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厄年か、役年か。

先日、日ごろよくお世話になっている先輩が神道山へお参りに来られて、その「厄祓い」の御祈念(御祈祷とも言われる)をおつとめさせていただいた。

私はこれまで「厄年」について当事者意識をもったことがあまりない(年齢的に)ので改めて考えたことをnoteでも共有してみたい。

そもそも厄年とは、陰陽道・暦学・方位学などにより導き出されたもので、古来人々の体内周期と深く関連をもち、心身・運気の盛衰を測るものさしとして大切にされてきているけど、今となっては風習的な概念になっていると思われる。

とは言え確かに不安だし、不吉なことがあったらどうしようという怖い気持ちは、私にも無いなんてことはない。一方で、正直言って自分の何歳の年が厄年なのかを知りさえしなければ、いわゆる厄難的なことが多少あったとしても「最近ツいてないなぁ...」ぐらいにしか思わないで済むかもしれないなとも感じる。

時期や状況にかかわらず、物事が上手くいかないとき、人は自然と謙虚になって、日々の行いや暮らしを顧みたり人にもっと丁寧に親切にしたりする心がけが生まれて、ふと気が付いた時には気持ちが晴れていたりすることがあったりするのではないだろうか。

黒住教の教祖宗忠は『心配はせよ、されど心痛はするな。』と教えを説いた。周囲との関係性において「心配(=心を配る)」することは素晴らしいものの、自らがマイナス思考に陥って「心痛(=心を痛める)」してはいけないと解釈でき、心の持ちよう次第で悪いことばかりではないと気が付く。

また、「やく年」と聞くと困難や災いの意味での「厄」ばかりを連想してしまいがちだが、実は「役」という意味も込められていて、「転機を迎える時」でもあるとされてきたこともぜひ知っておきたい。

かつて日本全国の村々には鎮守の杜(氏神様)があり、村民たちが協力してお祭りが行われてきた。その中で一定の年齢に達した人は経験が認められ、お祭りの中心である神事において重要な役を任されるのが慣わしで、いわば通過儀礼の一種だったとのこと。

つまり役職や役割としての「役」だと考えることができる。

もっと言うと、平時以上に人や社会のお役に立つために頑張ろうと気合いを入れるべき年なのかもしれない。いずれにしても何がしかの転機を迎えるのかもしれないと信じるのであれば、神社やお寺にお参りして決心を固めたり、欲や執着心から離れて気持ちをリセットできるような行為の実践などを通して、より明るく健やかに、純粋な姿勢で事に当たっていくのが良いと思う。

ちなみに、もちろん私個人として「厄」を軽視しているわけではない。

通り一辺倒に恐れるということはせずにあくまでもそれも考え方の一つだとして前向きに受け容れ、いつでも、とにかく「謙虚と感謝の心持ちで過ごしましょう」というメッセージをシンプルに提案したい。

つまり、【常に備えよ】ということ。

黒住教の教えは『心直しの道』だと昔から表現されてきている。

コロナ禍や自然災害時などの有事の時でも、それ以外の普通の日々においても、生きていれば誰でもいつだって苦しいことがある。コロナだからしんどいのではなくて、実際には元々しんどいことと隣り合わせできたんだと思う。

だけど、普段であれば「心痛」していないから、しんどいとばかり思わず試練とか修行だと受け入れて、ポジティブに取り組んでこれてきただけなんじゃないかな。裏を返せば、こういう明らかに辛い状況でも、心の受け皿をしっかりと持ち、綺麗に磨いて、顔を上げて前を向いていればきっと乗り越えられるはず。

人々や社会の戸惑いや混沌感が溢れるときだからこそ、自分の心を律して、明るく笑顔で過ごしていきたい。

では。

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