"Save our scene."
「STAY HOME」期間が長く続いて気苦労も多いけれど、ようやく、若干の安心を取り戻せるようになってきたように感じる。そんな中で「東京アラート」が発令され、感染者もあり、まだまだ落ち着けない日々を送らざるをえない。
前のエントリーにも書かせてもらったように、引き続き、くれぐれも【油断】は禁物である。
私は岡山在住(とは言え首都圏の友人と多く繋がっているので感覚の共有はしているが)のため、幸いにもそこまでの制約にはあっていないものの、気持ち自体は全く落ち着かない。
一方でコロナ問題が長期化するごとに様々な情報が顕在化してきて、自分のフィルターの持ち方次第で、あまり惑わされることなく個々人が実行できる対策の知識がそれなりに出そろってきた感じもある。
不確かな部分も多いが、あえて上記の姿勢で私の考えを述べたいと思う。
少し考えてみると当たり前のことだが、「STAY HOME」と「Social Distancing」は全くの別物であり、何となく同列的に扱われてきたこと自体が不思議なくらいだ。
東京独自の注意喚起が発動されているが、先述の私の持論でいくと、個人がすべき対策を理解できている人はきちんとそれを講じた上で、安全第一で行動すべきだと思っている。
そのための手法としてのソーシャル/フィジカルディスタンシングなのではないだろうか。
なぜなら、人が動かなければ、街も動かない。
細かな経済的な個別議論に触れるつもりはないが、俯瞰的に見るとそうだ。
先輩の表現を借用させていただくと、「街場の店が死ぬと街も死ぬ。」
街が動かないと、私たちが慣れ親しんだ「景色」を失うことになってしまいかねない。私の価値観としては、それはめちゃくちゃに寂しい。
いつの時代も、大きな出来事がなくとも、変わるものは変わる。
しかし、守ることのできたはずの命や、無意識のうちに失ってしまったものの喪失感は、言葉に出来ないものがあるのではないだろうか。
黒住教教祖宗忠はこのように教えを説いている。
「心は大磐石の如くおし鎮め 気分は朝日の如く勇ましくせよ」
「心配はせよ、されど心痛はすな」
今の世の中は一人ひとりの意識にかかっている。
世の中の全ては人だ。
家も、店も、街も、それらの全てが人だ。
「街の景色」は人で成り立っている。
別に多くは語らない。
だけど、一人ひとりが出来る最大限の感染予防や対策をした上で、無理の無い範囲で、いつも通りの営みが再開すれば嬉しいなと市民の一人として心から思う。
”Save our scene.”
街の景色を残そう。
「新たな日常」への探検が私たちを待っています。
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