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【パワプロ2022・架空選手】森本 勝【パワナンバー】

森本 勝(もりもと まさる)

前坂平城高校 - 帝都平城大学 - 泰平コメッツ(1955 - 1970)

電撃のスピードスター

 1932年8月に地主の家に次男として生まれたこの男は私立高校に入学するなど戦後すぐの時期ながらも恵まれた生活をしていた。幼少期より足が速く様々なスポーツに誘われていたが左利きというメリットを活かせる野球にハマりそして野球に生涯をささげることとなる。
 帝都平城大学では三番センターを務め主将も任されていたが全国大会では結果が出ないというジンクスに悩まされ評価が伸びなかった。しかし1955年のプロ野球開幕に備え1954年に行われた第一回ドラフト会議で泰平コメッツからドラフト2位での指名を受けることとなる。

 俊足を生かした守備範囲の広さと巧みなバッティングに定評があった森本は一年目から一番打者に定着、一番レフトとして開幕戦に出場すると開幕戦をいきなり4安打で鮮烈なデビューを見せる。その後も安定してヒットを量産し続けたことで初年度にして200安打達成も噂されたがあと2安打足りず198安打で一年目を終える。しかし打率.312で初年度首位打者に輝き、53盗塁で初年度盗塁王も獲得した。さらに11三塁打はリーグトップの数字であった。
 翌年はレフトからセンターに周り200安打達成を目標に臨んだシーズンであったがやはり好調な打撃を見せヒットを積み重ねる。しかしやはり200安打を目前にしてシーズンが終わってしまいこの年も197安打とやはり達成はできず。しかし打率.314, 48盗塁, 10三塁打と二年連続でこの三部門でトップに輝いた。
 3年目も相変わらずの安打量産機であったがこれまでの非力なイメージを覆すべく打撃スタイルを変更したことで自己最多となる3本塁打を記録、2塁打も34本と増えた。192安打に終わったものの.311で3年連続の首位打者最多安打獲得に加え3年連続盗塁王となりチームも初めての優勝を掴み取った。まさに充実の一年であったと言える。

 しかし4年目となる1958年は全試合フルイニング出場を続けた疲労の蓄積などもあり大幅に数字を落とす結果となってしまう。最多安打と盗塁王は死守したものの173安打に終わり打率も.273と不本意な成績に終わってしまう。首位打者は中津アグレッサーズの若き主砲平山輝雄に奪われてしまい牙城が崩れた。
 翌1959年も不振が続きついに最多安打のタイトルをチームメイトのルーキー川口嶺雄に譲る結果となってしまう。打率.277, 1HRで盗塁王は守ったもののその打撃は明らかに衰えつつあると評されていた。また俊足で内野安打ばかり稼いでいる姑息な打者という印象も強まっていた。

 迎えた1960年、ルーキーの増田真一が泰平コメッツに入団、二番打者を務めることとなった。入団に差こそあれどこの二人は同い年(ただし学年は増田が一つ上)であり、非常に良好な関係を築いた。そして増田の直訴もあり森本は定期的に休養日を設ける起用法となった。これによって森本は復活したと言われる打撃を見せるようになる。

パワナンバー : 10000 61081 25196

 二番打者の増田は2割ちょうどを行ったり来たりという打撃成績でバントが下手なこともあって批判を受けることとなったが森本にとっては理想的な二番打者であったという。出場試合は128試合と少ないながらも安打を量産、一番打者としてチームを牽引した。特に打率は過去最高となる.331で田中誠、平山輝雄といった名選手の猛追を振り切っての首位打者であった。
 この年クイック投法が広まり始めたこともあって盗塁成功率は落としてしまったものの49盗塁で6年連続盗塁王の新記録を樹立した。さらに通算773試合での通算1000安打達成は当時最速、現在でも歴代2位の記録となっている。
 さらにチームもこの年優勝に輝きすべてにおいて充実したシーズンだったと言える。

査定について

 打撃面については特に触れるべき点はないというかまあこれで何の問題もないんじゃないでしょうか。
 まあ問題は守備面というか、もう少し守備うまくてもいいんじゃないのかという感じもしますが当時のレベルなど考慮してこの辺の数字で。

メッタ打ち

 安打製造機はつけないのか、アベレージヒッターはつけないのかと、まあそういう話なんですが彼は3割到達したシーズンはすべて首位打者です。そしてそれ以外のシーズンは2割後半で推移していて基本的にはムラのある打者です。そういうこと。

カット打ち

 粘り打ちはどこにいったのかとなりますがこの年は三振率.181で別に三振が少ないわけでもない、ただファウルで粘るという打撃は彼の特徴でもあるのでここはカット打ちで。

盗塁E、走塁A

 これ以後クイック投法の広まりによって盗塁成功率が下がっていきます。まあそれを考えれば盗塁Eで無難だと思われ。
 走塁面については三塁打が多いのもそうですが二塁だがとにかく多い。普通の野手の二塁打を三塁打に、単打を二塁打にしていたと思われとにかく脚で長打を稼いでいた印象。

回復E

 完全に付け忘れです許してください。翌年以降また休養日が減らされガンガン試合で使われるようになりますがそこから数字もやはり落ちてるので回復Eは必須装備だと思われ。

エピソード

 翌年以降再び休養日がなくされてしまうことで再び成績を落とすことになってしまう。これにはスター選手である森本を全試合出さなければチケットが売れないという部分も多かった模様。しかし61年から長打力を付ける方向へシフトチェンジしたことで打率は下がったものの本塁打は増加し衰えをカバーしようとした。
 1962年は川口嶺雄に盗塁王のタイトルを譲るという結果に終わり連続盗塁王は7年でストップ。1963年は.250ながら8本塁打と自己最多の数字を更新し再び盗塁王に返り咲いた。川口嶺雄と打順を交換し二番打者に定着して以後もヒットを積み重ね、1967年には通算1758試合での2000本安打をレフト前ヒットで記録。この年は.252, 0HRながら二番打者として渋い活躍を見せた。
 一方でチームは1960年の優勝から長らく低迷期に陥っており、この低迷時代と森本のキャリアが重なってしまった。スター選手でありながらヒットを重ねるだけの森本はある種自己満足なプレースタイルともいわれ批判を受けることも多々あった。
 1968年はスランプによりシーズン途中に二軍降格、その後は定期的に一軍に昇格するも結果の出ない日々が続き1970年に引退を宣言した。引退試合では全打席ホームラン予告を行い3打数3三振に打ち取られながらも最終打席で右中間を破るツーベースヒットを記録、これが最後の長打となった。
 通算2008試合出場, 打率.275, 2155安打, 583打点, 314二塁打, 127三塁打, 40本塁打, 582盗塁。泰平コメッツの草創期を支えたスピードスターの引退であった。

 その後泰平コメッツの二軍守備走塁コーチに就任、1974年から一軍ヘッドコーチとして75年の優勝にも貢献。守備走塁コーチ増田の提唱した機動破壊戦術を推し進めた。しかし80年代前半は好調ながら優勝できない時期が続き86年チームは4位に転落。次期監督候補として森本の声も上がったがこれを固辞し辞任。
 1987年は増田の推薦もあり増田政権の下でダックスフンズのヘッドコーチを務めた。増田とともに銀河最強打線の構築に貢献したものの90年シーズン終了をもって辞任。
 91年からは泰平コメッツの監督に就任したものの初年度こそ2位に浮上したもののその後は低迷を続け95年の最下位を以て監督を辞任した。

 96年からは帝都平城大学の野球部監督に就任、帝都大学野球二部リーグに降格していた母校を一部リーグに昇格させ5度の優勝に導くなど貢献、2004年に監督を引退したものの終身名誉監督に就任している。2013年に死去。

ひとこと

 ペナントやるといい感じに数字がばらけてくれます。安定しないというかね。アベレージヒッターだとこの感じは出せないんですよ。これを求めていました。

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