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【パワプロ2022・架空選手】ユセフ・シエラ【パワナンバー】

ユセフ・シエラ(Yuseff Sierra)

帝都新報ファイアブランズ(1963 - 1972)

舶来の電光石火

 1935年1月6日、ボルトン民主共和国の委任統治領であるタセンダマン諸島にて生まれた。幼いころから野球に触れていたシエラはボルトンの国内リーグで16歳で契約を結びプロデビューを果たすなど早くから野球で頭角を現していた。高い身体能力を武器に国内リーグ4割を達成するなどその実力は折り紙付きでこの才能に目を付け帝都新報ファイアブランズと契約することになった。1962年のシーズンオフのことであった。
 28歳と比較的若い年齢での入団となったが国内リーグで無双しているというのも逆にファンの不安を煽った。レベルの低いリーグで無双しているだけなのではないか、本当にプレーを見て評価したのか、28歳のシエラに対しては期待値の高さも相まって諸説入り乱れていた。

 しかし1963年のキャンプでショートを守らせたところ首脳部も観客もその強肩に驚愕する。一塁手のミットを吹き飛ばしたという話もあり内野安打と思われた打球をことごとくアウトにするそのプレースタイルはまさに稲妻であったと言われる。
 さらにその強肩だけでなく逆シングル捕球を積極的に行いジャンピングスローをいとも簡単にやってのけるそのセンスはまさに我が国の野球界において内野手の守備に革命を起こした存在ともいわれている。
 さらに左右の両打席から広角に打球を打ち分ける打撃センス、抜け目なく次の塁を狙う走塁技術とその俊足、すべての面において超攻撃的なスタイルが評価され開幕戦を一番サードとして出場することが決まった。

パワナンバー : 10600 31060 22509

 開幕からヒットを量産し続けるとその身体能力から正遊撃手の座を完全に掴み取った。紀洲スイフツの西村将誠と並び長打力とアクロバティックなプレースタイルは遊撃手の新時代を築いたともいわれ攻撃的遊撃手時代の始まりともなった。
 シーズン13三塁打でリーグ最多三塁打を記録すると打率も.312でリーグ4位の好成績を残した。さらに25本塁打27盗塁で「トリプルスリーに最も近い男」とも呼ばれた。
 リーグ最多となる22失策を犯したもののその広大な守備範囲と強肩は野球ファンの心を魅了した。突如として現れたスーパースターにファンは虜となったのである。

査定について

 オールマイティ何でもできるマンというところですね。打撃も守備も走塁も守備位置に関しても内野は全部守れるというところで。エラーは多いですがそれは守備範囲の広さによるものというところもありますしね。

重戦車、プレッシャーラン

 攻撃的なプレースタイルゆえに時にはラフプレーに走る部分もあり、批判を受ける部分も多かった。試合中はとにかく頭に血が上っていて冷静さを失ってしまう部分があったらしい。でもその気持ちを前面に押し出したプレースタイルもまたファンの気持ちを掴んだ。

固め打ち、調子極端

 とにかくフォアボールを選ばない打撃スタイルで成績のムラという部分はずっとつきまとっていた。でもおかげさまで爆発するときは大爆発するという強みにもなる。

撹乱、走塁A、盗塁E

 俊足だけでなくその機動力でかき乱すというプレースタイル。当時はクイック投法が定着し始めた時代でもあり盗塁を防ぐことに対して敏感な時代、その中で投手を動揺させることに定評があった。
 ミスタートリプルと言われるほどには三塁打が多い。当時の外野手の守備が悪かった部分もあるとはいえ球場の広さを考えればその走塁技術は疑うべくもない。
 盗塁Eは昔のクイックがなかった時代は盗塁成功率が高くてもクイックなかったしなあみたいな話になりますがこの時代はクイックが定着し始めた時代なので普通に成功率が低いのでEです。

対左E

 左打席ではコンパクトに、右打席ではパワフルにというスイッチヒッターあるあるの打席内容。左打席の方が若干打率がいいですが内野安打の多さも理由の一つではあります。
 セーフティバントも左打席でちょくちょくやってるみたいですがそれほど試行回数が多いわけでもないしバントもたまにやってるぐらいなのでバント〇は見送りです。

三振

 三振率.227をどう見るかですがこれだけの高打率を残しつつも三桁三振をしているというところはやはり三振必要なんじゃないでしょうか。

エピソード

 翌年は首位打者獲得を目指してシーズン入りし、開幕からヒットを量産して首位打者争いに加わるかと思われたが開幕から田中誠がそれを上回る好調を維持し一時は打率4割も騒がれるほどの数字を記録していたことから首位打者獲得はできなかった。打率二位となる.328を記録したものの首位打者田中誠が.348であることからかなり差が開いての二位であった。
 しかしこのシーズンで自信を得たシエラはトリプルスリー獲得を目指し1965年を迎える。年間4度の左右打席本塁打を記録(4度目に関しては右投手にもかかわらず右打席に入り達成)するなど長打力においては十分な活躍を見せ36本塁打を記録したものの打率は.254と粗さが目立つシーズンとなってしまった。だがチームの好調さもあり好調な打線の四番を務めるなど活躍、104打点で43本塁打を打った田中誠をかわし打点王を獲得した。
 翌1966年はシエラにとって最高のシーズンであったと言え、シーズン序盤は低調だったものの気温が上がるにつれて猛打が爆発し一気に打率首位にたどりついた。首位打者四度獲得の平山輝雄が猛追を見せたもののこれを寄せ付けることなく打率.336で首位打者を獲得。さらに34盗塁で初めての盗塁王を獲得した。さらには20-20-20-20、20二塁打20三塁打20本塁打20盗塁を記録しこれは現在に至るまでリーグ唯一の達成者となっている。22三塁打はプロ野球記録ともなった。この好調にもかかわらずチームは最下位に低迷した。
 1967年はチームの好調に反して打撃面で苦しんだシーズンとなり.269 15本塁打に終わってしまった。しかし二番打者に定着したことで攻撃的二番打者の先駆けともなり、二番打者にも関わらず犠打0という当時としては珍しい記録を作った。
 その後は二番打者を務めたものの長打力の低下が目立つようになる。1969年は3割を記録しキャリア五度目となる最多三塁打を獲得。だが長打が出なくなったことが彼を悩ませ、そしてその悩みを酒によって紛らわせようとするようになる。
 1970年は明らかに体重オーバーでシーズン入りし、遊撃手のポジションを剥奪される。脚力も体重問題によって衰え、6番に収まり.283 14本塁打とまずまずの結果を残したがポジションは二塁や三塁、一塁を行ったり来たりと落ち着かない起用法に終始した。翌年は打率.264 10HRと低迷した上出塁率は.288と打撃面の粗が目立ち恐怖の8番打者として二年連続2位に貢献したもののもはや見る影もなくなっていた。
 1972年のシーズンも相変わらず開幕から低打率三振マンを続けていたことからついに一軍から外れることとなりシーズン中に契約解除を求めウェーバー公示、その後契約先は見つからず1975年に引退扱いとなった。
 通算1264試合出場,打率.293,安打1264本,177二塁打,109三塁打,171本塁打,200盗塁と10年のキャリアで残した数字は立派なものであった。

 引退後についてはファイアブランズOB戦やイベントなどに積極的に顔を出していたがその後体調を崩してしまい1992年にこの世を去った。1992年のオフに野球殿堂においてその印象的な活躍から特別表彰選手となった。

ひとこと

 20-20-20-20達成させたいけどなあ、ゲームだと難しいんだよなこれがな、頑張ってほしいです。
 やっぱり長打が打てるスイッチヒッターってロマンだと思うんですよ、そういうことです。

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