いまごろどこで
10月、同僚が死んだ。
夕刻、胸をおさえて倒れた。それきりだったらしい。
***
その同僚とはフロアが違うから、私はその場にいなかった。救急車の音もまるで耳には入ってこなかった。しばらくして後輩のSが泣きながら駆け込んできて、Kさんの心臓が止まって運ばれた、と教えてくれた。いやいや、と思った。いやいやまさか、そんな大袈裟な。
彼とは2つ違いで、彼の方が年上で、転職してきた私に比べて職歴も彼の方が数年長かった。癖の強い社風のいろはを聞くうちに、彼と私は仲良くなった。嫌いなものが同じだった。理由はただそれだけだったが。
彼が倒れて救急車で運ばれたその日は、まだ笑って過ごせる余裕があった。しばらく入院になるだろうね、彼の仕事を引き受けなくちゃね。日頃の不摂生が祟ったんだろうなあ。少し残業しすぎなんだよ、・・・そんな話をみんなでしていた。
***
俺が死んでも、誰も泣いてくれないだろうな。
彼は昔、そう言ったことがある。どこか悲観的で神経質なところがあった。
別に俺が死んでも、世界は変わらずに過ぎていくんだろうな。
卑屈が過ぎる、と私は苛立って言った。誰が死んでもそうだよ、思い込み過ぎだよ。
***
翌日出社すると、隣の席の課長から、夜中のうちに彼は息を引き取ったらしいと聞かされた。ドラマや小説でよくあるような沈痛な面持ちなどではなかった。そうあるべき、という意識は感じられたが。しかし現実感は誰の中にも無かった。わたしたち全員、誰の胸の中にも。あまりにもあっけなかった。死ぬっていったい何なんだろうな。
フロアが違っていたし、担当している仕事も違っていたから、彼とは一週間、二週間、顔を合わせることも最近ではほとんどなかった。だから、もう二度と会えないのだと言われてもまるで現実感がない。死んだって? そんなこと言われても。よくわからない。どこか遠くへ出張にでもでかけてさ、しばらく経ったら帰ってくるんでしょう。お土産とか買って。遠くに行くとお土産買って来なきゃないから嫌なんだよ、とか、ぶつくさ言って。
***
え、なんで? ひと月過ぎた、今でさえ思う。
たった2つしか年も違わないのに。私は、この歳で自分が死ぬなんてまるで想像もできない。それなのに、明日が突然こなくなる、という事実をどうやって受け止めたらいい?
そんな戸惑いを、今まさに彼も感じているんじゃないか。
そう考えて、初めて胸が痛くなった。
***
葬式で見た、彼の遺影は、ことのほか彼らしく立派だった。
一瞬だけ垣間見えた棺桶の中の彼の顔は、土気色で妙に膨れて見えた。
彼のお母さんの刺すような泣き声が、耳から離れない。親を泣かすなんて、それはお前、あんまりだ。頑張ったね、頑張ったね、って、そんなこと言わないであげてよ。頑張らなくてよかったんだよ。生きてる方が、本当はずっとずっと偉かったんだよ。
***
あれから季節は唐突に冬になって、冷たい雨が雪になり、吐く息も白くなった。暖房を焚き始めた室内では窓を開けることも少なくなり、世間では、そのせいで感染者が極端に増えはじめた。アメリカでは大統領がいまにも変わろうとしていて、まったく、世の中は何も変わらずに過ぎていく。
彼がひとりいなくなったところで、何も変わらない。
でもね、葬式ではみんな泣いたよ。
あなたの部下だったSは最初から最後まで号泣していたし、普段何を考えているかわからないTでさえ、肩を震わせてずっと手を合わせていた。病院まで付き添った一番若いOは終始呆然としていたけど、心にどんな傷を負わせたか、お前わかっているのか。
ほら、みんな泣いたじゃないか。自分が死んでも誰も泣かない、なんて、そんな卑屈なこと考えて、勝手に凹んで。馬鹿だな。みんな泣いてたよ。泣くんだよって、教えてやるから帰っておいでよ。
いまどこにいる。
なんで死んじゃったんだよ。
***
彼の葬式から数日が過ぎた頃、Sがどうしても話したいことがある、と私のところへやって来た。
昨日ね、Kさんの夢を見たんですよ。Kさんと電話する夢。
ふざけた感じで、ねえSちゃん、こんな世界って本当にあるんだね!って言われたんです。びっくりしちゃったあ・・・。
―――あんなに泣いていたSが、笑いながらそう教えてくれた。
そっかあ。私はそんな気の抜けた相槌を打ったと思う。
少しほっとしたのだ。彼が死ぬ間際に書いた翌週のスケジュールを眺め、やり残した仕事を整理し、この時には彼は死ぬつもりじゃなかったんだろうな、と思いながら、無念だったんじゃなかろうか、悔いて、帰れないことに戸惑っているんじゃなかろうか、と、そんなことを考えていたから。
天国も地獄も、霊魂もスピリチュアルなことなど何一つ、私もSも信じてはいない。
それでも、その話は不思議と真実味があった。
どうやら向こうの世界のことを、彼は楽しんでいるらしい、と。
それならいい。
それならいい。彼が悔いていないのなら、悲しんでいないなら、それでいい。こっちのことは私たちがぜんぶ片づけてやるから、そっちの世界を思う存分、楽しんだらいい。
楽しんでいてくれればいい。
それでいい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?