【エッセイ】「何かを求めている限り、その何かは手元にはやってこない」のはなぜか?「恒常性という澱み」の話
どうもこの頃は調子が悪く、プライベートで芳しい出来事が少ない様に思える。
ただ漠然とついていないと内心ふて腐れて過ごしていて、突然閃いた。
「『その瞬間欲しかったモノ』を得られなかった事は多かったが、同じくらい『昔欲しかったモノ』を得られた事も多いのではないか」と。
以前、私はどこかで「何かを求めている限り、その何かは手元にはやってこない」という言葉を聞いた事があった。
今までは諸手を挙げてその通りだと思っていたが、この閃きでその理屈がわかった様なのである。
具体的に言うならつまり「『それを手に入れる為の条件』を満たして始めて得られるにも関わらず、それを満たしていないから手元にない、あるいは手に入れられても長居はしない」という事だ。
何かを欲しいと思ったその時に「何故今『それを手に入れる為の条件』を満たせていないのかをゆっくり考えればいい」とは言えるが、その条件は考えたところですぐ手に入る様なモノではなかったのだ。
その仕組みが何なのか、何故欲している限りそれが手元にやってこないのか。
それはズバリ「習慣」なのだと、「習慣を支配する『(持っていないからこそ欲しいという)単純な欲望』と、それと矛盾する『(持っていないモノを獲得して変化する事を嫌う)恒常性』とで競合してしまっているから」だと閃いたのだ。
●何故「何かを欲しい」と思うのか?
私はこれを「少しでも早く『自己の満足という本能的欲望』を満足させる為」だと仮定した。
当然、それが何であれ、求めている時に手に入れば安心するし、時期が過ぎてから手に入っても既に遅いから手に入れた時の感覚は鈍いものに成るだろう。
何せ人は「宙ぶらりんの時間を苦痛と捉える」のであり、「第一選択肢が無効なら第二選択肢で実行して手っ取り早く満足したい」と考えるのだ。
加えて「『より良い時間対効果、費用対効果の選択肢』の方がより多くを算出できて自己満足しやすくなる事」からも、「『早く欲求を満足させたい=気持ちよくなりたい』という『欲求満足への欲』が働いている」と仮定したのだ。
また、欲については心理学者アブラハム・マズローが「5段階欲求理論」でそれを体系的に説明している。
端的に表すなら「欲求はピラミッド型になっていて、より低次な欲求を満たす事で、より高次な欲求を求める事ができる」という理論で、言い換えるなら「『(知性・品性ともに優れた)高次な欲求を持っている人』は、既にそれに至るより低次な欲求を満足している」のだ。
つまり「ある欲求を満足させる為には、その下にある欲求を満たさなければそもそも満足する事ができない」という訳である。
これは人間が進化の過程で獲得した「その他動物と一線を画すOSの様なモノ」で、私はこれなくして文明の萌芽や技術の発展は不可能であったと考えている。
●「余裕の確保」が第一条件
高次欲求の存在が文明たらしめていると考える理由は「銀行口座の残高」を考えればわかりやすい。
例えば「毎月の収入と支出が釣り合っている場合」、翌月に繰り越される額=貯金は僅かか無し、これでは趣味への支出を控えるなど節制が強いられたり、急な出費の際には何かを削ったり他者からお金を借りたりしなければならない。
「毎月の収入以上に支出がある場合」は言うまでもない。
他方「毎月の収入に対して支出が少ない場合」、(特段急な出費がなかったとしたら)貯金が生じ、収入が安定していけばその信頼度から「ローンを組んだ高額な買い物」も視野に入れる事ができるだろう。
ここから言えるのは「『最低限暮らしていく為にかかるリソース』が用意できなければ、やりたい事をするにも維持できないという事」である。
「最低限生きていけるだけのリソース」が確保できて始めて「生きやすくする為のリソース」を用意でき、更に生じた余裕が「『未知を知りたい』とか『自己表現したい』という様な興味・関心への支出」を可能にさせているのだ。
この探求の姿勢はマズローにおいては「自己実現欲求」と言われ、5段階欲求説では最上位に位置する「下位4つの欲求を満足させる必要があるモノ」とされている。
(もっとも、厳密にいうなら「『想像力・記憶力・言語化力という神経構造的な素質』があって初めて高次欲求を抱く事が可能になった」のだが、今回はそれについての詳述は省略する)
●自己実現欲求はなぜ抱かれるのか?
これに関連して、「何故自己実現欲求は抱かれるのか」について個人的な解釈を少し述べておきたい。
つまり「人の脳が持つという『無意識的に“知っている・覚えている情報との関連性”を発見する(ヒューリスティックと呼ばれる)機能』がそうさせているから」だと考えている。
これは人が持つパターン認識能力に由来した結果であると考えていて、極端な話「接点のなさそうなもの同士でも連想ゲームができてしまう様子」から何となくわかると思う。
そのルーツは「原初人類が野生の脅威に対応する為」であると言い、例えば「『揺れる藪』と『藪から飛び出してきた猛獣に襲われて死んだ同胞』という類似するシチュエーションの結び付け」の様な形で機能していたとされる。
しかし現代ではその様な危機はほとんどない代わりにこの機能は頭脳労働で多用され、その延長線上にAIが存在し、さらにその先は想像だにできない。
そしてこの「本来とは別の使われ方をする機能」というのも余裕の産物であると、私は考えている。
加えてここには「『永く覚えていて欲しい・忘れてほしくない』という根本的な願い」も関連していると考える。
死は「人格の喪失」を指し、物理的にも感覚的・直接的にも他者に干渉する事ができなくなる。
それは「死後、自分という人格が何かを残す事が不可能になる事」を意味し、言い換えるなら「残った人が故人を評価するには『生前に残したモノ』を見る他ない」のである。
そして人類史では9割以上の人が忘れられ、「時を経ても誰もがその名を知っている人」というのはごく限られている。
では何故一握りの人達は歴史に名を刻む事ができたのか?
それは「人類という種族において貢献したから」である。
「月面着陸の様な実績、相対性理論提唱の様な新たな知識、国家間の友好関係構築の様な関係性」の様な「どれだけの時間やお金をかけたとしても得られるかわからない『その人だから得られた成果』」だからこそ人はその者を称え、その組織が続く限り語り継がれ、その者は半不滅性を得るのだ。
とはいえ「死んだらそもそも『忘れられて悲しむ心』も存在しなくなる」のであり、故に「自分の死後を想像した自分が悲しくなるから、同じ様にして欲しくてそうしているだけ」ともいえる。
ともあれ、自己実現欲求はつまり「自分が死んだ後も覚えていて欲しいという願いに由来した『半不滅性を得る為の種族への貢献を目指した欲求』」だと考えたのである。
そういう訳で私は「何故『何かを欲しい』と思うのか」について、「宙ぶらりんの時間を嫌う事」「欲求満足への欲が働いている事」「余裕があって初めて無いモノを欲する事ができる事」から「少しでも早く『自己の満足という本能的欲望』を満足させる為」だと結論付けた。
●恒常性とは何なのか?
ホメオスタシスともいわれるそれは医学用語で、辞書においては「生物の生理状態などが一定する様に調整される性質」とされている。
例えば主として自律神経系と内分泌系が働く事で体温・血糖値・血液酸性度等は一定に保たれている。
そして恒常性の働きは心身に影響し、特に「環境の変化」に分かりやすく現れる。
例えば進学や就職・転勤・転職に際して、それまでの慣れた環境からの急激な変化の結果、心身の調子を崩して療養を要する人が多くみられるのは珍しくない。
この時潜在意識では「『生命維持の為に慣れ親しんだ環境へ戻れ』という反応(負のフィードバック)」が生じている。
これは日常生活や精神に安定を与えるという意味で必要な一方、「現状からの変化を嫌う=成長(変化)がない」とも言える。
そしてその反応は「『顕在意識で望んだ何か』を欲した時」にも等しく働きかけ、恒常性の抵抗が心身の不調として現れるという訳である。
●海に浮かぶ氷山
その上潜在意識が手段に占める決定権は顕在意識のそれよりも大きい。
これは一般に表面から見えるよりも大きな背景が存在する事の例えとして「海に浮かぶ氷山」が挙げられる。
この時「水面に出ている僅かな部分=顕在意識」「水面下に沈んでいるほとんどの部分=潜在意識」とされ、「顕在意識では水面から上の部分しか干渉できない」とされている。
例えば(顕在意識的に環境の変化を企図するとか)何らかの理由でその氷山を動かそうと思えば「その重心を推し進める事」を考える。
(さもなくば余計なけん引力が必要になったり、回転して崩壊・けん引船に被害が出る可能性があるからだ)
だが重心がどこかも、どれくらいの重さかもわからない上、水面下には干渉できず、よって「ピンポイントで動かす(=顕在意識的に潜在意識を変容させる)のは難しい」といえる訳である。
結果、水面から上の目に見える領域(顕在領域)の変容のみに終始し、投じたリソースの割に成果は乏しく、変化は失敗に終わるのだ。
以上の様に「『変化を望む顕在意識的な欲望』と『変化を嫌う潜在意識的な恒常性』が競合した結果、変わろうとしても変われない(得ようとしても得られない)」と納得するに至ったのである。
●本当に「欲望と恒常性」だけ?
だが「いくら求めようとも、必ずしも求めているモノは得られない訳はないのではないか?」とも思う。
そこで他に何か原因があるのではないかと考え、上の内在する2つの思惑に加えて「現代人の性急さ」と「その時自分が持っていない条件のほとんどが『自分が持っていないモノ』で構成されている事」が関係していると考えた。
●現代人の性急さ
ここでいう性急さとは「投じるリソース(資源・費用・労力・時間)に比して得られる成果が多い事」を指し、特に時間対効果の事を指す。
恒常性が邪魔をするとしても「現実問題として新環境に適応しなければならない状況」は多く、調子が悪かろうとも正直な体の悲鳴を押し通さなければならない事は多い。
ただでさえ無理をしている上に「欲しいモノを獲得する為に急激な変化を厭わない行動」をとった結果、それはまるで「プールの中で急いで歩く様」に、急ぐ程に恒常性が呈する抵抗も大きくなるのである。
成功者になる為とか英語が話せるようになる為の本は世に多く出版されているがその割に斯様な人が少ない理由がまさにここ、「変わる事を急いでいるから」なのだと思うのだ。
それにこれは上で述べた様に「何かを欲しいと思った時の『少しでも早く『自己の満足という本能的欲望』を満足させたい』という動機」がそうさせていると言えるだろう。
●欲しいモノは「自分が持っていないモノ」で構成されている
次いで「自分が持っていないモノ」とは必ずしも「お金や車や家、人間関係の様な『物質的・対外的なモノ』」ばかりではなく、何らかのスキルや資格の様な「想像力・記憶力・言語化力、その上に座する知性・品性の様な『抽象的・対内的なモノ』」も含む。
例えば「スポーツ観戦を楽しむ為にはそのスポーツのルールがわかった方が一層楽しい」様に、あるいは「弱い人の気持ちがわかる事で見下したり驕り昂ぶったりしない」様に、「『目に見えないモノも含めた道具』が揃ってようやくスタートラインに着いた」と言えるのだ。
また「持っていないからこそそれを欲しいと思う」のだから、それは自分が持っていないもので構成されていて当然なのだ。
加えて「それを得た時の様子を考えてどうしても欲しくなって、衝動的だったにしても熟慮を重ねた上だったにしても、条件さえ揃えば『獲得する事はできる』」のだ。
しかしそれが実績にしろ知識にしろ関係性にしろ、「『維持できるか』は自分が持っているモノ次第」なのであり、故に無理して何かを得る事は不可能ではないと考えたのだった。
●器と器に中身を注ぐバルブ
話は戻って、「『変わりたい顕在意識』と『変わりたくない潜在意識』という二極対立」を、私は「『器に注がれる中身の量を調整するバルブ』の様なモノ」だと考えた。
この時「器=自分自身」「中身とその量=『知識と経験(インプットとアウトプットの結果得られるフィードバック)』」であり、「バルブを解放しようとする力=変化を望む顕在意識」「バルブを閉めようとする力=恒常的な潜在意識」とする。
「何ができるか」で器の大きさも形も異なり、ひとつとして同じモノはなく、千差万別だ。
中身も同様、何を知って何を経てきたかでそれがスープなのか潤滑油なのか溶けた鉄なのか、用途も価値も人によって異なってくる。
そしてその深さや大きさがいわゆる器量なのであり、個人の人間性を計る際の評価材料になる。
更に注がれる中身の質・量がどうあれ「得られる知識・経験によって器の中には流れが生じている」のであり、一定の鮮度・透明度が保たれているとする。
●澱みの存在
ここで考えたいのが「一切バルブを開けずにインプットもアウトプットもしなかった時(変わりたいけど恒常性に抗えなくて変われない状態)」である。
その原因は仕事や人間関係や手元のリソースに余裕がない事かもしれないが、ともあれ「目の前の作業をこなす事だけで精一杯な様子」が目に浮かぶ。
ではその時「器の中」はどうなっているだろうか?
余裕のない背景も考えれば尚わかりやすいが、バルブは開かないか開いていても僅かな流量しかなく、したがって「流れは失われて、澱んだそこには何かが沈殿している」かもしれない。
そしてその沈殿物こそ心身の不調を生じさせる「ストレス」なのだ。
それは「『周りの健全な液体や器そのもの』を腐食させ、その結果心身症状として顕現、これ以上の無理をできなくさせる」のだ。
そうして心身症状として不調が現れているにもかかわらず対処をしないまま放置された器には遂に穴が開き、中身が流出する事になるだろう。
これは「人に備わった緊急装置」なのかもしれず、その目的は「強制的に中身を流出させる事=流れを生じさせる事(心身症状を発生させて強制的に休ませて延命させる事)」なのだと思う。
何せ「腐敗の『更なる有形を生む為に、限界に至った有形を無形に戻す』という作用」は現実世界でも見られる「自然界の大きな循環システムの一つ」なのだ、それが自然界を構成する人間の中にあっても不思議ではないのである。
そういう訳で「得るものがあって流れが生じて、鮮度・透明度が保たれている」とした理由はここにあり、さもなくば心身は否応なしに不調を訴え、休まざるを得なくなるのである。
よく言われる「ストレス発散」は澱みの解消に他ならず、例えばその解消の為に映画や書籍を読んだり原因や対策を知ろうとすればインプットやアウトプットに、つまり「流れの発生」に繋がるのだ。
●器の中身が澱んだ人
「器への入出力とその質・量」も重要だが、肝心なのは「その中には流れが生じているか」である。
例えば流れが失われた人には「形骸・慣習の様な過去の神話にすがるガンコな人」がいる。
「受け入れる事で全体としてプラスになる様な新しいモノ」があったとして、進歩主義的であったり新規のアイデアに対して柔軟に対応できる機敏さを持った人は時間をおかず取り入れる事だろう。
しかし「過去に大きな成功を得たり実績を残した経験」が強すぎると、それは自信やアイデンティティを構成する要素にさえなり、確固な地位を得たそれは新しいモノが入る余地を奪い続けるのだ。
つまり「新しいモノよりも自身の知識・経験に多大な価値があると思わせ、固執させる」のである。
それこそが恒常性に由来しているのであり、「これまでそれで成功してきたのだから、わざわざ他のスタンスを取り入れる必要はない」と、あるいは「思考するリソースを捻出して吟味するのが面倒」と考えさせるのだ。
その結果「新しいモノであれば対応できるシーン」において取り入れた人達が生き残る一方、過去の栄光にすがった人達は対応できないか何とか対応したもののリソースの余裕がなくなる様にして淘汰されることになるのだ。
●「引っ張って動かない氷山」をどうやって動かす?
では「『新しいモノに目もくれず、過去の成功に固執させる恒常性』に抗う」にはどうすればいいか?
上の顕在意識に対する潜在意識の例えで「どれくらいの重さなのかも重心がどこにあるかもわからない氷山を動かすのは難しい」と言ったが、動かすには別の方法もある。
「周囲に流れを作ってゆっくり運ぶ」のだ。
我々が住まう現代資本主義社会には「『何にしても効率よく・無駄なく済ませたい』という思惑」が潜んでいる為、時間が掛かりすぎたり時間対効果が乏しいなら他の選択肢を検討する節がある。
またこれも上の現代人の性急さの例えで述べたが、「恒常性は流体と同じく『急ぐ程抵抗が大きくなる』」と考えられるから、そもそも相性が悪いのである。
恒常性の抵抗を小さくする為には「急がない事」が求められ、つまり「『習慣として身に着ける事』で、変わりたいと思う顕在意識に対する抵抗を小さくする事ができる」のだ。
そして恒常性が弱まると「『器に注がれる中身を絞るバルブ』も解放され、器の中に流れが生じ、澱みも解消される=知識・経験の入出力を通してストレスの少ない健康な心身状態を維持できる」のだ。
更にその習慣は「まだ持っていない『スタートラインに立つ為の道具』の獲得と、永く持ち続ける事」を可能にさせる。
つまり「『その何かを得る為の習慣が身に付いていない』から、求めようともそれは得られない」なのだ。
もし求めた時に得られたなら、それはその時までに「それを得る為の習慣が身に付いていたから」であり、得られたとしても長く維持できなかったのは「それを得る為の習慣が身に付いてなかったけど、無理して獲得する事はできたから」なのだ。
そして私も例に漏れず、あるモノを欲しいとは思っても得られなかった。
その原因がそれを得るに相応しい習慣を持っていなかったからだったのかと、その経験を経てタイトルの一言を改めてみて、閃いたのだった。
「その瞬間欲しいと思っても、後に手に入るケースがあった」というのは、「その後にそれを得る為の習慣が身に付いて、自然と獲得できたから」だったのだろう。
だが今度は「如何にして習慣を身に付けるか・維持するのか」という問題が立ちはだかるだろう。
これは何かモチベーションになるものを見付けて身をもって経験していく他ないだろうが、これもいずれ考えてみようと思う。
●現代人は急ぎ過ぎなのである
まとめると以下の様になる。
「『恒常性という重く大きいフライホイール』を動かすのに時間が掛かる」という前提に即した環境であるべきが、「利益追求は戦争であり、兵は神速を貴ぶ」と言わんばかりに速さを求めているのだ。
難題を前に多くの人が無理をしているのであり、調子が悪くなっても当然の仕組みをしているのである。
しかし現実問題それでもバランスを取って飯のタネを見つけ続けなければ喰いはぐれる事になってしまう。
私はこの不合理に憤っている訳だが、それは別の記事(怒りと絶望の正体)を参照されたい。
この記事が私の新たな習慣の為に、誰かの善き人生の糧になればうれしく思う。