見出し画像

【読書感想文】論理国語とイーハトーブ



 高校の同窓会に出席するため、私は十年ぶりに花巻ガンマ地区の第3ドームへ足を踏み入れた。ドームフロントで滅菌処理と論理レベルのチェックを済ませてから、会場のホテルへ向かう。正直、高校のクラスメートのことなんてほとんど覚えていない。とりたてて悪い思い出はなかったが、逆もまた然りだった。私の三年間は起伏のない平々凡々なものであり、その凡夫っぷりは高校、就職予備校、現在に至るまで続いている。地元の同級生たちに話したいような波乱万丈な冒険譚は持ち合わせていない。それに、私はあの前時代的な田舎のコミュニティの雰囲気があまり得意ではない。それでも私が同窓会に出席したのは、ある人に会うためだった。彼女の名は蠍田さんという。イモイモしい三つ編みを振り回す文学少女であり、趣味は国語の教科書を自作のアルコールランプで炙ることだった。在りし日の彼女は私とともに校庭の隅に座り、消し炭になった教科書を土に埋めながら、毎日のようにこう言った。「クラムボンはしんでしまった」と。

 高校国語の指導要領が改定され、「国語」が「論理国語」と「文学国語」に分かれてから実に100年の時が経った。当初は、論理的思考と文学的感性を両輪として国語を学ぼう⭐︎という崇高な目標を掲げていたが、改定から10年もしないうちに、文学国語は不要の烙印を押され指定教科書から姿を消した。今や太宰や芥川といった文学作品は、ガリ勉か活字中毒(注1)しか読まんような分厚い便覧の隅に多少の記述を残すのみである。その余波もあってか、2150年には国立大学から人文系の学部と研究室が消え、ついでに大学の名称が「就職予備校」に変わった。一方、論理国語はと言うと、平家もブリテンもかくやと思われる栄華を極めていた。国語で取り扱われる文章は全て評論文とビジネス文書になり、年齢相応の論理思考が出来ているかの指標として「論理レベル」が制定された。全ての国民は一日一回、支給された測定器で論理レベルをチェックし情緒汚染されていないかを確認する。学生の論理レベルチェックは毎朝の朝礼中に行われるが、アイスクリーム課題に見事にひっかかった私や事務処理能力を母親の胎内に忘れてきた蠍田さんは、担任教諭から日々懇々と叱責を受けていた。「あなたたち、また論理レベルが基準値を大幅に下回っているじゃない。今の時代、論理的でないと生きていけないのよ。たしかに文学は素晴らしいものだけど、そういう情緒に訴えるものばかり見ていたら正しい判断ができなくなるでしょ」私は、説教の内容よりも窓ガラスにとまる虫の裏側のほうが興味深かったので、先生の話をあまり聞いていなかった。一方蠍田さんは、毎回古めの室外機のごとくヴォーと低く唸りながら言い返していた。「論理というメディアと情緒という共同幻想を、まるで二項対立であるかのように扱うのがどれほど的外れなことかわからないの? 論理がよくて文学がだめだとかその逆だとか、前提がおかしいでしょう。そもそも、情緒の中にだって論はあるんだよ。文学はあくまで感性に訴えるもので思考力は論理の領域だって言いたいんだろうけど、優れた文章ほど論理的で文学的で、その他にもいろんな領域を横断しているものでしょう。「これは論理的文章」「これは文学的文章」……って、そういう雑な細分化が総合的な国語教育の幅を狭めてるってわかってる?指導要領の都合で安易に切り離したところで、結局は全部繋がっているんだよ。こんなこともわからないなんて、大学で何やってたのさ。自分さがし(笑)?」「このガキ、言わせておけば!」「なにくそ、芋女!」〈ピコーンピコーン論理レベルの急激な低下を観測ンビビビビビビ〉不毛な言い争いを続ける担任と蠍田さんを尻目に、私は教室の窓ガラスにとまる虫の裏側を観察し続け、高校三年間で百二十五種類もの新たな蛾の名前を記憶した。これが自発的な学びというものだろう。高校卒業後、私は東京の就職予備校の生物科に進学し、虫などの裏側を見つめるだけのモラトリアムな四年間を過ごしたあと、銃火器を持ち出して猛反対する親を見事に成敗し土に埋めて院進し、生物研究室に入った。今も毎日虫などの裏側を見ている。一方蠍田さんはというと、高校を卒業して以来音信不通であった。「この国の国語教育を変えるのだ」などと息巻いていたので、てっきり教育学部にでも進んだのかと思っていたが、どうやら違うらしい。10年ぶりに彼女から届いた手紙には、「同窓会の日にテロやるんだけど、よかったらお手伝いお願いします」とあった。蠍田さんはテロリストになっていたようだ。目標は崇高なのに実践の方法が卑劣に寄っていくのは、ひとえに彼女の並々ならぬ陰湿さのおかげだろう。こーゆー(注2)アナーキーなトコ、変わってないなあ。。。(注3)としばし現実逃避をしたあと、慌てて東京と花巻を繋ぐ亜音速エア・チューブに乗り込んだ。友人が犯罪者になったとあっては、下手すると研究室にいられなくなるかもしれない。それは困る。実のところ文学にはさほど興味はないのだが、私にはまだまだ眺めたい生き物がたくさんあるのだ。


注1:活字中毒……クラスに絶対一人はいる、配られた国語の教科書や便覧をその日にうちに片端から読むあいつ。のべつまくなし字を読んで興奮し、それにより発電を行うので、石油代替エネルギーとして注目されている。新エネルギー法の支援対象。

注2、注3:2145年、「こういう/そういう」を「こーゆー(こうゆう)/そーゆー(そうゆう)」と表記すること及び「。」「、」を三点リーダーの代用として使うことに対して刑事罰が設けられた。



 結果から言うと、私は蠍田さんと会うことができた。夜7時、会場のホテルの玄関前に着いたとき、向かいのビルの三階から銃を構える三つ編みの人影が見えたので、もしやと思って大声で名前を呼ぶと、彼女は赤いレーザーポインターで私の足元にハートを描いた。覚えてくれていたのだ。「蛇野! 来てくれたの!」蠍田さんは大声で叫ぶと、私の前にひらりと飛び降りた。ばかでかい、妙な形の銃を胸に抱えている。「蠍田さん、久しぶりだね。とりあえず反社会的行為やめよ?」「見て、この銃私が作ったの。名づけて文学砲!」「なんなの、どういうアレなのそれは」「文学的じゃないやつを殺す」「最悪の極みだろ」私は頭を抱えて、彼女を睨んだ。「蠍田さん、なんでそんなことするの? あんた、そんなやつじゃなかった……ことはないけど、そんなことしたらだめでしょ。なんでなの」「同窓会の幹事のやつ、文科省に入ったらしいのよ。高校の指導要領を改訂して、『国語』を『実用国語』に変えるんですって。だから殺すの」「殺すな」私は目をかっ開く蠍田さんと距離を置いて、なるべく優しく話かける。「蠍田さん、それの何がだめなの?」「国語から文学が消えちゃう。それはだめなの。説明書だけあって本体のない機械みたいにだめなの」蠍田さんは銃の撃鉄を起こした。「ちょっと!」彼女は私のほうをじっと見たまま、片手でホテルの窓めがけて撃った。打ち出されたのは、なんかシャボン玉かスライムみたいなよくわからないモニョンとした弾だった。「あれ、おかしいな」「文学の次は工学も勉強すべきだな」私は呆然とする友達めがけて突進し、銃を叩き落として体をビルの壁に押し付けた。「何するの!」「こっちの台詞だわ!もっとやり方あっただろ!」「だって、放っておいたらどんどん消えちゃうんだもの。文学が必要だと思ってる人はたくさんいるのに、お金にならないからって捨てられていっちゃうんだもの!」蠍田さんは悲しそうに叫んだ。「それでも、よくわからん銃を作って文科省の人間を処すか〜とはならんだろ!」「だって」「悩みがあるなら友達に相談とかしろ、たわけ!!」私は彼女の脳天に手刀を落とすと、彼女はわんわん泣きながら、「じゃあ、愚痴るけどさ!」と道端に座り込んだ。
「おう、言えや。論理国語の何がだめなんだ」「ち、違う! どいつもこいつも、私の言いたいことをわかってくれない! 論理国語が不要だって言っているわけじゃないの! ただ文学に触れる楽しさを閉ざさないでほしいだけなの。ほんの上澄みだけでも知る機会があれば、それはもう索引を得たのと同じことだから、いつでも触れられるようになるんだよ。それが教養ってものじゃないの。受験の役に立たないから文学国語は教えないとか、就職の役に立たないから文学部は不要とか、なんなの? 効率と合理性だけを追求していったら、人間である意味なんてなくなるでしょ。クソの役にも立たない教養や毒にも薬にもならねえ娯楽が、巡り巡って人間の生活をきっと豊かにしてくれるんだ。え、何? 蛇野は理系だから実感が湧かない? いやいやそんなことはないはずよ。黙々とプランクトンを同定する君に「その基礎研究って何の役に立つの?」と半笑いで訊いてきた肉塊を、細かく刻んで遠心分離器にかけた経験あるでしょ?」「あるわ」「そういうことだよ。人文学は人間の基礎研究なんだから。目に見える実益に結びつこうがそうでなかろうが、世界についての知識が増えるというのは、幸福なことなんだから」蠍田さんは一息に言い切ると、拾った文学砲を散弾に切り替えてホテルの入り口をバラバラと撃った。発射された弾は、モニョモニョと宙を彷徨い、着弾する直前に全てシャボン玉のようにポワポワはじけて消えた。「なんで当たらないの!」「それ以前の問題だろ。何から生成してんだよこれ」「ンキーー!!」蠍田さんが吠える。私はかつて遠心分離機にかけた肉塊に思いを馳せて、ウーン、ちょっと悪いコトしたかな。。。と反省するなどした。
「ずっと思っていたけど、私だけなの”こういう”人生を送っているのは。いるでしょ。いるはずなんだよ。文字の羅列に命を救われたり足をすくわれたりしながら生きている人たちが。幼少期にはやみねかおるを読んでしまったばっかりに、西尾維新とか東川篤哉とか綾辻行人を読み漁るだけの中学生生活を送って、なんなら今でもはやみねかおるを読んでんの私だけじゃないでしょ。阿津川辰海の『紅蓮館の殺人』がヒットしたときに「いや私は『名探偵は嘘をつかない』から好きでしたけどね」と不毛な古参アピールをしてたの私だけじゃないでしょ。『文字渦』とか『後藤さんのこと』の読んで、文字がただのメディアではないことに気づいて呆然としたの私だけじゃないでしょ。健全な思春期青少年の嗜みとして、ケシカラン・コミックの代わりに『トリスタン・イズー物語』とか公民の教科書で知った『チャタレイ夫人の恋人』を読んで変な汗を垂らしてたの私だけじゃないでしょ。角川文庫の『ドグラ・マグラ』を別の二冊の本でサンドしてレジに持っていったの私だけじゃないでしょ。何あの表紙!! 旅行先で、ここの観光地、西村京太郎トラベルミステリーシリーズに絶対ありそうだなと思って本屋に行ったらやっぱりあったっていう体験をしたことがあるの私だけじゃないでしょ。新潮文庫の名作新訳コレクションの表紙が素晴らしすぎて既に持っている内容の本を何回も買ってんの私だけじゃないでしょ。書店にも電子にもない『ラヴクラフト全集』を大学図書館で研究目的として合法的にコピーするために『犬と猫』でレポート一本書いたの私だけじゃないでしょ。いやこれは私だけかも。小学生のときは暗号文に見えていた森鷗外の『舞姫』が古文を習ったとたんあっさり読めるようになって感動したの私だけじゃないでしょ。文学史の暗記をしているクラスメイトに「川端康成も『舞姫』っていう小説を書いてるんだよ」と教えてあげたら「ややこしいことを言うな」と怒られたの私だけじゃないでしょ。岩波文庫漁りをしていたときに偶然手に取った『悪魔の辞典』に衝撃を受けて”罹患”の期間が二十年延びたの私だけじゃないでしょ。あれなんで岩波から出てんの?   ゴシック小説の話になると「フランケンシュタインは科学者のほうだっつってんだろ」と「ヴィクターは『失楽園』の神でありサタンなんだよな……でも怪物のほうはどっちでもないんだ……」を交互に繰り返すbotになるの私だけじゃないでしょ。『銀河鉄道の夜』しか宮沢賢治について知らない状態で東雅夫編『可愛い黒い幽霊 宮沢賢治怪異小品集』を読んで首の後ろの毛をボワボワに逆立てたの私だけじゃないでしょ。それ以来表紙に東雅夫編って書かれていたらとりあえず買うのは私だけじゃないでしょ。宮沢賢治のこと聖人ストーリーしか書かないと思ってる人に『毒もみの好きな署長さん』を勧めてニヤついてるの私だけじゃないでしょ。『胞子文学名作選』をジャケ買いしてページを開いて卒倒したの私だけじゃないでしょ。何あの装丁!! 『山月記』の感想文を書く授業で「虎は未来のワイかもしれん……」みたいなこと書いたらクラスの半分くらいとネタ被ってたの私だけじゃないでしょ。年長さんのときに児童書の定期購読で届いた偕成社の『夏ものがたり』のカタツムリの話が忘れられなくて、時たま読み返しては放心してるの私だけじゃないでしょ……実用的じゃないからって、合理的じゃないからって、ただそれだけでそんなに簡単に手放せるものじゃないはずなんだよ、文学は……」蠍田さんは、外郎売も顔負けの滑舌で思いのたけをまき散らすと、銃を抱えたままその場に座り込んで泣き出してしまった。もう動く元気は残っていないようだ。私は彼女を引きずってホテルに入り、フロントのソファーに座らせて、隣に掛けた。何を言ってるのかさっぱりわからなかったが、彼女が何か自分の人生を構築する大切なもののために叫んでいるということだけ、理解できた。文学が消えてしまうことで、彼女の中の何かが崩れてしまうようだった。読解力のない私には、そのくらいの理解が限界だった。

 蠍田さんの涙がすっかり枯れ果てるまで、私は彼女の隣で『毒と毒殺の歴史』を読んだ。冒頭でアガサ・クリスティーからの引用があり、テンションが上がった。会場からは、時折笑い声や歓声が聞こえる。文学が国語教育から消えようが、人の会話は消えない。三十分ほど泣きはらした蠍田さんは、急にしおらしく私に謝った。「なんかごめんね、愚痴っちゃって」「ほんまやで」私は彼女の長い三つ編みをくいくいと引っ張った。「今からでも、同窓会に出てみる?私たちは浮いていたけど、今となってはいい思い出なんじゃないかな、みんなにとっても」「そういう苦悩を美化するノリクッッッソきらい。滅びろ」「口が悪すぎる」不貞腐れる蠍田さんを引っ張って、私はパーティー会場に入った。

「へえ、蠍田さんは今でも読書が趣味なんだ。勉強家だね。やっぱり社会人になったんだから、ビジネス書とか自己啓発本でスキルアップしていかないとだね」「ヴヴウゥゥーー! バルバルバルバル(威嚇音)お前、大学生のときスタバでMacBook開くツーブロック経済学部野郎だっただろ(ド偏見)!!!」「蠍田さん、やめて! やめろ!」やはり今し方までテロを画策していたような人間に、同窓会などという社会的イベントをこなすのは難しいようだ。蠍田さんは、陽のオーラと意識の高さの光を浴びて、殺虫剤をかけられた虫のように愉快にのたうち回った。結局、親しげに話しかけてくれる同級生たちに嚙みつかんばかりの蠍田さんを羽交い締めにして、私は会場を抜け出した。もう帰っちゃうの蛇野さん、と同級生の誰かの声がしたが、ごめん楽しかったよ!  と雑に叫んでホテルを出た。同窓会なんて、生存確認みたいたものだ。この程度でも構わないはずである。
近くのベンチに蠍田さんを放り出して、ふと顔を上げると、透明なドーム越しに満天の星が見えた。まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて空中に沈めたような明るさだ。空の星と人口のライトが、花巻第3ドームをボワッと照らしている。「蠍田さん、過激なことをしなくても、文学は消えたりしないと思うよ」「消えかけてるもの」「どこかで生まれてもいるよ」蠍田さんは黙りこくった。私は彼女の頭を撫でた。汗くさい。「洗えや」ドームの縁のライトがふっと消えた。人口の光が去り、星が大きくなる。「訳のわからんやり方はやめてさ、小説に書くとかしろよ。文学が消えちゃった世界の話とか書いてみたらいいじゃん。文学の威力を信じてるからそんなクソひねくれた性格になっちゃったんでしょ。活かせそれを」「ウン」彼女は殊勝に頷いた。前向きなことを言ったが、私はもう文学は国語の中に戻ってこないんだろうなと薄々思っていた。そういう時代の流れを感じるのだ。彼女がいずれ書く作品は、ディストピアSFではなくノンフィクションとして刊行されるのだろう。それでも、蠍田さんの言葉や思いが誰かの心に響けばいいなと思う。どれだけ少なくなっても、彼女のように、文学に寄り添ってもらって初めて息ができる人はいる。「文学のいいところは、弱者を例外にしないところだよ」ベンチに蹲る蠍田さんが、ぽつりと呟いた。「国語も、そうあるべきなんだよ」今日一日よくわからん呪詛しか唱えていなかった彼女だが、その言葉だけは妙に寂しそうで、文学的でも論理的でもない、心の声だった。








あとがき


 2006年のセンター国語に出題された、松村栄子さんの『僕はかぐや姫』という小説をご存知ですか? これは、「オタクという言葉が人口に膾炙する少し前の時代、女子校の文芸部に所属する陰気な少女(一人称僕)が、友人たちと生やら死やら愛やら恋やら文学やらについてクダを巻く」というストーリーの小説なのですが、私は高校の国語の授業で過去問を解いたときに初めて読みました。当時、女子校の文芸部に所属し、友人と愛やら死やら善やら悪やら小説やらについてクダを巻いていた私は、もう本文の読解とかそういう次元ではなく「選択肢から身に覚えのある感情を選べ」というウルトライージーモードだったのですが、共感性羞恥でもはや自己採点どころではありませんでした。解説の間は、恥ずかしすぎて耳を塞いでいました。それほどに、この小説は(嬉しいか嬉しくないかは置いておいて)私に寄り添ってきたのです。
文学のいいところは、どんな個人にも寄り添えるところです。再現性がなく体系的な学問でないから、「その他」の枠を作らない。もちろんそれは全ての人文系の学問の欠点でもあります。しかし、この社会の仕組みの中で「その他」「じゃない方」として弾き出された人を、文学はいとも簡単に内側に組み込みます。その一例を、数篇でいいから教科書に載せておいてほしいなあと思います。文学は金を生まないという点には同意せざるを得ないですが、文学は人間に寄り添えるという点にも、ちょっと注目していただけたら嬉しいです。


ただし指導要領、テメーはダメだ

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?