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閉じるボタンとタピオカレディ - such a person -

一人目

 こんな人がいた。
 エレベーターに乗り込むなり、すぐさま閉じるボタンを押してくる人。目を合わせようとはせず、こちらの視線に気づくとわかりやすく嫌そうな顔をする女性だった。ちょっと、っと少し苛立ちを込めてもらすと謝罪ではなく「間違えた」と渇いた声でつぶやいた。
 今回が初めてではなかった。彼女の閉じるボタンには今日だけでも三回挟まれそうになっている。意図的なのか無意識なクセによるものなのか。少なくとも、一緒に乗りたくないからとかムカつくから挟んでやろう、みたいな意志を持ったものではないと願いたい。なぜなら僕たちは一応「デート」をしていたはずだった。

 彼女とは小洒落た小料理屋兼バーのカウンターで初めて会話をした。エスニックな装飾に薄暗い雰囲気に対して声のよく通る関西弁の男女が営むその店に、彼女も僕もしばしば通っていた。仕事終わりに立ち寄る時には、ほぼ必ず彼女も店にいたと思う。といっても月に一度か二度程度だし、本当に毎度いたかと聞かれたらそんな気がしているだけなのかもしれない。
 ただ、彼女のことは会話するずっと前から一方的に知っていた。どこにでもいるような長い黒髪なのに、どこにもいないほどの艶に包まれている。頭の形に沿った優しい曲線と重力に沿ってすっきりと落ちていく直線を描く黒髪だった。世の中の異臭を嗅ぎ分けそうなたくましくて存在感のある鼻と、声高に正論を述べそうな厚い唇は、なかなか忘れることは出来なかった。
 いつからか、互いの存在を認知して会話するようになった。会話をはじめたきっかけとなるような出来事がどこかにあったような気もするけれど、それはあまり大事なことではなかったのか覚えていない。三杯目に何のお酒を注文したのか覚えていないのと同じようなことだった。彼女が黒髪に映える白いシャツのワンピースを着ている日、連絡先を交換したことはしっかりと覚えている。たしかこんな唐突な質問をされた。
「わたし、こう見えてタピオカ好きなんだけれど美味しいお店知ってる?」
 厚い唇に塗られた紅色と、開いた口の内側にのぞいた塗られていない薄いピンク色との境界線は、薄暗い店内でもはっきりとわかった。タピオカを熟知しているわけではないけれど、自宅近辺に新しくできたお店があって今度行ってみたいと思っていた、というようなことを伝えて休日に一緒に出かけることになった。そのとき彼女が飲んでいたお酒はモヒートで、「こう見えて」はどう見えて欲しくて出てきた言葉なのかは、その日からずっと気になっていた。

 バーで約束した次の週末、お昼ごろという曖昧な待ち合わせ。目的のタピオカ屋は徒歩圏内だったが、電車を乗り継いで彼女の最寄駅で落ち合うことにしていた。女を一人で来させるな迎えに来い、ということだろうかと推察できた。駅に着く時間は連絡していたが、改札にはすでに彼女の姿があって驚く。前にあった時と同じ白いシャツのワンピースに黒のダウンジャケットを羽織って、寒そうに柱に寄りかかっていた。
 遅いよ、というから連絡した時間通りについたことを告げると横腹をつつかれる。そういうことではなくて、お昼の感覚が遅いということらしい。顔をのぞいても端正な顔立ちは特に表情を作らない。
 とりあえず腹ごしらえをしましょう、と靴底の厚い黒革ブーツの向きを変えて、彼女の最寄駅の商店街へと向かっていく。駅構内を出ると空が澄みきっていて風が冷たく、彼女はジャケットのボタンに手を突っ込みながら寒そうに前を歩いていった。

 ランチの場で改めて自己紹介をした。バーでは特に個人に関わる話はしてこなかったからだ。彼女は印刷系の広告会社で働いているそうで、クライアントのカタログやブックレットなどを制作している部署にいるらしい。話を聞く限りではかなりテキパキと業務をこなし、効率の悪い部分に対して自らの意見をはっきりと述べる人のようだった。発言全てが正論で、それでいて未熟な点は謙遜しつつ自分自身にすら指摘もしていた。平打ちの生パスタをフォークで巻きながら話す内容は、しっかりとまとまりがある。時折トマトソースが口からはみ出して頬に付いてしまうけれど、すぐに紙ナプキンで拭き取った。とりあえず彼女の口から「客観的」という言葉が数十回といかないまでもかなりの数は耳にした。

 食べ終わってからは、かわいい猫のSNSアカウントでお互いのスマートフォンに顔を近づけるなどぐっと距離が縮まったところで、彼女はブランド物のポーチを持ってお手洗いへ向かった。昔どこかで読んだことがあるが、「男性へのスマートなお会計のパス、食後のお手洗い」というやつかもしれないと思い、会計を済ませた。戻ってきて席を立つと、案の定お会計について聞かれ、大丈夫と答えて店を出たが、思いがけず強めの口調で言葉が飛んできて千円札を握った手を差し出された。
「男が支払うとか、そういうのいらないから。」
 そうだよね、ありがとう、と笑みを返して札を受け取ると癪だったのか返事はなかった。エレベーターを待っている間に手持ちぶさたに感じてしまい、今日初めて自分から口を開いた。
「本当そうだよね、そう思う。なんか男がちょっとでも多く出すとかそういう価値基準ってなかなか変わらないよね。この間女友達が何日も飲み歩いてるから、よくお金がなくならないねって尋ねたら、やっぱり奢ってもらってほとんど払ってないみたいだし。」
「そういうところなんだよ多分。ジェンダー差別をなくそうなんて言われても、男女間の社会的な見方が変わらないのって。」
 強い眼差しは変わらずに、彼女は少し寂しそうにつぶやいた。
「合コンとかいっても絶対払いたくないしなあ、よく知らない子に。」
 そう言っている最中エレベーターは開いて、彼女はまたしても閉じるボタンをすぐに押した。しっかりと腕に扉が当たって呻きをもらすと、それは儀式的な物だから支払うもの、と言われた。彼女のエレベーターのボタンを押す手さばきは、それなりに美味い回る寿司屋のシャリを握る職人を思い出させた。アルバイトに何をしていたか尋ねたら、きっと飲食系だと思うが最後まで聞かなかった。ちなみに、このレストランに入る前のエレベーターで挟まれかけたのが一度目だ。

 自宅の最寄駅へ向かう電車で、彼女は席に座り僕はその前に立っていた。見下ろしてよく観察すると、にやけてしまいたくなるほどに美人だった。地下鉄なのが幸いで、自分の顔が窓ガラスに反射してくれるから、なんとか真顔を保っていられたとは思う。ふと「客観的」という言葉を思い返した。けれど窓ガラスに映る自分は他の誰でもなく自分だから、ある意味主観なのかもなと考えたが、その考えは彼女の前で口には出さなかった。彼女はスマートフォンの液晶を眺めて、何やら指でいっぱい触っていた。到着して降りると、駅のホームから改札までのエレベーターが目の前にあった。ここを利用するところで、ようやく話が始めに戻る。



 幸い他に利用者がいなかったから迷惑を被るのが自分だけで済んだが、他に人がいたら単純に良くない。と思ったことをできるだけ柔らかく伝えると、ごめん、本当に間違えた。と彼女は言った。変わらずに嫌そうな顔をしたまま、再度閉じるボタンを押してから訂正した。
「でもやっぱりわざとかも。初デートで、電車乗ってる間沈黙ってなかなかだよ。女の子暇にさせんなよ。」
 女の子って歳でもないでしょうと言いそうになったけど、その時の彼女の表情はやけに女の子だった。これまで見せていたような大人の姿ではなかった。塗り固められたファンデーションもシャドウもマスカラもリップも、全て虚像にしか見えない。ランチの時、唇の内側にそっとのぞいたピンク色が彼女の本当の色だと思った。ムッとした表情の彼女に、ひとこと言ってからエレベーターを降りた。
「タピオカ、奢るよ。」
 彼女はこの時、とくに何も言わなかった。

 最近できたタピオカ屋は駅から近い。店内での飲食は出来ないため、手持ちにタピオカだけれど手持ちぶさたになってしまった。日も沈み、晩冬とはいえ最近の日本は晩冬が一番寒いんじゃないのかということで話はまとまり、仕方なく自宅で寒さを凌ぐことになった。
「タピオカの原料のイモはね、有毒なの。キャッサバっていうらしいんだけど、毒抜きされてから日本に輸入されるらしいのよ。」
 彼女は自宅までの道すがら、時折タピオカを喉に詰まらせそうになりながらも、どこからか仕入れてきた情報を教えてくれた。
「どうりで毒々しい色してると思った。」
「いや違うのよ、それは黒糖のカラメル色素。元々はナタデココみたいな乳白色。ていうか毒抜きしてるのに毒々しいわけないでしょ。」
 そりゃそうだと、それとなく相槌をうつと彼女はそのまま続けた。
「毒素抜いて、でんぷんを水で溶いて加熱して、最後丸めて味付けと色付けしてって、かなりの工程だよね。そこまでしてミルクティーの中にわざわざ入れるんだと想うと、タピオカって馬鹿にできないなあって。」
 タピオカはミルクティーの優しい甘さと一緒に口の中に流れ込んで、弾力と一緒に深い甘さが滲み出てきた。話を聞いてしまった後だからか、毒素も一緒に滲み出てくるような気がした。

「タピオカは、馬鹿にしてたの?」
 家に着く頃には、ドリンクは半分以上なくなっていたが、せっかくだからとコンビニでつまみとお酒も買って自宅で過ごすことになった。
「馬鹿にしてたわけじゃないけど。なんていうか私たちが高校生くらいの時も少し流行ったでしょ。当時良く飲んでたし好きだったけど、ここまで爆発的に流行っちゃうとなんか逆らいたくなるというか。」
 ソファに腰かけて、テーブルに飲みかけのドリンクとコンビニの袋を置いた。彼女は隣に座り、そのままドリンクを啜っていた。
「わからなくはないけど。でも、好きなら好きで、それでよくないかな、って思っちゃうかも。」
 お互い缶ビールを手に取り、乾杯した。勢いの良い飲み方はタピオカを啜る時とは違い、少し無理しているようにも見えた。
「でもさ、ただのタピオカ好きとは思われたくない。客観的に見たら、そこら辺にいる女子と変わらなくなる。私らしくない。」
 彼女はビールを飲んだ後に、すぐタピオカミルクティーを啜った。はっきりとした口調だったけれど、目は合わなかった。
「私らしいが何かわからないけれど、僕にはタピオカが好きでビールを無理やり飲む美人な女の子っていう事実がそこにあるだけ。これが客観でしょう。」
 彼女はまたビールを飲んだ。苦そうな顔をしている。彼女の身体が少しずつもたれかかってくる。
「あとは、エレベーターの扉を早く閉める。」
 彼女は声を上げて笑った。唇の裏のピンクがちらと見えた。
「あれは、クセかも。それはどう見えるのかな。」
「生き急いでる人、かな。」
 彼女がタピオカを啜る。同じように僕も啜ると、残り少ないのかうまく吸えなかった。僕の肩の上で、違う違うと首を振った。
「あれはある意味女子らしいと思うよ。エレベーターって本当怖いんだ、変な人と一緒になるかもしれないし。実家がマンションだったからクセになったのかも。」
 色々な要因が、理由が、彼女が強くいるためには必要なんだと考えられたのは後になってからだった。身体にもたれかかる体重とさっぱりと甘い香水の香りのことばかりこの時は考えていた。
「確かに大変だね。その女の子らしさは、聞かなきゃわからないかも。」
 彼女はいつの間にかビールを飲み干していた。酔っ払ってなさそうだけれど、さっきより近くに寄って身体を当ててくる。
「こういうのは、やっぱり女の子らしいのかな。」
 ふと時計を見ると夕飯時だった。お腹がそれほど空いていないのはタピオカのせいかもしれない。けれど、タピオカだけだと少し物足りなさも感じていたところだった。
「どうだろ。女の子らしいというより、私らしいんじゃない。」
 そういってから、タピオカの最後の粒を吸い切った。

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