「天使の解剖」

 彼女との出会いは下層回廊のドブの中と呼ばれる治安最悪の地域だった。
 その日、中層市民の私はいつもどおり自称医者という看板を下げて治験実験の経過を看ていた。ドブの中で、まともな治療を受けられるなんて誰も思っていなかったからか、実験結果は目に見えて成果が出ている。多くの貧民にも満足してもらえているし、感謝どころか隠し持っていた宝石なども融通してもらった。大したことのない値でしか売れなかったため、中層の買い食いで無くなってしまったが。
 普段通り謝礼を貰いつつ、治験患者の元に回っていると物陰にひっそりと眠っている女性を見かけた。だいたい、下層の物陰で寝転んでいる女なんてのは事件を起こすための生き餌か、事件が起きた後の被害者だが……そこそこの外見をした彼女はしっかりと服を着ており、手元には楽器まで置きっぱなしだ。この辺りでは考えられない事だ。普通に考えて、襲われてから楽器を奪われ、最後には肉まで囓られる所まで行くにも関わらず、彼女はぼんやりと寝ていた。
「……罠にしては明らかにおかしい」こんな旨そうな餌に誰も引っかかってないのが余計におかしい。
 そう思いつつも、下層では見られない光景に興味が沸いたのは確かで、私は罠に引っかかってでもこの女性を看てみたいという気持ちを抑えきれなくて。誰かが見ていないか確認しつつ、女性の身体に縄をかけて家まで持ち帰る事にした。
 驚くべきことに、何の仕掛けも彼女には無かった。罠ですらない、ただの餌だったのだ。

 中層に戻って彼女を自室の診療台に乗せると、健康状態の確認を行った。死体ではないのはわかっていたが、眠りっぱなしの彼女が健康であるとも考えにくかったからだ。ましてや、罠の可能性もあったから、金属探知は入念に行う。「地雷は人体に埋めるのが一番面白い」……というのは、以前治験で死んだ下層市民の意見だが、私も罠を仕掛けるのならお手頃だと思う。体内に入れる必要は無いと思うが。
 幸い金属探知機は反応しなかったが、彼女の身体を触診しているうちに彼女には違和感があることに気付く。人にあるはずの臓器のいくつかが繋がっていないのに動いている……まるで、継ぎ接ぎだらけの人体模型のように。心臓、腎臓、肺、小腸、大腸、肝臓。主要な臓器の殆どが凡人と同じだが、それらが血管や各臓器に繋がっておらず独立して動いているのだ。臓器に繋がりがないのに動いてるという事は、やはりまともな人間ではないという事だった。
 とはいえ、それが悪いわけではない。むしろ素敵な研究材料ですらある。個々に動く臓器、まさしく人間を適当に真似て作られた人造人間のようでいて、人間をたやすく超越した理屈で動いているであろう内臓を持つ彼女は、私にとって好ましい材料である事には違いない。彼女の外側から見た診療では、数時間ほど置いておけば、目を覚ますだろうといった感じであったため、安全の為の武器を確保してから目覚めの時を待ちかまえる。

「おはようございます。実に快適な睡眠でした、感謝します」
 彼女はパチリと目を覚ますと同時に声を上げた。あまりにも唐突な言葉に驚いて、次に彼女が普通に声を出している事に驚く。声帯と喉が個別に動いており、その事に何の不思議も持たせない圧倒的なまでの存在感。彼女の各部位が同時に起動して、何か別のモノに接続されているような様子を見て、ふいに思う。
 人間を真似たのではなく。人間が”彼女”を真似て作られた被造物であったのならば……彼女は。
 私が、彼女の正体に気付く前に、私は彼女に何百発かの銃弾を浴びせたが、銃弾は彼女の身体に弾かれるように、銃声は彼女を避けるように、硝煙は彼女を避けるようにしてゆらめいた。
 そして、彼女は言う。
 「貴方は人間のようですね。おはようございます。ご機嫌はいかがでしょう。私は、人間に提案があって上層よりやってきました。私の説明は必要ですか?」
 下層は地獄の有様で、中層は俺の住処なら、上層は天国に違いない。それで、彼女は天国からやってきた……俺たちの知らない、神のごとき存在だった。