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【小説】水族館オリジン 9

chapter IX: ご馳走

横読みってわかります?こういう風に呼ぶのが正しいかどうか不安が残りますが、1つのテーマを追いかけて『横に』、分野を横断して本を読むことを私はそう呼んでいます。

高校生になって英語の勉強は90%は単語の理解だってことがわかったときこの横読みを始めました。まあ必要に迫られてなんですけど。
英語は当たり前の教養というかスキルですが、英語の勉強をしなければ知りえなかった日本語の世界、そういうものがあるような気がします。

たとえば、英語で知らない単語を英和辞書で調べます。すると説明してくれているんだけど、そこに出てくる言葉の意味がわからない。

ほら、辞書の言葉って、簡潔に伝えてくれているけれど文語調の難しい言葉があったりするでしょ。
それを知るために、次は国語辞典をひくんです。
そうするとこんどは出てくる漢字が読めない。それを調べるため漢和辞典をひらきます。
まずは見開きの、部首の一覧から初めて見るの漢字の部品を捜索します。
なぜガンダレと呼ぶのか、
どうしてレンガなんておしゃれな名前なのか、
私の頭には象形文字のような部首に、いろんな疑問が起こります。
ムクムク、ムクムク
そんなことをやっているうちに小一時間あっというまに過ぎてしまう。

しらない人がみれば、勉強に集中していて感心、という風に見えるでしょう。

でも、たった一つの単語から
広辞苑、挙句の果てに世界年表、
『祭事の歴史』なんて専門書ところまで脳みそ上を下にの大騒ぎです。作業は、とても深くて遠回りです。

そのせいで机に向かっている時間のわりには、私の英語の成績ははよくありませんでした。

でもこの横読みの時間は至福の時間でした。
文字の森の迷路をまよい、新しい言葉を知り、言葉が広げた未知の世界をフラフラ散歩する。そりゃあもう楽しくて仕方なかったのです。

実は、先日のおはなしかいでボランティアさんが言っていた人魚のことが気になっていました。それで、この方法で日本の人魚伝説について書かれた古い資料をさがしました。

アンデルセンの人魚姫はよく知られていますが、日本の人魚はあんまり聞かないし、なんだか暗くて申し訳ない生き物のような匂いがします。

本は売るほどあります。
調べてみようってことになりました。
民話や伝説の研究には、狭い島国日本に共通の知識や常識があって、
そのお話がおしなべて指している方向性というのがあるんじゃないでしょうか。
全体を捉えるのは難しいけれど、横読みをしているうちになんか傾向みたいのが自分なりにつかめる気がしました。だってほら、わからなくなったら、またそれを別の本に教えてもらえばいいのですから。

方法はそんなふうにして。
さて昔話には、ボランティアさんが言ったように鶴やたぬきやむじなが人に化けて、人里に現れる話がたくさんあります。そしてそれはたいてい山深い村が舞台。わたしが住んでいるような海辺の村の話が出てくるのは浦島太郎しか見受けません。鶴やたぬきに代わる動物はいないか考えました。それから人魚の登場する昔話も調べました。

すると、ありました。
不老不死の女性、八百比丘尼という方です。やおびくにと読みます。
八百年生きて、即身仏になった尼さんです。
八百年というのが本当かどうかわかりませんが、生きたまま土の中やお洞に入り、
命がなくなるまで絶食し生きたまま仏様になることを即身仏といいます。
西のお寺にそのとき籠もったという洞穴が残っているので、実在らしいです。

八百比丘尼は、人魚の肉と知らずに食べて不老不死になったといわれています。
庚申講の夜、男たちは見知らぬ男に誘われて、ある場所で開かれた宴会に行きます。庚申講というのは、人の体に住む悪い虫が60日に一度天の帝に悪事を報告する日。報告させないために一晩中宴会すること。そこでふるまわれたのが人魚の肉。
宴会の最中、廁に立った一人が、魚の体をした子供がまさに料理されようとしているところを見てしまいます。気持ち悪いものを見た男は肉は食べないほうがいいと仲間に忠告し、それを聞いた男たちは丁重に料理を断りました。しかし宴会を開いた見知らぬ男は、貴重な肉だから是非、と男たちに土産物にもたせます。
目隠して元の浜に戻された男たちは、気味わるがって肉を海に捨てました。しかし一人だけそのまま持ち帰っり、間違って肉をたべたその家の娘は不老不死になってしまいました。
なんども婿をとりますが、娘は人魚の肉を食べた時の十五、六の見た目のまま歳を取らず、婿は歳をとって死ぬばかり。娘は八百年死ぬことなく生き続たといいます。あるときから、彼女は西の土地を巡って、椿の木を海岸線に沿って植えるようになりました。その椿の林は、神聖な林として大切にされているそうです。最後には即身仏となって命を全うしました。

不老不死は理想でしょうか。
歳を取らない、死なない。
死ぬことは文化なのだと読んだ本にはありました。人が動かなくなる、喋らない、息をしない。死自体にはあまり意味はなく、死をどう扱うかが文化なのだそうです。

終わりがあるから、生きていられるのかもしれません。八百比丘尼はどんな気持ちだったでしょうか。大好きな人とずっと生きていられるのはうれしいことです。それに最期まで子供達の面倒を見てあげられるのもそうでしょう。でも大好きな人たちにお別れしながらもなんども別の人と結婚し、子供を作り、そしてその人たちを見送るなんて、私なら心が壊れてしまいます。

亀は万年生きると言いますが、亀の命をもらったらそんな感じなのでしょうか。
亀はずっとそんなふうに、短命な他の生き物たちと共存しているのでしょうか。

民話の結末はいつも悲しいです。
八百比丘尼も歳を取らないのを喜んでいませんでした。
これが教訓を伝えるための逸話だとしたら、どこに言いたいことがあるのか考えましたが、人魚とか、見知らぬ男とか、知らない場所の宴会とか謎だらけでわかりません。
本当だとしても、作り話だとしても、どうしてそんな悲しいお話が必要だったのかとも考えました。

わたしの村は外海にむかって開けていますが、日常の生活圏としてはとても閉鎖的です。それだけ助け合いが行き届いていますが、共同体から逸脱していては暮らしてゆけません。結婚、出産、弔い、村の祭事の循環に乗れなければ、同調も協調もなく不幸です。村の中に住んでいながらたった一人でいるのと同じです。

人魚のことを知りたかったのに、八百比丘尼が食べた人魚がどこからきたのか、
人魚がどんな存在だったか、そのことに触れた本には行き当たりませんでした。
人魚自体の存在を納得がいく形で説明してくれる記録やお話を見つけることはできませんでした。人魚は、深くて、数多の命を育む海、隣の陸地も見えないほど広い海から流れ着いた人、海から来た、私たちと共通の何かを持っているけれど得体のわからない存在。海への憧憬や尊敬、もしかしたら、海それ自体を具象化した地域の象徴なのかもしれない。そんなふうに思えて仕方ありません。

自分にも人魚の血が流れているのかも知れない、と夢みたいなことを考えていたのに残念です。でも、これで私の祖先には異国の血があったと正式に考えることにしました。私の血に緑の目の遺伝子を注いでくれた人。その外海からやって来た人を受け入れてくれた人たちに、とても強い縁と恩を感じました。だって、庚申講がひらかれ住人たちがとても強く結束していた時代に、私の祖先を村に受け入れるのは、とても難しいことだったと思うのです。緑の目も死なない体も普通じゃないし、村八分にされても仕方ありませんから。

いま、私が住む集落はみな仲良しです。
昔はどうだったかわかりません。
でも、その頃があったから、
緑の目の人を愛した牡蠣屋の娘がいたから、
私がいるのです。
死は文化。
八百比丘尼の目は黒くて、見た目も普通だったでしょう。いいえむしろ美しかったはず。
死ねない体は、村の文化からは逸脱です。それは悲しいでしょう?
緑目の方が死ねないよりずっといい、と私は思います。

掃きだしのサッシの前に寝転んで民族史の薄い冊子を何冊も広げて読んでいました。
涼しい風がふいて、見上げるとお日様が西に傾いて、
空を赤く染めていました。
半袖の崇くんが職場の軽トラで帰って来ました。
部屋に上がらず、アパートの庭にそのままやってきて、
イカの干物を持ったままこっちに手をふりました。

「今晩、これで一杯どうですか?」

大歓迎でーす

時計を見るともうすぐ7時。
人魚に夢中のあまり晩御飯の支度をわすれていました。
明日は休館日。酒の肴でおなかいっぱいにするのはどうでしょう。

本を片付けながら、振り返ってそう言うと、
崇くんは、西のお寺の八百比丘尼の石像の写真をみています。

「優しそうな尼さんだね」

その言葉に、
八百年生きたとか
即身仏になったとか
そういう生臭い話はとてもできない、と思いました。

「この人の目も緑色だったのかな」

ほんとうに、崇くんはいつも私をドキっとさせます。
私も八百年、あなたのそばにいましょうか。
私はきっとそばにいます。
八百年間生きられなくても、体を失っても、
ときにはあなたの頭痛になって、
ある時は寝息になって、
ずっとあなたのそばにいたいですよ。

それとも、
やっぱりそんなにしつこくされるのはいやでしょうか。

七輪に火を点ける崇くんの背中を見ながら思いました。
死は文化、でもどちらか一方が死ぬのも、生き続けるのも嫌だなぁ。
西洋の人魚姫のように、魔女が渡した短剣をつきたてたとき、
私は何になるでしょう。
私なら泡でいいです。
海に泡で。

あっ、坂口さんとご近所さんです。
今日はみんなが崇くんみたいに、庭に顔を出します。
七輪の炭のにおいのせいでしょうか。
ふたりはキンメと、サバの一夜干しを持ってきてくれました。
自分のうちの庭みたいに当たり前の顔をして。
今夜は大宴会です。 

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