おばあちゃんとの思い出
なかなか眠りにつけない夜にはいつもおばあちゃんを思い出す。
「目つぶってたらいつか眠れるから。目つぶっとき」と眠たそうなおばあちゃん。僕が眠りにつくまで横に一緒にいてくれた。
こんな暑い夏の日に、僕はおばあちゃんを思い出した。
僕のおばあちゃんは四年前の夏に亡くなった父方の祖母である。僕を小さい頃から大変可愛がってくれた。
「はるくん!よく来たね。」
いつも笑顔で出迎えてくれた。
僕は、週末になると必ずおばあちゃんの家へ泊まりに行っていた。僕のお母さんが厳しく口うるさかったこともあって、甘々なおばあちゃんの家へ逃げていたところもあったと思う。
おばあちゃんの家には「ハイチュウ」「じゃがりこ」「カルピス」が僕のために常備されていた。家には絶対おいて無くて、まるで天国のような場所であった。
朝には僕の好物である「海苔がパリパリのおにぎり」「卵焼き」を用意してくれた。おばあちゃんが握るおにぎりは本当に美味しかった。
至れり尽くせりのオモテナシを毎週末受け続けていて、今更ながら感謝と申し訳ない気持ちを抱く。
あの頃、幼少期の僕は超甘々なおばあちゃんに甘えきっていた。
おばあちゃんは夜、僕がお漏らししないようにトイレに起こしてくれて、トイレまで一緒についてきてくれた。
僕は恥ずかしながらお漏らしがなかなか治らず、おばあちゃんは毎朝裏山の神様が祀っている所で、
「はるくんのお漏らしが治りますように。」
といつも祈っててくれた。
そんな僕も小学生になり、少年野球チームに入って週末が少し忙しくなった。毎週土日に野球があったので、金曜日の夜に泊まって土曜日の朝に野球に出発するという形が多くなっていった。
それでも、おばあちゃんは変わらず甘々で
「はるくん。はるくん。」と可愛がってくれた。
当時流行っていたムシキングのゲーム機にも連れてってくれて、おばあちゃんに甘えすぎていたと後悔する。
お母さんは教育熱心で厳しかったなと思うルールは
「1日ゲームは30分」
ゲームばっかりしてると目が悪くなるから。という理由と、ゲームばっかりしてないで勉強しなさい。ということらしかった。
そんな僕は毎日30分の限られた時間の中で、DSのポケモンをどこまで進められるかというところをシュミレーションして、いかに効率よく進められるかという努力を行ったり、土日の朝6時くらいに起きてこっそりお母さんの目を盗んでゲームを進めた。
しかし、1日30分ルールの効果はむなしく、僕は小学3年生からメガネをかけている。
また、お母さんに怒られて、家に放り出されることもしばしば。
一番覚えているのが、小学校の夏休みの宿題の自由感想文で誤字、脱字をせず完璧に書けるまで家の中に入れないということがあった笑
僕は何十枚も書き直して、半べそで書き上げた。(あの時は、賞を貰えて嬉しかったが)
ある時、弟と喧嘩してまた、家に放り出された。そうだ、おばあちゃんの家にいこうと思った。幸い、家から歩いて15分くらいの場所だったので僕は簡単に行けた。
お母さんに放り出される時は、よくおばあちゃんの家に避難した。
おばあちゃんは黙って僕を迎え入れ
「はるくん。後でお母さんに謝りや。」と言った。
おばあちゃんの家では、くもんの宿題と後はDSでポケモンをずっとしていた。まさに、天国であった。
そんな僕も中学生になった頃。
部活動が始まりおばあちゃんの家へ行くことは極端に減っていった。週末におばあちゃんの家に行くことは無くなり、会うのは半年に一回とかそんなペースになっていた。
放課後は夜遅くまで野球部で練習をして、夜には塾に通うという生活リズムに変わった。
小学生の頃に好きだった。ムシキングもポケモンもしなくなった。
おばあちゃんは、たまにお小遣いとお菓子とを家に持ってきてくれた。それをお母さんが受け取って、僕が後でお礼の電話をかける。
「おばあちゃんお小遣いありがとう。また、今度家行くね。」
「はるくん。元気にしてる?勉強も野球も頑張って!。忙しいやろうからもう切るね。」
電話は大体すぐ終わる。おばあちゃんは気を遣ってすぐ話を切り上げる。そんな、電話するくらい時間全然あるのに。そんな気を遣わなくても。
そんな僕は高校生になった。
「文武両道」を掲げた公立高校で、勉強も野球も全力で取り組んだ。高校に行ってからは勉強時間は確保していたものの、勉強は苦手になっていった。
高校生活は非常に楽しく、毎日が一瞬で過ぎていった。
高校3年の夏に野球部を引退して、受験勉強を頑張っていた。そんな勉強モードに入った時、
「おばあちゃんが倒れた。」
という知らせが入った。
僕は全く何のことか理解が出来なかった。こないだまで元気だったやん。電話してたやん。こんなことなら、もっとおばあちゃんの家に顔を見せに行けば良かった。もっと、玉子焼きを作ってもらいたかった。
その後、おばあちゃんのお通夜に制服で駆けつけた。もう、病院に運ばれた頃には息を引き取っていたとの事で僕はおばあちゃんの最後を見届けることはできなかった。
おばあちゃんは棺の中に入っていた。僕はおばあちゃんの死をすぐには受け入れられなかった。
おじいちゃんが近くに寄って来て
「ばあちゃん死んでしまったわ。」
多分、おじいちゃんはパニック状態で、涙ながらに僕に言ってきた時はどう対応していいか僕は困惑して何も言えなかった。
英単語帳を片手に準備していたが、一回も英単語を見ることは無かった。
おばあちゃんの死を目の当たりにしても僕は涙が出ず、なんで泣けないんだろうと考えたことを覚えている。
次の日に葬式があって、近くのセレモニーホールで式は行われた。
おばあちゃんの若かりし頃の写真や幼少期の僕たち孫との写真などが動画で上映された。その後、みんなでお経を読み、お焼香をしに前に出た。そんな時に僕はうるっと涙がきそうになった。みんなでお経を読みながら、おばあちゃんの写真を見て、おばあちゃんの別れを整理していたのかなと思う。
お通夜やお葬式などは死人のためではなく残された人のための儀式だと僕は思う。
それから4年が経った今この頃。
僕は大学4回生である。
おばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんが一人寂しいということで夕方になると僕の家にやってきて、夜ご飯を食べるようになった。あれから、3年、4年が経った今でもその生活は変わらない。
「おじいちゃん元気?」
「うん。元気じゃない。」
おじいちゃんは、嘘でも元気だよ。って言えない
一人残されるということは相当寂しいものなのかなと思う。おじいちゃんには楽しく残りの人生を生きてもらいたい。
おばあちゃん。
就職先が決まったよ。今はゴルフばっかりしてるよ。
世間は、コロナという病気が流行してみんな不自由な生活です。おじいちゃんは寂しそうにしているよ。また、おばあちゃんが好きだった白あんパン持っていくわ。じゃあ、お元気で。
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