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ホワイトシチュー

 カレーが先に出てきた。飲み物よりも何よりも先に。スプーンより先に出てきたことには逆に気づかなかった。
 曇りの森の中のような静けさと薄暗い店内に音楽は流れていなかったが二人組の客の話し声が背後から聞こえてくる。後から差し出されたスプーンを片手にまじまじとカレーを見つめると想像していた色よりだいぶ薄かった。店内の暗さが視覚をおかしくしているのか、口にしてみると柔らかく口に馴染んでいくような甘さがあった。おそらくそれはホワイトシチューだった。辛さに定評のあるカレーが人気と、口コミサイトにあったこのバーにずっと行きたいと心に残っていた。土日も返上して働いたこの一週間の締めくくりにと残っている仕事を一旦放り出して逃げるように入った店だった。
 自分を追い込むように刺激を求めていた身体は、シチューのとろけるような甘さに包まれていくのを感じたがどうにもそれでは納得がいかない。

「どうです、お口に合いませんでしたか」
 30後半ぐらいの髭の濃い男がこの店を一人で切り盛りしているようだった。小料理屋兼バーのマスターとしては給食のカレーを思わせるほどにありふれた出で立ちだった。薄暗い店内では彼の表情を読み取ることはできない。
「あの。カレーを頼んだと思うのですが。あとはビールも注文しましたよね」
 ああ、そうでしたねと不躾にカウンターの背後にある冷蔵庫からジョッキを取り出すと、彼はサーバーの取手を引くのではなく押し始めた。押してダメなら引いてみろという言葉が思い浮かんだが、そもそも前提からしておかしい。
「いやちょっと、マスター。僕は飲食店の経験はないですけど、流石にサーバーは引くもんだと知ってますよ」
 彼は一度手を止めてこちらを向くと小言でええ、といってなおも押していく。嫌なものを押しのけるかのようでもあり、熱い想いを掌から伝えているかのようでもあった。ソフトクリームのようにジョッキの中で濁った泡だけが柔らかく注がれていく。堆積していく泡は寝起きの布団のように柔らかでいて抜け出せない重みを感じさせる。ジョッキの7割ほどが埋められたところでマスターは力いっぱいにサーバーのノズルを引いた。鈍く関節が外れるような音が店内に染み込んだ。積み上がった泡の中を黄金のエキスが通り抜けていき、ジョッキの底を透き通った黄金色に輝かせた。酢につけることで酸化した10円玉が輝きを取り戻す時の感動に似ている。ただ透明のジョッキにビールが注がれていくのとは異なる高揚感に見惚れていると、泡7:ビール3のジョッキが目の前に置かれた。ハンドメイドのカラフルな刺繍のコースターも後から付いてきた。
 ホワイトシチューの時から感じていた違和感に自分なりの答えを見つけることが出来たような気がしていても、思考よりも言葉を先に口にしてしまうのは浅はかなのだろうか。
「いや。色々逆でしょマスター。料理よりも先にビールは出てこないかと思ったら、そのビールの注ぎ方も普通とは逆。ほとんど泡じゃないですか。全然飲んだ気になれませんよこれじゃあ。」
 マスターはしばらく黙っていた。いつ言葉を返してくれるのかとカウンター越しで凝視していても忙しそうに手を動かしている。洗い物をしていた。

「ああ、お兄さんここ初めてでしょ。みんな最初はそう思って怒り出しちゃうんだよね。そんなカッカしないでとりあえずは出されたもん口にするのが礼儀ってもんだろう」
 背後にいた二人組のうちの肉付きの良い男が声をかけてきた。釈然としないが彼の言葉に頷きほとんどが濁った泡で埋められたジョッキを口に運んだ。ジョッキは少し生温く口に触れた時に泡の柔らかさと混ざり合い、心が少し穏やかになった。朝窓から差し込む春の暖かい陽射しを浴びてリビングで安らいでいるようなそんな穏やかさだった。傾き加減が甘く液体は口の中へ運ばれていかず、大きく空を仰ぐようにジョッキを傾けた。喉にひんやりと伝わってくるつい見惚れてしまったあの黄金の輝き。それは穏やかさの中から突如として現れる刺激であり、心を満たすための潤滑油だった。あのあふれんばかりの柔らかな泡の中だからこそ味わえる一口でしかなく、それ以外に今まで味わってきたものとは全くの別物だった。ホワイトシチューのクタクタに煮込まれたジャガイモをスプーンですくい大きくほおばってみる。一筋の冷たい刺激を白いスープが包み込み、歯茎で噛んでも柔らかく崩れ口の中で溶けていくジャガイモは、生命のエキスを染み出していた。
 洗い物を済ませていたマスターは私の表情を汲み取ったのかようやく口を開いた。

「普通ってなんなんでしょうね。時計が左回りに進むように、昨日があって今日があり、明日がある。それはもちろん普通のことなのかもしれません。昨日のことばかり悔やんでいては先の明日は見えてきません。その反対に、明日の未来ばかり夢を描いて昨日の自分を振り返らないのでは上手く進むことは難しいと私は思っています」
 猫が撫でられた時に喉から発する音のように低く穏やかな声だった。スプーンを置き、もう一度ジョッキを口に運んだ。普通とはなんなのか。自分がマスターに口にしていたことを思い出した。"普通とは逆"。
「宇宙は広く、世界も広い。でも、もしかたら非常に狭いのかもしれません。それを私たちが考えるだけの脳の面積はさらにこれほどまでに狭い」
 マスターはシャツの袖を捲った腕を頭へ運び、大きさをジェスチャーして続けた。
「それでも多くのものを取り込んで考えることが出来る。新しいものを取り入れようとすればその領域や考えは広がってくんじゃないでしょうか。時間軸であっても空間であっても物体だとしても。普通というのは、普通と思ってしまうのは、脳がそうやって捉えていて固く閉ざしているだけなのかもしれません。同じ方向だけしか見ていなければ、反対の方向は見えません」

 マスターの言葉を反芻していた。その度に辛いカレーの刺激を求めて口にしたホワイトシチューの甘さは、仕事に奔走していて進むことしか考えていなかった自分を穏やかに包み込んでくれている。確かに、右があるから左はあり、朝があるから夜があり、昨日があるから明日があるのだった。ただし、それも当たり前で普通のことに思えて仕方がなかった。納得行かなそうな顔を察してかマスターは変わらぬ穏やかな声で質問を投げかけてくる。
「最近、つらいことはありませんでしたか」
「仕事があまりにも忙しすぎて、ちょっともうつらいなって。今日はもう投げ出してここにきちゃいましたよ。だからまあ、仕事でしょうか」
 ジョッキにまとわりつくように濁った泡が残っていたが、液体はもうほとんど残っていない。最後の一口を飲み込んでもう一杯おかわりを注文した。
「難しいことかもしれませんが、楽しいって思い込んでみてはいかがでしょうか。もしかしたらお客様の中で仕事はつらいというのが頭の中で"普通"になってしまっているのかもしれません」
 確かにそうかもしれなかった。つらくてもそれほど抱えてしまうほどどこかで楽しさを感じているのかもしれない。マスターはジョッキを新しく別の冷蔵庫から取り出し、今度はビールサーバーのノズルを引いた。輝かしい黄金色が勢いよく注がれ細かな泡がふきだして上層部に溜まっていく。
「無責任かもしれませんがお客様がやらなければいけないと思っていることは実はやらなくてもよいことかもしれません」

 彼の話していることは極端かもしれないが、その一方で全く極端ではないことを話しているような気がした。手渡されたジョッキは、ビール7:泡3の黄金比を保たれている。キンキンに冷えたジョッキは取手から指先へ広がり身体全体が凍えそうなほどだった。口に含んで一口二口と流し込んでいったビールはやはり美味しかったが、またどこか格別な美味しさも感じるその原因はわからなかった。マスターは口元を綻ばせた。
「美味しいでしょう」
「そうですね、やっぱりぐんと力強くのどごしっていうのを感じますね。でも先ほどのは柔らかくて優しさの中で鋭く突き抜けるような、なんていうのか初めての体験で」
「その気づきが大事なのかなと、私は思っています。あれは私の中で"オアシス"と名付けています。どこか砂漠の中で輝くオアシスのような、そんな比率なのかなと」
 マスターは濃く生え揃った髭を恥ずかしそうに撫でて今度は息を漏らして笑った。
「泡だらけの砂漠の中で、ようやくビールというオアシスに辿りつけた時の絶頂ということですね」
 唇の上についたビールの泡を舐めてから、きっと私も笑っていた。

 私はひょんなことから思いついて、マスターに話しかけていた。
「もうすぐ、平成が終わりますね」
 彼は洗い物の終えたグラスを光沢のある布で拭き取っていた。シャツから前傾に曲がった背骨がうっすらと浮かんでいる。その後ろ姿はどこか憂いを帯びているようだった。振り返らずに私の言葉を返した。
「終わりがあれば、始まりもありますね。この店も新たなスタートなのかなと」
 固くなった鍵盤のようにはっきりとした音を出さず含みのある声だった。彼はそのまま続けた。
「昭和生まれではありますが、私が自分自身を認識し始めてから過ごした時代です。平成という時代が好きでした。今まで当たり前だったものがどんどん変化していく。考えもしなかったことができる。途方もなく広い世界が近づいていく。私はやはりこの時代を生きていて、だからこそ思うところがあってこのバーを開いているのかもしれません」

 背後の二人組の会話が止み、スプーンと器のぶつかる音がはっきりと聞こえる。優しいシチューが喉から染みわたっていく。口にする度にカレーに対するものとしてホワイトシチューを提供するマスターの発想には、まだ疑問が残っていた。

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