「未熟な二人すらも愛が育てる」と言う話
今ですね、カウンセラーさんにお勧めされた「愛するということ(エーリッヒ・フロム)」という書籍を読みながら、再度マインドマップを作るべくノートを取ってます。
かれこれp.56、2章の2項目目まで読んだところなんですがね、すこし気になったことがあったんですよ。
それで気になったことというのが、フロムは著書で「"配慮"、"責任"、"尊重"、"知"が備わってこそ甲は乙を愛せるのだ」みたいなことを言ってるんですが、そうとは言い切れないかなぁ?と思うところがあったんですよ。
というのも、若輩者なりにも愛の様々を見てきているんですが、「お互いが未熟な場合でも案外なるようになってる夫婦」ってのもまぁいるわけで、なぜ故彼らは関係を維持できているのかが気になったんですよ。
しかし未熟な中にも、確実に愛があるからこそ存立してると思うんです。
(必要最低限の愛かもしれないですが)
それでなぜ、高校中退した者同士が(あくまで例えですが、)そこそこ上手くやっていけてるのかを考えてみたんですが、いくつか条件が揃ってたからこそ「未熟だったお互いの愛が育まれた」のかなと結論が出たんですね。
その条件っていうのが「結婚という形式」と「慣習化されている暗黙の相互了解」と「子供の存在」です。
結婚っていう形式っていうのはつまり「これからは一人の体じゃないからヤンチャできないぞ」っていうことを、いわば大衆の前で宣言してることと捉えられるかと思います。
「暗黙の了解」っていうのは形式と似て入るけども、取り巻く環境からの視線や扱いが途端に変わるわけで、そこからお互いがひしひしと自覚していくって言っていうことで、
「子供の存在」っていうのは、直ちに「現実的に養う手段を確立せねばならない」っていう責任問題になってくるし。
だから、結局付き合って当初、あるいは結婚して間も無くの頃は持ち合わせていなかった"(配慮とかの)愛の四要素"が、それら3条件を含みながら時間を共有することで、時を経る中で自分の「愛してる」という状況を自覚していって、確実にその4つの要素が成長していくから、結果的にお互いに「案外上手くやっていけてしまう」のかなぁと思ったんですね。
(無論、思考実験みたいに"あらゆる条件が安定化されていて、外乱の一切を考慮しなくていい"みたいな環境は現実社会にあろうはずもないでしょうね。
例えば"実際は職場のお局にコテンパンにやられた"とか、"保育園のママ会でガミガミ言われた"とか、"会社から帰ってくる時間が遅くてお互い勘繰っていやーな雰囲気になったり"ってのはあって、「愛の推移具合」は真っ直ぐ右肩上りじゃないでしょう、ということです。)
私、過去にそう言った人たちがいたにしても、主観として「愛している」っていう感覚がまだわからんのです。
しかし、私みたいに「愛とはなんぞや」ってのがわかんなくても世の中人が増えていってるってのは、こういうことなんだなぁってすこしわかった気がしたんですよね。
「未熟でも人間愛していける」って問題に対して「3条件を時間をかけて共有してくから育まれる」と結論付けたんですが、識者の皆さんはいかがお考えでしょうか。
若輩者の身には、皆さんの「愛の捉え方」を綴るお言葉に気付きを得るばかりです。
お教えいただけることがありましたらぜひコメントにてご教授いただければと思います。
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