1ドル、日本産は100円=0.2ドルとなります。そのため、ドル高相場では相対的に米国内の産業が不利となるのです。

割安で優秀な日本製品の挑戦を受けた米国内の製造業は軒並み停滞します。米国はこの是正のためにドル高状態を脱しようとしたのです。

②日本市場の開放。

当時の日本は、資本規制や輸入規制が厳しく、米国はこの点を不平等だとして強く攻撃します。



しかしながら、このような構図、皆さまどこかで見覚えがございませんか?

そうです。あたかも現在進行中の、米中貿易戦争にそっくりですよね。

実際、中国共産党は、日米貿易摩擦を詳細に研究し、自国の貿易戦争の重要参考事例として活用しているようです。


以上、日本が米国を中心とした西側自由民主主義国家として再スタートを切り、再び大国へと成長してゆくまでの過程をご理解いただけましたでしょうか。


いよいよ次回からは、米国の世界戦略を軸に、

「大日本帝国時代の反省は、現代日本でどのように活きているか?」

について描写してゆきたいと思います。

どうぞご期待ください。


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