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【終戦記念日】に押さえたい、戦前・戦中・戦後についての基礎知識②

皆さまおはようございます。1976newroseです。
今日は朝から愛知県護国神社に参拝に行ってまいりました。人も少なく、厳かな雰囲気で良かったです。先人たちにゆっくり想いを馳せることができました。

さて前回のつづき、

満州事変から太平洋戦争敗戦まで、帝国がどのように崩壊への道をたどったのかを追っていきたいと思います。

満州事変では、いよいよ軍部…正確には満州に駐屯する出先部隊の「関東軍」による、独断専行の兆しが強くなっていきます。

●1931年:満州事変「満州で抗日運動が盛んになり、地元の軍閥もまったくいうことを聞かない…中国国民党から攻撃を受けたことにして、満州を軍事占領してしまおう」→【軍事的には大勝、国内的には軍部が増長、国際的には孤立】関東軍は、政府の不拡大方針を無視して満州全土を占領。日本の傀儡国家である満州国を建国しました。
しかし、満州国は国際連盟で承認されず、これを不服とした日本は連盟を脱退。
国内では、関東軍の暴走をとめられなかったことで若槻内閣が総辞職し、満州国を承認しない後任の犬養首相が海軍将校に暗殺されるなど、政治から軍部への圧力が急速に高まっていきます。

●1937年:日中戦争「中国側から攻撃を受けた!断固抗戦し、中国国民党を日本の勢力圏から追い払うべし!」→【戦線の際限なき拡大】上海、南京、徐州、漢口、広東…と連戦連勝の日本軍でしたが、広すぎる大陸ではどれだけ追いかけても敵は逃げてしまうため、主力軍を包囲撃滅することができません。
また、戦線が拡大する過程で米国を中心とする欧米各国が、日本に対する不信感を募らせていきます。

★こうして帝国は、政治的に有効な手段を打ち出せないままに中国戦線を拡大しつづけ、英米を中心とする欧米と対立を深めます。
帝国経済は、ABCD包囲網(=米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼ばれる経済的包囲網にじりじりと圧迫されるようになり、ついに1940年、米国は対日石油輸出の禁止措置を断行します。
あらゆる産業の根源的な資源である石油が手に入らなくなったのです。日本の自業自得な面ももちろん否めないわけですが、その切迫感、焦燥感は現代の私たちにも理解できるものだと思います。

★もう一点、当時の日本国内の雰囲気を掴むために重要なのが、欧州で始まった第二次世界大戦の推移です。
1939年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、ついで仏国全土を制圧し、英国本土まで軍事的圧迫を強めます。

こうした情勢を受け、1940年にはあの有名な日独伊三国同盟が形成され、帝国はますます世界からの孤立を強めます。
1941年初夏になると、対英戦に行き詰まった独は、不可侵条約を破ってソビエト・ロシアとの戦争も開始します。

日本近代史を理解するとき、1939〜42年頃の独軍の無敵っぷりは無視することができません。
日本と対立する英仏蘭は、ドイツ軍の大攻勢を前に軒並み虫の息でしたし、帝国陸軍が創建以来の仮想敵としてきたロシアも、いまや首都モスクワから数十キロの地点までドイツ軍に迫られ、瀕死の状態だったからです。

●1940〜41年:仏印進駐「欧米が東南アジアから国民党を援助するせいで、国民党軍がなかなか屈服しない…仏印(フランス領インドシナ。現在のラオス・カンボジア・ベトナムにあたります)と現地協定を結んで、北部を強迫的に奪い取るぞ」→【当初の現地協定合意を超えて、南部仏印までなし崩し的に戦線拡大。対米関係の決定的悪化】

※仏印進駐は、ウィキペディアによくまとまっており、大変読み応えがあります。

またしても長くなってしまいました…。

このように、帝国の戦略は中国大陸における状況に常に影響を受けつづけたものだったことがお分かりいただけると思います。

次回、太平洋戦争をメインに敗戦まで追いかけるつもりです。
よろしければ、どうぞお付き合いください。


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