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サンキュー
パリ5区の石壁に囲まれた路地を歩いていると、赤い木の扉の前に気持ちのいい笑顔で立っているおじさんがいた。おじさんと言っても、つい8年ほど前のこと、私の方もしっかりおばさんなのだけど、東洋人は若く見えてお得だ。
「中を見てゆくかい?」
誘われるままに中に足を入れた。パティオがあるようで、そこまでも石畳の通路が続いている。明るさに誘われて足を進めると入り口にガラス窓のはまった小部屋にぐるりと囲まれた野外に出た。部屋一つひとつに派手な展示がなされていて、何かイベントの最中のようだった。
おじさんのモジモジしている感じが伝わってきて、あら何か勘違いだったのねと、招かざれぬ客だったこと気づき入ってきた赤くて古い分厚い扉から路地に出た。
「普段なら絶対中に入れないのよ」
在住の同級生が、大きな声で言った。とても意外だったのがわかった。でも私にはそういうことがよく起こる。だから、感謝が足りないのかも知れない。人の好意とか、思いやりとか、特別にかけてもらった恩恵とか、そういうことに対して耐性ができてしまっているのだ。
在住の、その彼女が日本から行く私に落ち合う場所として指定したのは、彼女のお子たちが通っている小学校だった。空港からホテルまでのメトロの乗り方、それにホテルから小学校までの道順、それをわざわざ観光者用のポケットサイズの地図を買ってくれ、それに詳細に手書きしたポストイットを貼り付けて送ってくれたから、文句のつけようもないんだけど、ちょっと挑戦状にも感じた。ちゃんと認めてくれている感じもした。
あの時、私は自分の生活に少しばかり辟易としていて、新しい風みたいのが欲しかった。ドイツには一年半、二十歳の時に暮らしたことがあったが、仕事の契約半ばで、環境に適応できず逃げ帰ってしまった経験がある。それをずっと苦く思っていた。数十年が経ち、リベンジのつもりで一人でヨーロッパを訪れることに決めた時、思い浮かんだのは同級生の彼女のことだった。
卒業後初めて母校の文化祭に行った時、彼女を見かけた。すっかり変貌した彼女はもう、知っていた頃の文学少女では無くなってしまったように見えた。クレージュのパステルの、ミニ丈のスカートは明らかに厳しかった校則の反動だった。
そんな彼女と繋がったのはSNSがあったから。早々に結婚していたらキーボードとはご縁がなかった。お互いに通信の手段を持ち得たことに感謝。でもそれだけじゃない。彼女はちょっとしたアイコン的存在で、高校時代は尊すぎて気軽に話しかけられる相手じゃなかった。それがmixiではダイレクトにメッセージももらえるのだ。私は初めて知り合った相手のように彼女の言葉を吸収し、感謝した。
パリに行った時、やりたい放題を尽くした。パリで同級生に再会した翌日は、モンサンミッシェルまでバス旅行した。リベンジだから激しく攻めなければならない。残りの2日はパリを歩き回るつもりだった。数十年前にドイツに住んだ経験があれば、自分一人で行動するのなんてどうってことない。しかし彼女は私を放っておかなかった。時間を合わせて一緒に歩いてくれたし、観光客など一人もいない官庁街の裏通りを通り、古いアーケード街に連れ出してくれた。フランス語が飛び交う路地のカフェで、どうしたことか結婚生活とか、人生とか、そんなことを熱を込めて話したり。世田谷のあの頃にはなかった話題のソースは、二人とも歳を重ねた分だけ積み重なり、尽きることはなかった。青く語り合った後、気づけば二人とも夫がいて、子供もいろいろ悩ませてくれる年頃という現実が鼻先三寸の目の前にあり、現実の冷風に赤くなっていた鼻先を青くさせた。
そんなことがあってから、日本に帰ってくると声をかけてくれるようになった。ある時など、カラオケに一緒にゆき一曲も歌わず私一人が歌い続けるという、訳のわからないデートに付き合ってくれた。
そんな彼女の厚遇に気を良くしていた。ひょっとしたら私はそんな魅力的な人間なのかしら、と。これが勘違いの始まり。そもそもは彼女の予想だにしない人とは違う反応は博学、誰からも一目置かれる大人物さに惹かれていたのは私の方だったのに、ついそれを忘れていた。
それに私は根っから人付き合いが下手。40年以上前に、一本の映画で共有した時間のことを忘れず文章など書いてしまう。そしてあの時のカーッと脳みその一部が燃えるような刺激を感じた一瞬が永遠に続けばいいと、同じことを人付き合いに求めてしまう。
二度目のパリに行くことになったのは、長男がオランダに留学した時だった。息子の留学先を尋ねがてらというのが夢だった。それが叶うのだからウハウハで彼女に連絡した。しかしウハウハは見事に裏切られた。当然だけど、彼女にも生活があるのだ。調子をこいていたところに、これまでの厚遇のしっぺ返しを受けたような気がして、落ち込んだ。仕方なく、彼女の家の前まで行って息子の写真を撮った。
そんなことはすっかり忘れていた。
どういうふうに記憶とか感情とか、そういうものが湧いてくるのかわからないが、夕方家族と車で移動している時ふと彼女のことを思い出した。
友達の話をしていたんだと思う。
息子たちが、ラジオから流れてきた『一年になったら友達百人できるかな』という歌詞を鼻で笑った。嘘だって知った頃だ。知り合いならいくらでもいる。でも友達は、片手で十分。確か息子がそういったのだ。
その時、 彼女は友達だわ、という言葉がふわりと頭の中に降ってきた。
パリで再会できなかった不機嫌なんて吹っ飛んだ。
銀座の雑居ビルのカラオケで、つまらない顔もせずポテトをつまんでいた彼女の姿が浮かんだ。パリのスーツを着込んだ人ばかりが行き交う裏道のカフェで見せたダロウェイ夫人な横顔。私の中でこの人は本当に友人だなと思った。でも言えなかった。
コロナがあってウクライナ戦争が起きた。
うちは夫が倒れて、復活した。
私は還暦になった年だった。その年に同窓会があった。
つい去年の話。
こっちで勝手に思うのはいいんじゃない?迷惑かかるわけじゃなし。
友達って本当に呼んでいいかもしれない。
なんでも面倒くさく定義づけて考えていた世代の私にとって友達は多くない。でも彼女はとても大切、そう感じた瞬間があった。
大事な人をなくした彼女に本を送った。同級生ではない本当の友達と思っている。
今はちょっと、大変な時だけど、いつかまたあのパリの赤い木の扉をくれたらいいね。孫がいたり、白髪のグレーヘアだったり、そんな私たちにまた、少ししたら会えたら良い。そう思っている。
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