やまない雨

やまない雨

 地下鉄のホームは温くて湿っぽかった。

 なかなか開かない線路沿いの扉の前で立ち尽くしている人々は、なかなか開けない梅雨を待ち望んでいるかのように雨の雫がついた傘を手にぶらさげている。ある人は先端を地につけて飲み会帰りのような出で立ちで脂肪や塩分やアルコールの溜まった体重を支えていて、ある人は何かいいことでもあったのかウキウキしたカップルの手繋ぎみたいに傘を振って雨粒を飛び散らせている。
 
七月に入っても涼しいときっとみんなの肌感覚としてあるようで、テレビでも連日天気予報で伝えられてるし、今年の夏は涼しいよね、なんて近くにいる化粧が皮脂で落ちてテカリの見える女子大生らしき話し声が聞こえてくる。それでも、一日精一杯働いた汗やショッピングで歩き回った汗、安チェーン店で飯を食ったりお酒を飲んだりした汗なんかが入り混じった大勢の人々で、駅構内は蒸されている。

 電車が到着するアナウンスが湿気に包まれてくぐもって聞こえてくる。雨に濡れた線路を走る車輪の音はいつもより大きく軋んでいて黒板を爪で引っ掻くような不協和音に、じっとりとべたついた腕の皮に鳥肌が立つのを感じた。電車進入時の風圧は温くて心地いいものではなくても、少しだけ汗を乾かしてくれる。

 ほとんどの人が、液晶の中へと意識を全て持っていかれて、到着した電車にベルトコンベアに運ばれる商材のように乗り込む人々。乗り込んでからも独りの人は集中して、あるいは誰かと話している集団は目線を液晶の中に収めて会話を合わせている。彼らの本体であるはずの身体には意志がなく、液晶の中に意志が存在しているかのようだった。もちろん、みんながみんな、この地下鉄の電車の中で液晶に夢中になっているわけではない。酔っ払って座席にもたれながら良くない夢でも見ているのか頻繁に動く中年男性や、この時間の繁華街から出発する電車に相応しくない母親らしき女性に手を引かれる小学生ぐらいの女の子であったり、液晶画面に触れていない人はよく見てみると多かった。

 彼女も、その一人だった。


「ご飯ってさ、少し冷ましてから冷凍するじゃん。いつも私そうしてたんだけどさ。あれ間違いらしいのね、炊きたてで湯気と一緒に包んですぐ冷凍しなきゃなんだって」

 突拍子もなく東名高速のドライブ中に富士山を見つけた時みたいに、気がついたことを話してくる彼女の喋り方が懐かしかった。

 「へえ。アツアツのまま入れようとしたらおかんに怒られたことあったけど。冷まさなきゃあかんでしょ、悪くなる!って」

「はは。あのお母さんね。楽しい人だったよね、今も元気?」

 混雑はしていないまでもそれなりの数が乗り合わせた平日夜遅くの地下鉄で瞬時に彼女を見つけられたのは、液晶を触っていなかったからなのか、肉食動物的な本能に似たレーダーで特別な気配を感じ取ったのか。それよりもなによりも同じ時間帯しかも同じ車両の同じドア付近に巡り合わせなのかお互いその場にいたのが決定的な理由だった。付き合っていた当時の肩にかかる黒髪はそこにはなくても、ナスみたいな丸みを帯びた特徴的な鼻は確かにそこにあった。

 それでも声をかけるのは憚られて、スーパーの野菜を選ぶときみたいにじっくり全体を眺めていたらさすがに視線に気づいたみたいで、ただでさえおっきい目なのに白目をむきだして、久しぶりじゃん、と声をかけてきたから車内でとりとめのない会話をしているイマがある。

「まあ元気に見えるけど、最近ちょっとね。もう歳だしねえ」

 悪いと捉えられてしまう言葉を発したあとにしまった、と思った。そっか、病気なの?とは野暮に聞いてこなかったが、彼女は俯いて少しまぶたを落とした。コンシーラーのラメがちらちらと輝き、その顔をもっとみていたいと思う気持ちは横に置いて、さりげなくポケットから液晶を取り出して時間を確認した。意外と終電に近い時間だった。

「猫もさ、もうダメそうなんだよねー。やっぱことし厄年だからなのかな、多いねそういうの」

 湿っぽい話を乾いた笑いでごまかしてみようにも、もっと傷をえぐるだけ。暗い話をばったりあった元恋人に言われても。久々なんだからもっと楽しい話をしようよ。頭の中ではわかっていても、こんなことを話せる人に勝手に安心して、勝手に聞いてもらって救われようとしている。話しても何も解決しない。心に降る雨は止まない。

 彼女は横に分けられた前髪を耳にかけて、そっか、なんだか悲しいね、と目を伏せた。伏せた先に何があるのか気になって視線を追うと、自分が体重をかけている手持ちの傘の先へ、重力にそって集まっていく雨の雫の小さな水たまりができていた。

 各駅停車は二駅目についた。多くの人がこの駅で降りていき、液晶はポケットにしまって前を向いて歩いていく。端の席に座っていた人は傘を忘れたようで肘掛に濡れたビニール傘がぶら下がっている。新しく座った人も同じようにぶら下げて二本になった。傘の先端から一滴ずつ雨水がこぼれ落ちて床へと水が溜まっていた。電車が発車すると、溜まった水は電車の進む方向とは逆に床を流れていくけれど、雨水の量が少ないから床をしっとりと濡らしただけだった。
 
自分の傘の先に溜まった小さな水たまりは、気がついたときにはなくなっていた。


「雨、なかなか止まないよな」

 少しの間訪れていた沈黙に耐えかねて、ありきたりな話を切り出してみる。

「梅雨ってこんなに長かったっけね」

 とりあえず彼女は口を合わせてくれた。少し間をあけてからもう一度口を開いた。

「まあ、なんか全てがうまくいかないことってあるよね。いつまでも順風満帆でいられたらそれは幸せだけど、そんな甘くないよね、人生ってきっと。毎日がピカーンって晴れてばかりでも暑いし肌も焼けちゃうよ」

 きっと彼女なりの励ましの言葉で、暗い話はこれでおしまいという合図だったのかもしれない。けれど、雨脚が強まるみたいに自分の中から勝手に言葉がこぼれていきそうになる。電車の中ということを思い出して、感情は抑えたが言葉は止められなかった。

「もうなんもかんも、どうでもいいやってなっちゃうんだよね。仕事も思ったようにはいかない。周りを見てたら晴れ間みたいに楽しそうにしてるやつばっかでさ。正直に羨ましいんだよきっと。そんなときにさ、不幸っていったら言い過ぎかもだけどよくないことが起こるとさ、なんかやっぱ、病むよそりゃあ」

 彼女は俯かずに真っ直ぐ見ていたと思う。どうだったのかはわからない。自分が俯いていたから。床の小さな水たまりは乗客の靴底のゴムに染み込んで、足を動かすとゴムの擦れるマヌケな高い音が聞こえてきた。

「ごめん、ひさしぶりに会ってこんなこと言われてもだよね。でもこんなこと話せる人なかなかいないし。ごめん」

 彼女は色々なものを失くして、辛いことがあったことをバネに強く生きている人だった。だから「大丈夫」と一言放った彼女の声はたくましかった。

 各駅の電車は五駅目に止まっている。電車が走っていれば、溜まった雨水が流れていくように自分の言葉は流れていったかもしれない。今はまだ彼女の周りでとどまっているのだろう。次だよね?という問いかけには、頷きだけで返ってきた。

「言われたくないかもしれないけど…」

 扉が閉まり、電車が動き出してから彼女は口を開いた。相変わらず小さな口だった。

「今あなたに降りかかる何かは、あなたに対してマイナスでしかないの?あなたは、降りかかる雨が全てあなたを病ませていると思っているの?」

「それは...」

 小さな口から溢れ出てきた言葉に気圧され、先が出てこなかった。彼女の瞳の黒は真っ直ぐで揺らぎがない。

「降りかかってきたものは悪いものかもしれない。土砂崩れや洪水みたいに、自分自身が崩壊してしまってどうしようもないときだってある。でも私はそれら降りかかる雨の全てがあなたを病ませる原因だとは思わない。」

 電車は走り出し、次の駅へと向かって音を立てていたが、彼女の言葉はかき消されなかった。何人かが彼女の言葉に意識を持っていかれ、液晶からも目をそらしてこちらをみているようだった。視線を感じずにいられないのは自分だけで、彼女はかまわず続けた。

「その雨があるから私たちは生きていける。辛いことも苦しいことも全部ひっくるめて受け入れて栄養にしていくんだよ。時に災害をもたらすものかもしれない。だけど恵みの雨ってことも忘れちゃいけないと思わない?なんていうのか、止まない雨はないっていうし、病まない雨はあるんだよ」

  彼女の眼差しから逃げずに、ただ頷くことしかできなかった。

「お母さんや猫ちゃんは心配だしお気の毒だけれど、それも今を生きるための活力になるし、あなたが気に病んでんる場合じゃない。仕事とかいろんなことも苦汁を嘗めるっていうでしょ。雨をすすっていれば、それは必ずあなたの生きる栄養になるよ」

 開いていた傘を閉じるような感覚があった。晴れ間が見えたからじゃない。大雨に濡れることを受け入れた時のような。あの時身体に染み込んでいく雨がなんでかわからないけど気持ちいいことはわかっていた。小さな水たまりから雫が流れていった。ただ一言ありがとうとしか伝えられなかったのは、それ以上話すと雫が溢れてしまいそうだったから。その顔をみて彼女には伝わっているようだった。

  次の駅に着く間際、柔らかく水たまりに落ちる雨のように小気味良く明るい声で話してくれた。

「わたしさ、知ってると思うけど、雨好きなんだよね。もちろん自転車乗れないし、洗濯は乾きづらいし悪い面もあるけどさ。窓に打ち付ける雨の音が好きだし、傘から溢れる雫が好き」

 よく聞いた話だった。彼女は雨が好きな子だった。

「自転車に乗れないって、よくずぶ濡れで自転車乗ってたでしょ」

 顔をあげて笑いながら、またねと手を振って降りていった。




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