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読書メモ:「生活科から社会科へ、そして小学校の歴史教育の可能性を語る」(後半)

芳澤比奈子、伊崎真弓、高橋基文、米須清貴、(司会)宮崎令子/長妻雅彦「生活科から社会科へ、そして小学校の歴史教育の可能性を語る」『歴史地理教育』2022年2月号(935号)、4~13ページ。

目次

1.社会科って何を学ぶ教科
2.小学生は歴史をどう見ているか
3.地域から民衆の歴史を学ぶ
4.授業で子どもが問いを立てる
5.教科書にない北海道と沖縄の歴史
6.地域から問うか、教科書から問うか
7.歴史学習の最後は平和学習
※ 本稿は1日目と2日目で別々の小学校教員を招いて座談会を行なっている。今回はその2日目の部分について(5節から7節まで)。

本稿の概要

 本稿の後半部分は、北海道と沖縄で先生をしている2人の教諭の対談が行われる。はじめに地域の教材づくりについて司会の中妻から投げかけられると、北海道の高橋基文は「歴史では基本的に教科書を使う」が「地域にいい素材があったら、教科書とつなげて学習する」と述べる。「北海道の地域から日本史の流れで、こんなことが私たちの町にもあったと教材化して」授業に取り入れるという。また沖縄の米須は、教科書通りに授業を進めることが基本としながらも、沖縄では伝統的に教科書の内容を地域教材に置き換えた授業が行われてきたことを指摘する。教科書に基づいて「地域や沖縄と関連づけて深められることを見つけたら、一、二時間扱いで授業の中へ挿入することを」を重視しているという。やはりここでも、「小学校では、地域学習から入って同心円を拡大していくように」歴史を学ぶことが指摘されいる。
 次に司会から、子どもに問いを立てさせるときに「地域から問いをたてる」か「教科書から地域に対して逆に問いかけるか」、「教科書から深める」のか「地域を調べていったら教科書のほうに広がっていく」のかといった疑問が投げかけられる。北海道の高橋は、「こちらから日本史の中で地域のことを投げかけてやらないと問いを作れないと思」うと述べている。米須は、授業内容の軽重を意識して必要な時間を捻出するようにしているのいう。「まず最初に何かしらの投げかけをして、子どもがわかるような資料にしたうえで問いかけをしてあげないと、子どもたちは、何だこれ?、これを調べてみるかというようにはならないと思」う、と述べる。また両者ともに学力向上政策の影響で教科書を進めることも重視されるようになっていることも述べている。
 最後に6年生の歴史学習で特に時間をかけるところはどこかという話題では、両者ともに「戦争の学習」であると述べた。高橋は、絵本の読み聞かせを実践して社会科につなげていると述べる。また米須は、単元をどのようにつないでいくかということを常に意識すると述べる。具体的には、「この時代をみんなだったら何と名づけるかということを考えさせて」、その後に「じゃあ次は何が起こるだろう」と問いかける。歴史的事象の因果関係を意識させて、中学校でそれをさらに深める流れを意識している。これに対して、司会の長妻は「小学校の教員は意外と中学校とのつながりを意識します。(中略)しかし中・高の教員は、小学校で受けた教育を忘れてしまっているのではないか」というコメントをしている。

感想など

・今回は小学校高学年の話題、ということもあって何となく想像がつきやすい内容だった(塾講師のアルバイトをしていたときに、中学受験をする小学生を教えていたので)。
・教科書を基本として、いい素材があったら教材化して授業に取り入れる、というスタイルは自分のスタイルに似ているなと思った。私も全10回の授業があったら、1〜8回まではグループワークも織り交ぜながら教科書を進める。そした9回・10回でその単元で特に考えたい指導内容について集中的にグループワークを行なっている。
・「地域学習から入って同心円を拡大していくように」、の考え方は、高校でも大切なのかなと感じた。生徒の身近な話題から、指導内容にはいっていくことは授業を作るうえでの基本となるから。
・米須の「この時代をみんなだったら何と名づけるかということを考えさせ」る実践は、すでに振り返りシートで私も実践していた。しかしその後の「じゃあ次は何が起こるだろう」という問いかけは、真似してみようと思った。
・最後の長妻の「小学校の教員は意外と中学校とのつながりを意識します。(中略)しかし中・高の教員は、小学校で受けた教育を忘れてしまっているのではないか」というコメントについては同感である。小学校までは社会科が好きでも、中学・高校と進むにつれて、社会科が「考える科目」から「覚える科目」へと生徒の認識が変化してしまう(おそらく授業のスタイルも変化してしまっているのだろうが)。
・この問題は意外と深刻で、「覚える科目」たる社会科の授業をしないと生徒が不安がったり、「もっと授業っぽい授業をしてください」と言われたりしてしまう現実がある。彼らの「授業っぽい」というのは、講義形式の知識注入型授業を言うのだが、私は現代においてそんなことしてもあまり意味はないと思うのだが…。

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