変わり続ける社会に、形を変えながら残る写真 〜嶌村吉祥丸様 インタビュー前編~
私たち高校生の視点からは得られないようなものの見方や考え方を共有したいと思い、アーティストとして幅広く活動されている嶌村 吉祥丸様にインタビューをさせていただきました。
こちらの前編は、主に写真を撮ること・写真の持つ力についてお聞きした内容となっています。
前編・後編 合わせて読んでくださると嬉しいです!
▼ 生身の人間を写したい
被写体・その写真を受け取る人々に対しての考え
——被写体・その写真を受け取る人々に対して、どのような考えを持ちながら写真を撮っていますか?
吉祥丸:僕が仕事で写真を撮る人は大抵の場合役者さんだったら演じる人というように、何かしらの属性を纏っている人が多いのですが、写真を撮る時には、そういう何かを纏っていない状態の人間そのものを撮るようにしています。
一方で、SNSに上がっているような自撮りの写真は、半分本当の姿でもあり、半分嘘の姿でもあったりする。写真を撮る以上、自撮りであろうとなかろうと、意識せずに自然体でいることは難しいと思います。本質的な自然体を撮ることは難しいとは思いますが、僕が撮る上ではできるだけ本人が生身の人間として自然でいる状態を写真に残せたらと思っています。
人ではなく、物を撮るとき
——人ではなく、物を撮るときはどのように考えていらっしゃいますか?
吉祥丸:物を撮る時、基本的に自分が手を加えない限り、動かないからこそ、どういった視点でその物を捉えているかが大事になってくると思います。街を歩いて写真を撮るときには、自分が良いなって思ったものに反射的に写真を撮ることが多く、反射的に撮る行為そのものがこの世界との対話のような感覚で写真を撮っています。
動かないものに対しては、自分から動いていくしかないからこそ、人を撮るときとは違ったコミュニケーションをしているのかもしれません。
▼ 写真は言葉以上の言葉
写真というものの持つ力
——写真家として、「言葉」を持たない写真というものの持つ力はなんだと思いますか?
吉祥丸:写真という存在は、僕らが生まれ育った頃から身近で、特に現代においてはSNSと本人の距離がほぼ0に近くなっていると感じています。
SNSがリアルライフの人間関係をそのまま反映していたり、コミュニケーションツールとして連絡手段になっていたり。
その上で、写真の役割として、表現の他に、日常の記録、思い出、または言語としての面がより強くなってきていると思います。私はこういうことを今しています、みんな今何してるの?といった言葉以上の言葉のような役割もあると思っていて、記録や記憶といった様々な側面を写真は複合的に持ちつつ、 "余白" を持っていることは言語としてもとても面白いなと思っています。
言葉はもっと明確で、解釈の余地が狭い。だからこそ今こうしてインタビューに答えて、自分の考えを伝えることができている。一方で写真作品の場合だと、写真の持つ "余白" に、今まで鑑賞者が見てきたことや考えていることを流し込んで作品を見ることができるからこそ、解釈の余地がより広く、言葉とは違った良さがあるのだと思っています。
▼ 良い写真って?
「らしさ」を写すこと
——演技中の俳優さんとかももちろん綺麗だけど、例えばお友達と撮ったvlogとかの方が良い表情だなって思うことがあります。
吉祥丸:僕もそう思います。撮影の仕事でも、場合によってはもう自分で撮らなくても良いんじゃないかと思う時もあって。例えば複数人を撮る時には、僕が撮るより本人たち同士で撮りあいっこした方がその関係地でしか撮ることのできない良い表情が撮れる時があります。
必ずしも僕が撮る必要はないし、カメラだって、iPhoneで撮っても良い。
iPhoneでしか撮れない画、例えばvlogのような、本人がカメラを持つことによってしか出てこない本人らしさもあると思います。
個人の感覚を残すこと
——私も直感的に写真を撮ることがあるのですが、なかなか良い写真を撮れた試しがありません。
吉祥丸:良い写真っていう基準って、あるようで、多分どこにもないんだと思います。
単純にそれを撮った人が良いって思ったら、それは良い写真だなって思うので、iPhoneで撮ろうが高いカメラで撮ろうが、その人にとって良い写真なら良い写真。
何かを見た時に、美しいな、撮りたいなって思う感覚そのものはそれぞれの人の個人的な感覚によるものだと思いますし、昔いいと思ってたはずなのに、今見ると全然よく思えないものってあると思います。
僕の場合は、写真を撮っていくうちに美しいと思えるものの視点が養われるような感覚があって、その感覚が養われることでものの見方や写真を撮る感覚が変わっていったように思います。
日々の生活を送っている中で、音楽を聴くとか、人と出会うとか、映画を見るとか、小さい様々な経験の複合的な組み合わせによって付いてきた感覚だと思うので、今自分の中で考えている、美しいとか、いいって思う感覚はこんな感じだよ、ということを写真を通してその時々で残しているように思います。
▼ SNSによって育てられた我々の感覚
吉祥丸:例えばLive photoのように写真のようで動画でもある。スマートフォンの進化によって、写真そのものの定義が揺らいでいるというか、曖昧にもなってきている。
また、動画が身近になってきていて、Tiktokなど、各々がクリエイターとして日常的に動画を編集し、表現として共有することが当たり前になってきています。かつては動画を作ること自体とても特殊なことで、機材も手間もコストがかかるものだったのが、テクノロジーの進化によってより簡易的に感覚的に映像を作ることができるようになってきていると思います。こうした変化も、SNSによって我々の感覚が育てられている部分も少なからずあるのではないでしょうか。本来写真を撮らなかった人たちがみんな写真を撮ることが前提になっていて、何かを記録するその人なりの美意識がそこには存在している。
例えばインスタ映えという言葉がありますが、「映え」させようとして、素敵な喫茶店を調べて行くことや、それを「映え」る写真を撮り、友人に共有することは、もしInstagramがなかったらその場所に行くことも、写真を撮ることもなかったのではないか。そう考えたらSNSによって、現実世界での視点も広がっているようにも思います。
ー後編に続く
このエッセイは、COLOR Againという団体主催の活動のもとで執筆を行っています。
私達の他にも、「自分の感性に自信を持つ」という共通のテーマで昨年の6月から活動してきたメンバーで、様々な企画・活動を行ってきました。
この活動の集大成として、1/28(日)に下北沢のクリエイティブスタジオ「砂箱」にて、展覧会が行われます!
ここでは私達のエッセイ展示や、活動を通してインタビューを行った際の記録展示、
他のメンバーの企画として
・「診断コンテンツとの向き合い方について考える対話ブース」(ワークショップ、参加可能)
・「メイクのあり方を考える」展示
・「子ども食堂でのアート体験」展示
など様々な企画展示が行われています。
入場無料なので興味をもってくださった方がいれば是非企画展にいらして貰えたらと思います!
(以下のリンクをチェックしていただけると嬉しいです!)
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