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such a person

ポケモンは社会。
いろんなタイプがあって、みんな生きている。相性のいい悪いもある。
そして仲良く愛でるのが真のポケモンではなく、殴り合いこそが本質。
単なる力対力ではなく、頭脳と駆け引きが掛け合わさる勝負。
まさに社会の肝がポケモンバトルには秘められている。

旅先でポケモンの新作を買い、そんな社会の本質に気付かされ、新しいテーマで短編小説を書こうという気概にさせられた。

ポケモンはすごい。

はじめに。

ポケットモンスター剣盾に最近ハマっている稲熊です。
まずはじめに、この文章は短編小説ではなく、これから短編小説を書いていくよというイントロ。
新年早々の小話とこういうの書いていくよと宣言することで自分を律するためのツラツラと書かれた文章を、どうぞ年末年始暇すぎてやることを見出せなくて困っている人は是非。


さて2019年、書くことから遠ざかっていた自分のリハビリの意味も込めて、2月からweekly flash story(以下wfs)と題して短編小説を書き始めた。

一週間という短い期間であれ、生きていれば色々な事象を見聞きし、その中で様々な心象を抱いていく。そんな中から生まれたフラッシュアイデアの物語を書き起こしていく。
そんなコンセプトで始めていたにもかかわらず、ありがたいことに読んでくれていた人はご存知の通り、「忙しい」という最もダサい言い訳にかまけて、全くweeklyではなくなっていた。

反省。

自分自身、遊びだったり他の何かを優先してしまっていることへの嫌悪感はある。仕事みたいに義務的にやってしまったら意味もないというこだわりも実際ある。あまり読まれないことへの苦悩もある。
いろいろな感情が、今までは気づきもしなかった欲求が、フツフツと出てきてしまう新しい発見。

wfsを始めるにあたり、色々な人に触れてもらい広げていくためにと思ってTwitterアカウントを新設すると、これまでは抱かなかった承認欲求みたいなものが生まれ始めて、チクショウ誰かいいねとかリツイートしてくれよとか裏で懇願していたり。まずは気が向かずとも、この文章に出会ってしまったからには、フォローをしてみてもいいかも…

切実。

大学時代に使っていたアカウントの1割ぐらいしかフォロワーがいなくて、SNSってこんなに難しいのかと実感してますが、それもそのはず、自分もフォローしないわ、知り合いでもない面白くない人。有益な文章になるよう頑張りましょう。


カテゴライズ。

冒頭に書いたように、新しいテーマでまた短編小説を始めようと個人的に宣言してみる。

これまでの人生、何か書くための面白い話はないかと、様々な人にあって生き様や趣味趣向を聞いたり、ふと見かけた人を観察したり、メディアから流れてくる人の情報を捕まえて深堀したり、「人」のことをずっと考えてきた。特に最近は、自他関係なく人が意識的又は無意識的に行う「カテゴライズ」による性格・感覚・意識・偏見についてなぜか風呂場で熟考したりしている。

ここで僕の言う「カテゴライズ」とは特に範囲もジャンルも関係なく、「ディズニー好き」「ジャニオタ」みたいな趣向のカテゴリーもあれば、「東京生まれヒップホップ育ち」「港区女子」のような地域性、「銀行マン」「商社マン」「外資コンサル」のような職業、「電通」「伊藤忠」「慶應卒」みたいな企業名や大学名、「ドメブラモード系」「下北古着系」みたいな身に付けるファッションの系統やブランド、「右左」「フェミニスト」「ジロリアン」などの思想や宗教、果ては「男」「女」「L」「G」「B」「T」みたいなところまで区別・分類することを指している。自己的な「カテゴライズ」による帰属意識や趣向のアピールもあれば、他人の判断による区別・分類もある。

十人十色なんていうけれど、一個人の色はやはり何色かには区別できてしまい、色相環で考えれば近さや相性の良し悪しなんかも決まってくる。そうやって人に対して考えて分別してみると、多かれ少なかれ、ああ、この人はこういうタイプの人でどことなく雰囲気があの人に似てるなあ、そういう場合ってだいたいこういうの好きだよな。みたいなある種偏見とも言える個人の主観による「カテゴライズによる人間性の区別」って絶対にあるなと思う。

しかも、誰もが自分を何かしらに「カテゴライズ」したくてしたくてたまらない状況なのかなとも実は思っていたりして。
ある出会い系のアプリでは、プロフィールとしてどこに住んでいて何大学卒で、コミュニティという〇〇が好きな人、みたいなもので自分をしっかりと何かと結びつけている。
例えば就活時とかで〇〇で働きたいと思っている人の中にはその企業名で働いているというカテゴリー(要はステータス)に属したいという人がいる。大学だってその名前が欲しいとかでしか受験しておらず、この大学にはこの教授陣で、こんなことが学べるから、という理由で入学した人は周りにはかなり少ない印象だった。
何を否定するわけでもなく、ただ、そういうものとして捉えていても既に個人の主観によって「カテゴライズによる人間性の区別」が行われている。
(特に意思もなく有名企業や大学を応募する人=ステータスが欲しい)
個人的に、これって面白いんじゃないのかなと思っている。

なんかあえて難しそうに書いてみたけど、つまり言いたいことは、
「あ〜こんな人いるいる。」
である。

僕自身は誰かから「カテゴライズ」されることを逃げているような気がなんとなくしていて、例えばファッションは何系統とか思われるのが嫌だったし、誰かが持っているのを見かけたものは絶対に身に付けたくなかった。
なるべく何かに縛られてしまわないように、大学時代は大学名をあまり他の人に言わないようにしたり、スーツ着て働きたくないとか、人の少ないところで働きたいとかも結局は区別されることを避けるようにした結果なのかもしれない。
そんなことを言いつつも、神奈川はやっぱり最高だし、仲良くなるのはだいたい神奈川、とか思ったりしているのでかなり帰属意識はあるという矛盾。
その上、カテゴリーというものはどうしようもなくつきまとってきて「私服で働いている人」「ベンチャー」「何やってるかよくわからない」みたいなものまである。でも、「何やってるかよくわからない」は「カテゴライズ不可」なのでそう思わせられていたらある意味成功。

そんなこんなで、大学時に取り扱ったベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』といういかにしてナショナリズムが構築されていくかという小難しい本を思い出して、意外と近いかもとか比較しながら「カテゴライズ」をテーマに複数短編を書くのは楽しそうだなと最終的に行きついた。

題して、「such a person」


こんな人がいた。

夏目漱石の傑作短編の『夢十夜』は、全て同じ書き出しで始まる。

「こんな夢をみた。」

大学在学中に、『夢十夜』に習って「こんな夢をみた。」から始まる短編を書けという課題があった。その課題で書かれたものがこちら。

アップしているのは、2017年ではあるけれど実際に書いたのは2015年ごろ。今はセクハラで捕まってしまったあの渡部直己の講義。僕はこれを提出して「又吉的」と批判された。ちょうど『火花』が芥川賞取るか取らないかの時期で、又吉を批判というか批難していた直己ちゃんから言われたのを今でも忘れられない。そんなことを思い出して渡部直己の漢字を調べるためにググってみると、又吉が暴露していた。

でも擁護するわけではないけれど、なかなかあんな教授は大学にいなかったし、刺激的で面白いおじさんで、かなり影響も受けた。彼がいなかったら技術やロジックとしての小説の技術はそこまで身についていないし、結構損害なのかなとは思ったり。傲慢だしエロオヤジ感はすごかったけれど愛されていたでしょう。実際に友人が当事者の女の子の知人だったりするので、色々聞いたし真実は闇の中だけれど、まあ捕まるべくしてですね。

話はそれたけれど、「こんな夢をみた。」から始まる『夢十夜』へのリスペクトを込めて、恐れ多くも同じようなフォーマットを用いた短編集を作りたいと思い、先ほどの「カテゴライズ」論と合わせて、『such a person』と題して短編を10編こしらえていく。
書き出しは、これ。

「こんな人がいた。」

such a person

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いろんな形や色の人がいる。十人十色。
もちろんそれは間違いじゃない。
多様性が叫ばれるこの時代。
個人を強める主張をするために近しい距離で群れる人々。
誰かの意見を受け入れるのではなく自分に近しい人を賛同する人々。
この人はこんな生き様だ。この人はこんなことを言っている。
その誰かに賛同して、意見を鵜呑みにして物事を考えてしまう人々。
十人いたら、十色に振り分けることは難しいかもしれない。
大多数の支持を得る人の色に染まり自分の色は薄れていく。
本当に多様性を叫ぼうとしているのか。
区切られたパレッドの中の一色になろうとしているのではないか。
その色は、もう誰かに使われてしまっている。

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どんな物語もほとんどのところ、「こんな人がいた。」という話だ。
こんな人とこんな人が結びつくのがラブストーリーだし、こんな人がいたんだけれど結局どの人なのかを探るのがミステリーだったりする。
でも人生は自分自身で「こんな人がいた。」を作っていかなければいけない。そうなるとどうしても自分自身を「カテゴライズ」しなければいけないし、誰かの色で染まっといた方が楽なんだとも思う。

でも企業であったり大学名は個人における本質的な価値(市場価値とかでなく人間としての面白さ)とは必ずしも結びつかないと信じたいし、思想は貫けば自ずと類は集まるんだから強要するんじゃないとかも思うし、民主主義に抗っているような個人の主張を叫ぶ人が結局大多数の意見を必要とする矛盾だったりとか、色々なものに懐疑的になって自分自身で考えるのは大事だよな〜と思ってみたり。
ポケモンってすごい多様なんだけれど、結局タイプはあってそれによって相性が決められたりして、殴り合うっていうまさにこの社会。客観的に見ると分類・カテゴライズされた人々が罵り合って、殴り合っている。

大変。

自分も然り、型にハマらないようにして型にハマっちゃうとかもあって、なんかこう「カテゴライズ」された個人の先を懐疑的に描いてみたらカウンター的に大事なものに気づけるんじゃないかと思って、「こんな人がいた。」を書き出しにしてこんなテーマで書いていく。

概要

・10本(2020で絶対に終了させる)
・月一ペースぐらい(タイミング次第)
・通勤・通学の移動時間やご飯の時にさらっと読めちゃう短編
・「こんな人がいた。」から始まる
・「第一人」「第二人」と1編が区分けされていく(夢十夜と同じ)
・フィクションです。(実際のこんなカテゴリーの人モデルはいるかも)
・いいねとシェアして欲しい(願望)

これまで、お友達やお知り合いには楽しみにしているとか、読んだよというお声をいただいたりしてはいるけれど、そこより更なる広がりを求めて行きたいし、もっと客観的な意見も批判も非難も欲しいので、よろしくお願いします。

さて、2020の稲熊と、"such a person"を乞うご期待。

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