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うつわのおはなし 〜小鹿田焼・唐臼のある風景【前編】〜

 プロローグ


うつわ好きの私は、時々、訪れたことのない やきものの里の情景を想像し、夢想にふけることがあります。(ちょっと異様かもしれませんけれど…。)

中でも しきりに思いを馳せて、「いつか行きたい、この目で観たい!」と、訪問を熱望していた里があります。


大分県日田市にある小鹿田おんた焼の里です。




タイムスリップしたかのような風景。
静寂な里に響きわたる唐臼からうすの音。
その中で自然と向き合い、寄り添い、朴訥ぼくとつと、静かに、熱く、真摯にやきものの伝統を守り続ける方々の暮らし。
そのような情景を、思い描いてきました。


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約ひと月半ほど前のこと
念願叶い、その小鹿田焼の里を訪れることができました。


想像どおりの場所でした。




その小鹿田焼のことを、2回に分けて 綴りたいと思います。
今回はプロローグのつもりで、小鹿田の場所や歴史、特徴の概要などを。
次回はなるべく具体的に、作陶工程などを綴ります。


はじめに
これは、うつわ好き素人が綴るエッセイです。
私なりに、出来る限り正確性を期するよう努めましたが、私個人の感想・表現も含みますことをご了承ください。

また、2回に分けたとはいえ、長文です。もしもご興味がありましたら、お時間のある時に どうぞお付き合いください。

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小鹿田の場所

小鹿田おんた焼が焼かれるのは、大分県日田市源栄町もとえまち皿山
最寄り駅は J R日田駅で、そこから車で40~50分、棚田のある美しい景色を眺めながら山道を進んだ場所にあります。

皿山は、急な山の斜面の 川沿いに並ぶ、十数軒の家からなる小さな集落で、うち現在9軒が窯元です。

九州地方では、古くからやきものを焼く場所を「皿山」といいますが、ここでは小鹿田の里を「皿山」と呼ぶことにします。

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日田市 豆田町付近

そこから少し走るとこんな感じ。
この先、道幅の狭い山道に。

皿山近く。
棚田の写真は全部失敗しました...

そして皿山。
晴れたり 曇ったり。




* * *


「おんた」という名前

「小鹿田」を「おんた」と読むのは不思議ですね。
名前の由来には諸説あり、結論を言ってしまえば 成り立ちはわからないのだそうです。
でも、ひとつ言えることは、昔、小鹿田は「鬼田」と表記された例があるということです。

小鹿田は、山奥の厳しい斜面を登っていかないと たどり着けない場所です。
「鬼田」は、おそらく土地が狭くて険しい田んぼであることからその字が用いられていたものであり、そこから「鬼カ田」、「鬼ガ田」と変化して、鹿の生息地であることから「鬼鹿田」となり、「小鹿田」の名になったのではないか、という説があります。

またもうひとつ、なるほど、と思うのは、「隠田」から「小鹿田」へ(あるいは「鬼田」へ)変化したのだという説。
昔から年貢の徴収を逃れるために、隠れて稲作が行われた場所を「隠田」(おんでん・かくしだ)といいましたから、その言葉に由来するのであれば、やはり役人の目の届かないような、山奥のヒミツの場所ということなのでしょう。 

いずれにしても、小鹿田の里は、秘境の地であることがわかります。



* * *

小鹿田焼の誕生と、特徴

小鹿田焼が誕生したのは、今から約300年前の江戸時代中期のこと。1705年~1735年の間と伝えられます。
まず福岡県で朝鮮人陶工を招いて「高取焼」が誕生し、それが元になって「小石原焼」が開窯します。
小鹿田焼は、その小石原から陶工を招いて開かれた窯です。
小石原焼と小鹿田焼には共通した技術などが多く、よく「きょうだい」と比喩されます。
ここまでの誕生の流れについては、「うつわのおはなし~高取焼と小石原焼」で触れましたのでよろしければご覧ください。


陶工を招いたのは、日田郡大鶴村(現 大分県日田市)の黒木十兵衛、招かれたのは小石原村(現 福岡県朝倉郡東峰村)の柳瀬三右衛門で、小鹿田焼は、その黒木と柳瀬により開窯されました。
その後、柳瀬に土地を提供した坂本家が加わり、以来 小鹿田焼はずっと、黒木家、柳瀬家、坂本家の三家の流れをくむ窯により継承されています。

三家の流れのみで現在に至っているのは、一子相伝で脈々と受け継がれているためです。

外からの弟子も一切受け付けず、ご家族だけで、いえ、ご家族総出で全ての工程をこなし、時間をかけて制作します。

また、窯元全体が、昔から同じものを、同じようにつくりあげるもので、うつわに個々の窯元名や個人名を刻むことはありません
(世に出るものについては。)

九州のやきものは、秀吉の朝鮮出兵の際に、大名たちが高い技術を持つ朝鮮半島の陶工たちを連れ帰り、栄えました。有田焼をはじめ、多くの窯は、殿様のために 競うように美しいうつわを焼きましたが、山奥の小さな集落で誕生した小鹿田焼は、民衆向けの日用品を焼き続け、また昔ながらの手作りの伝統を守り抜いています。





* * *

民藝運動による 小鹿田焼の名の広まり

その小鹿田焼が全国に広く知られることになったきっかけが、昭和に入ってから2回起こりました。

一度目は、昭和6(1931)年に、民藝運動のリーダー・柳 宗悦がこの地を訪れ、『日田の皿山』を著して称賛し、世に紹介したこと。

二度目は戦後 昭和29(1954)年に、柳の民藝運動の朋友であり日本の美術界に多大な影響を与えたイギリス人陶芸家・バーナード・リーチが小鹿田で制作を行ったことで、民陶(民藝陶器)として さらに知れ渡ることとなりました。

リーチが来訪するということは、とてつもない大事だったようで、大分県はリーチを小鹿田に迎え入れるために、道路を1本ひいたほど。
現地での歓迎ぶりは、リーチ自身の著書『日本絵日記』や、浜田マハの小説『リーチ先生』を読むと、目に浮かぶようです。(※)

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「民藝」について
上記のように、民藝運動により見出され、一躍脚光を浴びることになった小鹿田焼。
「民藝とは何か」ということは、私などが簡単に語れるものではありませんけれど、サイトから引用しつつ、少しだけ。

「民藝」とは、今から約100年前に 柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎らが作り出した、当時の新しい美の概念です。

日本民藝協会のホームページによると、

柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。

とあります。

また同サイトで「民藝運動」については

失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らしました。物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。

と。

さらに、柳は、民藝品の特性は「実用性」「無銘性」「複数性」「廉価性」「労働性」「分業性」「伝統性」「他力性」であるとし、またそこに宿る民藝美の内容を、「無心の美」「自然の美」「健康の美」であると説いています

(また「用の美」という言葉も、柳が産んだ民藝美を指す尊い言葉です。)


小鹿田の里を訪ねると、その特性や、そこに宿る美というものが、なんとなく五感を通じて涵養されるように感じます。
先述した、うつわに個の窯元名や個人名を刻まないというのも、私の目には、民陶としてあり続ける意志の 証のように映るのでした。

みんなが『小鹿田』の刻印を。


・・・人にとっても、その手仕事にとっても、理想は「調和」であり、「自己」と「非自己」との間の、また人間の作品の美と 自然の美との間の諧調である。

バーナード・リーチ著(柳宗悦 訳、水尾比呂志 補訳)『日本絵日記』講談社学術文庫p23 



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日本の宝

小鹿田がいかに素晴らしいところなのかということは、次の3つの選定状況をご覧いただければわかるかもしれません。

■ 重要無形文化財

1995(平成7)年に、「小鹿田焼」が工芸技術として国の『重要無形文化財』に指定。
小鹿田焼の窯元10軒(現在9軒)で構成される「小鹿田焼技術保存会」が、その『技術保持団体』として認定されました。

重要無形文化財の技術保持者として、人ひとりが認定されると「人間国宝」と呼ばれますが、小鹿田の場合は皿山にある窯元全戸が、ひとつの国宝とされたのです。とても珍しいことです。

■ 重要文化的景観

2008(平成20)年に、「小鹿田焼の里」(小鹿田皿山・池ノ鶴地区)が、『重要文化的景観』として選定されました。

日田市のホームページでは、『「小鹿田焼の里」は、地域の資源を活かし、窯業や農業といった当時の生活や生業のありかたを理解する上で貴重な文化的景観』だと紹介されています。


 残したい”日本の音風景100選”

1996(平成8)年に、「小鹿田の唐臼からうす」が、残したい”日本の音風景100選” に選定されました。


私が陶酔した唐臼の音風景です。
唐臼とは、川の水力を利用し、ししおどしの要領で陶土を砕くもの。
今回タイトル画像にしたこちらは、唐臼の先端部分です。


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次回へ

小鹿田焼が、国の重要無形文化財に指定された理由を抜粋すると、

…今日まで伝統的製作工程による健全な作風が堅持されており、主として地元産の原料を用い、原料の製造・加工および作品製作にも伝統的な用具を使用する伝統的かつ地域的特色を有する技法が最も純粋に継承されている。

文化庁HP

とあります。

ここに出てくる「伝統的な用具」とは、つまり、動力に電気やガスを一切使わない道具のこと。上記の唐臼も、そのひとつです。

唐臼も含め、伝統的用具を用いた作陶工程とは具体的にどのようなものなのか、現地で撮影した写真を添えて 次回綴ってみたいと思います。


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(※) 『日本絵日記』と『リーチ先生』について

バーナード・リーチ著(柳宗悦 訳、水尾比呂志 補訳)『日本絵日記』講談社学術文庫は、昭和28年2月から1年10カ月の間、バーナード・リーチが日本各地を巡った際に自身が綴った「絵日記」です。(後にリーチにより改変されたもの。)
リーチの感性や鋭い洞察が随所にちりばめられています。リーチが関わった事柄について、真実を知るのに役立つ本でもあると思っています。

浜田マハ著 『リーチ先生』集英社文庫は、フィクションとノンフィクションが見事に織りなす素敵なものがたり。
実はまだ読了していないのですが… 民藝の世界、リーチと父子・師弟の ものがたりをゆっくり味わいたいと思っています。


この『リーチ先生』を教えてくださったのは、dekoさんでした。

私はdekoさんの大ファン。いつも胸に染み入るような美しい情景描写で素敵なおはなしを紡がれます。
小鹿田の感動の真っ只中にいた私に、この本を教えてくださったdekoさんと、
noteの繋がりに感謝いっぱい♡



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長くなりました。
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。



よろしければ、続きも。。。





2021.12.22.  「後編」をアップいたしました。






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