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横田めぐみさんの父、滋さん死去

こんばんは。今日もお疲れ様です。

一昨日、書こうと思った題材が2つ重なり、一つは今日書こうとおもったのですが、先程下記のニュースが飛び込んできたので、この話を先に書きます。

誰しもが、さぞかし無念であったろうと思ったことでしょう。私もです。

心から、お悔やみ申し上げます。

上の画像は、月下美人です。夜に開き、朝にはしぼんでしまいます。儚い花です。

10年程前、参議院議員会館勤務の頃、会館前の道で、奥様の早紀江さんと一緒に議事堂方向に向かわれるのに出くわしたことがあります。その日も、支援する国会議員との面談があったのでしょう。見かけてすぐにお二人と気づきましたが、向こうは当然私なんか知らない訳で、お言葉をおかけするのもためらいました。今にして思えば、「頑張ってください」と声がけすべきであったと後悔しています。当時は東日本大震災直後で、その言葉は一般的にタブーでした。

支援する国会議員と言えば、総理大臣現職時代に唯一北朝鮮を訪問した小泉純一郎も衆議院議員は引退していますし、その後の頼りの綱だったアントニオ猪木参議院議員も再立候補せず、昨年引退してしまいました。

Wikipediaには、猪木議員がフリーハンドで訪朝できる唯一の日本の国会議員としての活躍の記述がありませんが、1990年のイラクでの日本人人質解放では、猪木議員が一人で頑張って解放に導いた経緯が記述されています。

長文ですが引用します。

イラク在留邦人人質解放までの真相
1990年(平成2年)湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうということを決断する。
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否。すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。
1990年(平成2年)11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。
1990年(平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。

この行動力と突破力。家族会にとっても、猪木議員は希望の星であったことでしょう。

現在でも、与野党含む超党派の国会議員で結成される拉致議連は存続していますし、内閣にも「内閣府特命担当大臣(拉致問題担当)」という役職がおかれており、現在は菅義偉官房長官が兼務しています。引き続き、結果を出す方向で頑張って欲しいものです。

横田滋さんに話を戻します。横田滋さん、もし自分が就職先に選んだのが日本銀行でなかったら、そしてもし新潟支店に異動していなかったら、めぐみさんは拉致されていなかったかも知れないと思うと、さぞかし断腸の思いだったことでしょう。

(6/6追記)
荒井聡衆議院議員の、今朝のFacebook投稿をアップします。

これも長文になりますが、全文引用します。

とうとう横田滋さんが亡くなられた
札幌南高の大先輩、滋さんの父上は札幌南校の教頭先生だった。
子沢山の教頭先生、子供たちの全てを大学に進学させる事が出来なく、滋さんは高校卒業後札幌にある日銀支店に就職した。
滋さんは、とても優秀だった。普通は人事は北海道のみの職場異動が普通だったが、優秀さ故に全国人事に抜擢された。京都日銀支店に移動、そこで京都支店でも才媛として多くの男性から羨望されていた早紀江さんを射止める。
そして運命の新潟支店への転勤。
そこで北朝鮮の拉致被害に遭う。
はじめは数々の政治家にそして政府に北朝鮮からの帰国を働きかけるが効果なし。拉致そのものを当時の日本政府も政党も認めなかった。
滋さんは意を決して、街頭に立ち拉致の存在を訴える。
奥様は、はじめ反対されたそうだ。反拉致運動を起こせば、それが北朝鮮の知る所となり、めぐみさんに危害が及ぶかもしれないと危惧したのだ。その時滋さんの早紀江さんを説得した言葉。「めぐみの救出に日本政府も、日本の政治家も助けてくれない。ならば自分たち親が立ち上がらなければ」。街頭に立ち署名活動と演説を始めた。政治活動も市民運動もしたことのなかった横田夫妻は2人で街頭に立った。
その話は札幌南高の東京同窓会に伝わります。街頭の署名活動に同窓会の友人達が1人、2人と一緒します。私も親友の広田くん、東京同窓会の細野君たちと、この運動を支援拡大に努めた。
しかしこの動きはなかなか政府を動かすことが出来なかった。日本国内には韓国、北朝鮮系の勢力がそれぞれ存在感を発揮していたのだが、拉致そのものを認めていなかった。
 それを一機にブレークスルーをしたのが小泉総理だった。北朝鮮に乗り込みトップ会談で拉致を認めさせ、拉致家族を連れ戻して来るのだ。しかしこの時、日本政府の大きな決断があった。当時の北朝鮮政府との取り決めでは、「一時帰国であって、早晩北朝鮮に再帰国させる。その後北朝鮮との国交の条約を締結する。国交樹立ご両国の往来を認める」と言うものだった。
 しかし当時の安倍官房副長官が、外務省田中審議官の意見を振り切って、帰国した拉致家族を北朝鮮に帰還させず、北朝鮮との約束を反故にする。安倍さんは国民的英雄となるが、せっかくの北朝鮮公式パイプは断たれる。田中審議官はその責任をとる形で外務省を去る。拉致家族帰還運動は、安倍さんの政治的手段として存在感を増していく。しかし現実には拉致者の帰国は遅々として進まなかった。拉致運動の象徴であった、めぐみさんの帰国も叶わなかった。北朝鮮からは死亡説が流されるが、アンダーグラウンドでは生存説も根強かった。北朝鮮から送られた遺骨はその後D N A鑑定で別人だと判明する。
6年前滋さん夫妻は、めぐみさんの娘とされるキム、ウンギョさん一家とモンゴールで内々面会する。
直後に私のパーティに来てくれた横田さんは、嬉しそうに「ウンギョさんは恵にそっくりだった、ひ孫にも遭うことが出来た」と話してくれた。
 拉致家族問題は、北朝鮮との国交条約を結ぶ事なくして抜本的解決は出来ないだろう。そのため日本総理が北朝鮮に直接乗り込み、国交条約を結ぶしかない。安倍総理からのその趣旨の発信はなされているが、今度は北朝鮮側が安倍総理を相手にしない。膠着状態が続く。そんななかでの滋さんの死去である。残念で悔しい思いだ。
 どうぞ安らかにお眠りください
あなたの意志は、私達に突き付けられた鋭い刃でもありました。「政府も政治家もやってくれないのなら、私達がやるしか無い。」
あなたはやり続けました、不甲斐ない政府と政治家に代わって
そして政治も政府も変わりつつありました。
もう少しの所まで来てました。
これから先は天国で見ていてください。

くれぐれもご冥福をお祈りします、ではいけませんね。見ていてください、と言わなくては。

では、また明日。



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